10.『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』について(その2)
――出来得る限り分かり易く整理するために、論稿が少し長くなる――
アンセルムスの思惟と語りの態度は、「『プロスロギオン』の中で明らかになってくる」。「アンセルムスのおそらく学問的に最も完全な書物、『神ハナゼ人間トナラレタカ』こそが、この態度を繰り返し看破させているのである」――「『そのような箇所の魅惑する言葉を、人は、啓蒙主義がヘンデル、古典主義、ロマン主義によって克服されて以来確かに聞くことができる。……また今日でも、人は、〔アンセルムスの思惟と語りの生きた総体性を理解せず、〕それらのものを〔生来的な自然的な〕心の純粋に<主観的な>実行として受け取り、……その後に続く論理的なことを、〔生来的な自然的な〕悟性の純粋に客観的な実行として受け取っており、そのように打ち込まれた楔によって、初めから、両者に対する生きた理解に対して自分を閉ざしてしまっているのである』」。したがって、この「W・シュタイネンの……苦情は、あまりにも正当なものである」。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性〔客観的な「存在的な<必然性>」〕を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとしたが、そのことを人は合理主義だと批判した」。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」。すなわち、アンセルムスは、神学を<一般的な>真理としてではなく、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別「啓示から得られた認識の可能性について考えた」のである。言い換えれば、アンセルムスは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に感謝をもって信頼することを、そしてその<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を堅持したのである。アンセルムスは、「神ガオソレ多クモ私ニ教示サレルコト、というように説明しようとする」――「神ノオ援ケト貴君〔「会話相手」〕タチノ祈リニヨリ、……ソモソモ、貴君タチガコノコトヲ要望シ、私ガコノタメニ祈ルヨウニ願ッタ時、貴君タチハ繰リ返シソレヲ約束シテクレタ」。アンセルムスは「その会話相手に対して」、「その質問と共にそれを引き受けた教師のための執り成しの祈りの義務のことを思い出させる」。「論証を実行しつつあるその特別な高所において、ボゾ自身は、祈り求める『神ハホムベキカナ』で、論述を中断する」――「……スデニ私タチノ求メテイルモノニ関シテ、アル偉大ナコトヲ見イダシマシタ。ドウゾ、始メラレタトキノヨウニ、ソノママ続ケテクダサイ。神ノゴ援助ヲ希望シマス」。何故ならば、「真理の道において導くことは、実際には、ただ神の事柄でだけあり得るであろう」からである――「貴君ヲ導イテイルノハ私デハナイ。ムシロ、私タチガソノ方ニツイテ今語リ、ソノ方ナシデハ何事モ私タチニハ出来ナイ方コソ、真理ノ道トシテ私タチガ信ジテイルスベテニ私タチヲ導イテクダサルノデアル」。このことに「著作の結論の言葉が対応している」――「シカシ、私タチガ理性ニヨッテ発見シタト推察スルコトガ、真理ノ証言〔すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている神としての神の特別啓示の「真理ノ証言」〕ニヨッテ確認サレルナラバ、ソレヲ私タチハ自分タチニダケデナク、永遠ニ祝別サレル神ニ帰スベキデアル」、「ソノウチデ疑問ニ対シテ満足ノイク回答ヲ与エ得タナラ、ソレハ私ノシタ業デハナク神ノ恩寵ガ私ト共ニシタコトデ、私ニ帰セラレルベキデハナイ」。イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の客観的な「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」(換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活に出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>主観的な「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>からして、「正しい知解」は、「アンセルムスによれば、それに<先行して>、共に働く神の恵みを通して条件づけられているということを指し示す一般的な指示でもって、それ自体正しい指示でもって言い尽くしてはいない」とされる――「知解は、教会の主〔すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身〕が教会の中で分与することをやめ給わない恩寵の賜物に属している。『宣教モ恩寵デアル、マタ聞クコトモ恩寵、聞クコトカラ理解スルコトモ恩寵、意志ノ正直モ恩寵デアル』」。「この一般的なものでもって、そしてこの恵みがその都度祈られなければならないということでもって」、「信仰の知解への最後の決定的な能力は、〔生来的な自然的な〕人間的理性の自発的な活動とそのまま一致せず、そのような能力は、〔生来的な自然的な〕人間的理性の自発的活動に対して、知解スルことが〔主観的な「認識的な<ラチオ性>」としての徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性の〕意志的行為であることが確かである限り、ただその都度〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断により〕贈り与えられることができるだけであるということが言われている」――「ソコデ、信仰ニ理解ヲ与エル主ヨ、……私ガ理解スルヨウニ計ラッテクダサイ」、「アナタノミモトニ私ヲ引キ上ゲテクダサイ!」。この神のその都度の自由な恵みの神的決断により「贈り与えられた能力」は、「知解が行われるために必要な論理的な作業の遂行が正しく為されることから成り立っているということも正しい」。「恵ミノ賜物、換言すればアンセルムス的祈りの対象」は、「この側面から見て、人間的な思惟の、願望されそこで起こる最高業績と同一である――「アナタヲ凝視スルタメニ、私ノ精神ノ眼ヲ浄化シ、イヤシ、鋭クシ、『照ラ』シテクダサイ」。しかし、このことは、知解の出来事の「事柄の一つの側面〔知解の出来事の事柄の主観的側面〕でしかない」。
そこで、「決定的なテキスト、『プロスロギオン』への導入の祈りを注意深く読むならば、アンセルムスは、彼の祈りの対象として常に二重のことを念頭に置いていたことが示されるのである」――それは、「一つには、確かに、神が彼の心に、『ドコデ、ドノヨウニシテ、アナタヲ求メタラヨイノカ』教えて下さるように、神が彼の目を照らし出し、神を見ることができるように、神が生まれながらにして地にのたうち回っているものの身を起こしてくださるようにということである」。「人は、このことの中で、事柄のあの〔主観的な〕一つの側面〔前段を参照されたし〕、人間に対してもともと起源的に創造と共に与えられている〔生来的な自然的な〕認識能力を実現させることとしての恵み〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」としての徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性〕を再認識しなければならないであろう」。「しかし、知解の出来事は、それ故に祈り求められた恵みは、明らかにもう一つの<客観的な側面>を持っている」。「アンセルムスは、あの願いと共に第二の願いを置いている」。「このテキストの基本的な調子と直面して、その第二の願いを、第一の願いの単なる修辞的な繰り返しとして受け取ることは、排除されている……」。すなわち、その全体性において受け取ることを要求している。アンセルムスの「第二の願いは、こうである」――「神が彼の心に、『ドコデ、ドノヨウニシテ、アナタヲ見イダシタラヨイノカ教えて下さるように。神が彼に対して、そのご容顔を、ご自身を、顕わして下さるように』」、「私タチニアナタゴ自身ヲ顕ワシテクダサイ」、「神がご自身を彼に対してもう一度贈り与えて下さるように」。アンセルムスは、「信仰者も圧迫されている人間が神を認識できないという人間的な非認識の困窮状態」を、「信仰者も原罪を持った人間性により、神から遠ざかっている……ということから説明する」――「アナタハ私ヲ創造サレ、マタ再創造シ、私ノスベテノ善ハアナタガ私ニ付与サレマシタ。シカシ、私ハアナタヲマダ仰ギ見タコトハナイノデス」、「神ヨリ遠ザケラレタエバノ子孫ノ一人デアル私ハ不運デアル!」。それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間からは、「客観的に、神ご自身が遠くにいます……」、それ故に生来的な自然的なわれわれ人間にとっては「神は不在である……」。したがって、生来的な自然的なわれわれ人間は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>――すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>主観的な「認識的な<ラチオ性>」を必要とするのである。「神をあこがれ求める人間は何をすべきであろうか」。「アナタヲ仰ギ見ルコトヲヒタスラ願イマスガ、アナタノゴ容顔ハアマリニモ遠ク離レテオリマス。アナタニ近ヅクコトヲ望ミマスガ、アナタノ住マイハ近ヅキガタイノデス。……シカモ、『主ヨ、イツマデ』私タチヲ『主ヨ、イツマデ忘レラレルノデスカ』。私タチカラ『イツマデソノゴ容顔ヲソムケラレルノデスカ』。私タチヲ主ハイツ顧ミ、私タチノ言葉ヲ聞カレルノデスカ。……イツ『アナタノゴ容顔』ヲ私タチニオ示シニナラレルノデスカ」。「アナタガオ教エクダサラナケレバ、アナタヲ求メルコトハ出来ズ、アナタガ顕ワシテクダサラナケレバ、アナタヲ見イダスコトハ出来マセン」。この「二重性がまさに力を奮う」。「ただ単に、神を正しく尋ね求めることが問題であるだけでなく、同時にそれと共に、(そしてそれが初めてキリスト教認識の全き恵みであるのであるが)、〔先行する〕神の現臨が、われわれが神を尋ね求めることを通してはたとえそれがどんなに純粋なものであろうとそれ自身ではつくり出すことができない(もっとも純粋な心をもって神を尋ね求める者の身にのみ起こるのであるが)、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた〕神との出会いが問題である」。また、ここでは、「資格づけられた知解スルintelligereことが問題である」。したがって、「人間は、神のご容顔のいくらかを見るようになる資格づけられた知解スルintelligereことこそが、祈り求められなければならない」。「なぜならば、すべての正しい尋ね求めることも(それもまた恵みなのであるが)、もしも神がご自身を『示され』ないならば、もしも神との出会いが、神からして現実となり、まさにそのことでもって見出すこと、資格づけられた知解スルintelligereことが出来事となって起こらないならば、何の役にも立たないからである」、換言すればイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいたものでないならば、「何の役にも立たないからである」。
前述したことからして、「『プロスロギオン』の中で明らかになってくるアンセルムスの態度が初めてよく理解できるものとなる」。「アンセルムスの態度」は、「それがよくなされるように自分の行為を神の行為に奉仕させる『敬虔な』思想家の態度であるだけでなく、それは、そのことを超えて、彼の学問的な即事性の特定の……決定的な表現である」――「私ノ願イヲ増シ、私ガ望ムモノヲオ与エ下サイ。ナゼト言ッテ、仮ニアナタガ、造ラレタモノスベテヲ私ニ下サッテモ、モシモアナタゴ自身ヲオ与エ下サラナケレバ、アナタノ僕ハ満足シナイカラデス。デスカラ、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕アナタゴ自身ヲ私ニ与エ下サイ、ワガ神ヨ、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕アナタヲ私ニ下サイ」。「アンセルムスの態度」は、「ただ単に彼に対して、神が、神について正しく考えるよう恵みを与え給うということによってもってかかっているだけでなく、神ご自身がこの思惟の対象として舞台に登場され、ご自身を思想家に対して『示し』、それと共に『正しい』と考えることを実在トシテ存在スルコトヲ知解スルことへと資格づけ給うということによってもってかかっている」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神が、ご自身を思想家に対して、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて知解スルことへと資格づけ給うということによってもってかかっている。この時、「初めてキリスト教認識の恵みが完全となる」。「『プロスロギオン』の著者」アンセルムスは、「この完全な恵みを無理に奪い取ることの中でではなく、この完全な恵みが欠けてはならないことを知る知識の中で、彼がはじめた神への語りかけの中に、神に相対して立っている者……の態度の中に、あくまでも堅くとどまるのである」。何故ならば、「彼は、彼の知解スルintelligereこと」が、人間学的領域における「『自然』神学」としての学業的な「単なる知識」に過ぎない「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)におけるような「空しい泡沫ではなく」、「彼自身が結局、愚か者であるべきではないとしたら、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>において、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神が彼に相対して立たなければならないということを知っている」からである。このような「態度の中で、知識〔すなわち、人間学的領域における「『自然』神学」としての学業的な「単なる知識」ではないところの、認識(信仰)としての知識〕の中で、『プロスロギオン』二-四章の証明はなされる。そのことは、その理解とその解釈にとってどうでもよいものではあり得ないのである」。「確実な本能をもって」、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)を堅持しないところの、それ故に「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」を惹き起こす人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見したヘーゲルの「強力な痕跡を持っている」「『自然』神学」の<段階>で停滞し循環する人々(『ヘーゲル』)を見抜いた「キルケゴール自身、そのところで、アンセルムスの神証明に関し、彼にとって興味あるものを見出したのである。『それにしても、これは、証明する独自な仕方である。アンセルムスは言う、私は神の存在を証明しよう。この目的のために、私は神に、私を力づけ、助けて下さるようにと祈る、と。しかし、そのことは、神の存在証明するはるかによりよい証明である。すなわち、それは、人が、神の存在を証明するためには、神の助けを得なければならないとあのように強く確信していることである。もしも人が、神の助けなしに神の存在を証明することができるとしたらならば、神が存在することは、それほど確かではなくなることになるであろう』(W・ルッテンベック『セーレン・キルケゴール』)」。「もしも人が、神の助けなしに神の存在を証明することができるとしたらならば」、その時には、その神は、フォイエルバッハから、客観的な正当性と妥当性とをもって、次のように根本的包括的に原理的に批判されてしまうであろう――「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演」)、それ故に「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、それ故に「(中略)神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、〔類的機能を持つ自由な〕人間的理性や〔際限なき〕人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……(『キリスト教の本質』)、と。このような訳で、ハイデッガーからは、「いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神を見失うこと」であるから、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」(木田元『ハイデッガーの思想』)と「揶揄」され批判されてしまうであろう。
(9)「最後に、確かめたことを総括する」。
(ⅰ)「アンセルムスにとって問題であるところの学問、知解は、信仰ノ知解である」。
それは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神を尋ね求める「神への愛」から「成り立つことができるだけである……」。
(ⅱ)「信仰ノ知解は、信仰の規範をそれとして基礎づけはしない……」。
そのことを、「まさに……その理解を絶した不把握性の中で知解しなければならない……」。何故ならば、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在しており、われわれ人間は「神の不把握性」の下にあるからである。したがって、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づかなければ、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の「信仰ノ知解」を贈り与えられないからである。
(ⅲ)「信仰ノ知解は、信仰の規範に相対して、その反映、その比喩の平面の上を動かなければならない……」。
「信仰ノ知解」は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉(「その最初の直接的な第一の」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、「啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配・標準とするところの、それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられた第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo、「啓示の<しるし>」の<しるし>)を、「キリスト教に固有な」類を深化させ豊富化させ、その類を時間累積させて行かなければならない。何故ならば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということの<しるし>である」からである(『教会教義学 神の言葉』)。
(ⅳ)「信仰ノ知解は、その結果として、信仰の確実さではなく、ただ……学問的な確実さだけを主張することができる」。
何故ならば、学問としての第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)である<教会>教義学が、それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられた教会の宣教およびその神学の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準である第二の形態の神の言葉である「『使徒と預言者たちに基づいて』何をわれわれ自身が語るべきかを問うならば」、「その時だけ、キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請されことを〔すなわち、命じられ・要求されていることを〕知る」ことができるし、<教会>「教義学そのもの、また神についての教会の語りは、信仰のない人間の、信仰にさからう理性を用いての語りであるが、〔<教会>〕教義学そのものが、神についての語りをはかる規準を、「先ず第一義的に優位に立つ原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準としての「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕」イエス・キリストの中で、受けとる限り、〔学問としての<教会>〕教義学は真理の認識として可能となる」からである。その時、学問としての<教会>「教義学は、人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語ることができる」。その時また、「学問的(神学的)な確実さ」を得ることができる。したがって、逆に言えば、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指すことのない人間学的領域における「『自然』神学」としての学業的な「単なる知識」としての「形而上学的な教義学は、それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても、その教義学は、〔学問としての〕教義学としては非学問的なのである」(『教会教義学 神の言葉』)。「信仰ノ知解は、これらのその結果の原則的な完全性を否定しはしはしない……」。
(ⅴ)「信仰ノ知解は、啓示された信仰の規範の基本的なテキストとしての聖書と、いかなる場合にも決してはっきりとした矛盾の中に自分を置くことはできない……」。
(ⅵ)「信仰ノ知解は、もしもそれが〔「聖書への絶対的信頼」に基づいた、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性における(『説教の本質と実際』および『教会教義学 神の言葉』)〕服従の信仰の知でないならば、それは、現にあるところのものでないし、現になすところのことをなしていない……」。
(ⅶ)「信仰ノ知解が目標にまで来るということは、最後に、人間的な運動に関しても、それからまた目標が与えられることに関しても、<恵み>である」。
因みに、『教会教義学 神論』によれば、「神の恵み〔「神的な賜物……の総内容」〕――すなわち、「啓示者である父に関わる創造、啓示そのものである子に関わる和解、啓示されてあるものである聖霊に関わる救済」、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>は、「確かにきわめて『超自然的な賜物』でもあるが」、それを「与える方自身、〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」、この〕神ご自身」が、徹頭徹尾神の側の真実として、「自分自身を賜物とすることによって、自分自身、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、神とは全く異なる〕他者との交わりの中に赴き」、それ故に「自分自身を他者に相対して愛する者として示し給う限り」、「ご自身と……被造物の間に直接交わりを造り出し、保ってゆくことである」から、「そのような賜物なのである」。「神が恵みを与え給うことの<原型>は、神の言葉の受肉〔その内在的本質である神性の受肉ではなくて、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における言葉の受肉〕、神と人間が<イエス・キリストにあって一つ>であることである」。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の<人間に対する神の愛>と<神に対する人間の愛>の同一である」(『ローマ書』)。
このような訳で、「信仰ノ知解は、最後的には祈りおよび祈りの聞き届けの問題である」。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学の思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」が故に、それは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈り」の態度〕に対し神が応じて下さる〔祈りの聞き届け〕ということに基づいて成立している」(『教会教義学 神の言葉』)。
「神学の道」(1)
「知解スルintelligereという動詞の文字通りの意味」――すなわち、「intus legere内部ニ立チ入ッテ読ムコトをどこかで想起することが適切であるとすれば、アンセルムスにおいて知解スルintelligereこと」は、「原則的に、読ムlegereことを、すなわち〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての〕Credoの中であらかじめ〔先行して〕語られていることを、〔後続して〕後から考えることを意味している」。
第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の「真理を知るようになりつつ、さらに真理を肯定することの中で、知解スルintelligereこと」は、「ただ単に信ジルcredere〔すなわち、教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)を信ジルこと、換言すれば「Credoを信じる信仰自身」〕ことと同時に起こるというだけでなく、「素朴な形での知解スルintelligereこと」というだけでなく、それは、「それ自体信ジルcredereことであるし、あり続ける」。しかし、「知解スルintelligereこと」は、「あらかじめ〔先行して〕語られたことの中で、内部で読むこと、〔後続して〕後から考えること、換言すれば〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理を、自分のものとしながら、知識として受け取ることと肯定することの間にひろがっている道程を実際に通り抜け、今や……〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理を真理として<理解する>ことを意味している」。「信ジルcredere〔すなわち、教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)を信ジルこと、換言すれば「Credoを信じる信仰自身」〕こととこの本来的な知解スルintelligereこと」は、「ただ単に概念的に区別されなければならないだけでなく、実践的にも一致しないものであって、信仰者は、信仰ノ知解intellectus fidei〔すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての〕「Credoの考え抜かれた理解」〕をそのまま単純に、すなわち自動的に手に入れられるわけではないのである」。「信仰者」は、「信仰ノ知解intellectus fidei〔「Credoの考え抜かれた理解」〕を手に入れる」ためには、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、また聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)、「教会の啓示されたCredo」(換言すれば、「啓示の<しるし>」の<しるし>)の「包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求める」(『啓示・教会・神学』)という仕方で、「信仰ノ知解を、祈りのもとで、力を尽くして理性的能力を用いつつ探し求めなければならないのである」。
そのような訳で、アンセルムスの「知解スルintelligereことが、深められた形のものであるとはいえ根本的には読ムlegereことということでしかないということ」――この点が、「アンセルムスとその時代の『自由主義』神学者とを区別している点であり」、また「アンセルムスのそれが深められた読ムlegereことであり」、「中で、内部でintus読ムlegereことであり」、それ故に三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)、さらに引き続いてその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としての「Credoの中で、内部で読むこと」(終末論的限界の下で絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で読むこと)であり、それ故にそれに後続して「後から(後に続いて)考えてゆくことであるということが、同じように明確に、アンセルムスとその時代の『積極主義者たち』、伝統主義者たちとを区別している点である」。
第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおいて「啓示された真理は、いわば(われわれから見て)内的なテキストを持っている」。言い換えれば、それは、先ず以て、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリストという「内的なテキスト」を持っている――この「<内的な>テキストは、もちろん(われわれから見て)外的なテキスト」、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」、その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解」の「概念の実在」、第二の形態の神の言葉である聖書の、「その権威のある主張から見ても、われわれの信仰という点から見ても」、キリストにあっての神としての神の特別「啓示の真理であるということ以外のことを語っておらず、またその内的なテキストは外的なテキスト以外のところで見出されることもないのであるが」、「しかもそれでいて、ここで外的なテキストを聞き読み取ることはそのまま内的なテキストを聞き読み取ることになるということでは決してなく」、「特別な意志と特別な行為によって、なかんずく特に決定的なこととして、特別な恵みによって」、換言すれば客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」(すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を前提条件とするところの、主観的な「認識的な<ラチオ性>」<と>客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である「外的なテキスト〔聖書〕の中で尋ね求められ見出されなければならないのである」。その「最初の直接的な第一の」「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「聖書は、もちろん、完全ナ真理ヲイワバ確固トシタ基盤トシテ、ソノ〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身の〕上ニ建テラレテイル(Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)。そして、この聖書の『基盤』〔すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身〕がわれわれに対して信仰の中で〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件として(換言すれば、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて)終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の中で〕啓示されるのである」。「まさに、聖書の基盤がそのように啓示される時」、「それは、われわれの知解にとって問題となり」、「われわれは、啓示されたものと信じられたものを」、「『自分自身』の限界の内部で、それ故に『いくらかでも』、神ノ援ケニヨッテイクラカナリトモ<瞑想シテキタ>……真理ヲ」、「洞察すべき課題の前に置かれるのである」。したがって、「ただ単に客観的真理そのものだけではなく、またわれわれによって洞察されるべきその内的な意味、根拠、関連性も、聖書が語っていることは、それが語っている通りのものであるということを証しすべきなのである」――「……個々ノ研究ヲ通シテ達シタ結論ハドレモ……、ソレハ推理ノ必然性ガ簡潔ニ要求シ、真理ノ明晰性ガ明ラカニ証明スルモノデアルコトヲ表示シテホシイトシタ」「……推理ト真理ニヨッテ証明スル」。
「神学の道」(2)
「知解スル(理解スル)intelligereこと」は、「決して〔瞑想スル〕perspicereことではないであろうから、われわれが、信仰命題を基礎づけるために、その内容を確証している聖書の言葉を思い出すことから成り立っていることはあり得ない」。「そのようなことは、……欠かすことができない知解スル(理解スル)intelligereことの前提に、信じるところの読ムlegereことに立ち帰ることを意味するであろう」――「アンセルムスは、神学者として……立証スルトイウヨリモ、貴君ト共ニ探究シようと欲する」。「不信者たちの抗弁と嘲笑」、「また信じるキリスト者たちも持っている不確かさ」、「教養のある者と教養のない者たち」、「異教徒タチハ、キリスト教ノ信仰ノ単純サヲ狂気ザタトシテ愚弄シ、コノ質問ヲ、私タチニ浴ビセカケ、マタ信者ノ多クモ心ノウチデソノコトニ思イヲメグラシテキタ。……コノ問題ニツイテハ、有識者ノミデナク、多クノ無学ナ者モ尋ネ、ソノ理由ヲ求メテイル」――こういう「教養のある者と教養のない者たち」が、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書と〔その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての〕Credoの本文に対して問うもろもろの問い」は、キリストにあっての神としての神の特別「啓示の内的なテキストと外的なテキストというものが、われわれ人間にとって、いずれにしても一つではないということ、それらのテキストの意味、根拠、関連性は、それらと共にそれらのテキストの真理は、われわれによって、いずれにしてもそのままただ読み取られることはできないのであって、むしろわれわれとって、広い範囲にわたって闇の中に閉ざされており」、それ故に「特別な、読むことを超え出ている運動でもって」、換言すればイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の運動でもって、「把握されなければならないということを示している」。客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件として(換言すれば、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」から、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて)終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰の中で自分のものとされた言葉」は、「確かに、……単なる理解ノウチニアルモノヲ意味スル言葉としても、それ自身、意味、根拠、関連性に満ちた祝福を与える全き真理である」。それは、「まさにそのようなものとして……われわれによって把握されることを欲している」――「ソレ故ニ、彼ハ、非常ニ熱心ニ心ヲコノコトニ向ケタノデ、彼ノ信仰ニ基ヅイテ、精神的理性ヲモッテ、聖書ノ中デ、暗闇ニ覆ワレテ隠サレテイルノヲ感ジル多クノモノヲ理解スルコトガデキタ」。
そのような訳で、「『聖書的根拠』を断言的に引用してくることは、確かに問題をもう一度立てるであろうが、しかし問題と取り組むに当たって何も貢献しないであろう」。何故ならば、それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられた第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学にとっては、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、また聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的な>信仰告白および教義(「教会の啓示されたCredo」、換言すれば、「啓示の<しるし>」の<しるし>)の「包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求める」(『啓示・教会・神学』)という仕方で、<純粋な>教えとしてのキリストにあっての神としての神を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音と告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くことが問題であるからである。このことを、「アンセルムスによって鮮明に強調された方法論的な原則」が、すなわち「知解スルintelligereことと証明スルprobareことが問題である時には、聖書の権威を引き合いに出すことでもって作業がなされてはならないという原則が語っている」。「ソコデ(スナワチ黙想ニオイテ)行ナウ証明ハドノヨウナ事モ聖書ノ権威ニ全ク頼ラズ、……証明スル」、「ドウセコノ人間ハ聖書ヲ信ジテイナイカ、曲解シテイルノダカラ、聖書ノ権威ヲモッテ彼ニ答エテハナラナイノデス」、「……私タチガ信ジテイルコトハ、聖書ノ権威ヲ借リズニ、……証明サレ得ルトイウコトデシタ」――「この原則の特別な適用」は、「多くの異議が唱えられた規則……の下にアンセルムスはその著書『神ハナゼ人間トナラレタカ』の中で自分の身を置いた規則」、「すなわち、このキリスト論的な詳論においては、キリストニ全ク何事モ起コラナカッタカノヨウニ彼ヲ括弧ノウチニ入レ……キリストニツイテ……何事モ知ラレテイナイコトトシテ、議論が展開されるべきであるという規則にある」。「……受肉……ハ全クナカッタモノト仮定シヨウ」、「私タチハキリストトキリスト教信仰ガ全ク存在シナカッタモノト仮定シタ」、「彼ニツイテ、コレマデノヨウニ全ク存在シナカッタトシテ……」、「……先験的ニ……」。しかし、これらのことは、アンセルムスが、「信仰ノ知解〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての「Credoの考え抜かれた理解」〕を尋ね求めるために、そもそも聖書の内容を知ることなしに、白紙で、Credoを、(≪生来的な自然的な人間的理性によって≫)ほかのところで得られた認識の諸要素から再構成するために、〔彼の思惟と語りにおける〕彼の考えの源泉および標準〔・原理・規準・法廷・審判者・支配者〕としての聖書を用いないことにしたということを意味してはいない」。
そのような訳で、「一義的に、……〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書<と>〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての〕Credoは、アンセルムスのところでは、……一瞬間たりとも彼の前提および対象であることをやめてしまうわけではなくて」、「ただ彼が……それに対し学問的に答えるべき特別な問題に際しては、その答えを、聖書の、すなわちCredoの諸命題から引き出してき、それの権威でもって基礎づけることを……やめようとしているだけであるということが結果として生じてくる」。したがって、アンセルムスは、「聖霊の発出についてのローマ・カトリックの教えを、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書<ト>〔第三の形態の神の言葉である教会に属する〕聖ナル父タチノ無数ノ証明ヲ用イずに、まさに、ほとんど引用を用いることなしにことを処理し、済ませる神学的な記述の仕方の巨匠なのである」。
そのような訳で、アンセルムスのその「方法論的な定式」は、第二の形態の神の言葉である聖書と第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としてのCredoの「権威を引き合いに出す」のではなく、「『理性ノミ』で検討され・立証され・確信させられ、ユダヤ人たちに対して、また異教徒たちに対してさえ、議論において満足が与えられるべきものである」と言われているのであるが、しかし、アンセルムスのその一面だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化し絶対化して、それ故に抽象的ニ、「アンセルムスが理性ノミと書いていたかのように理解されてはならない」のである。何故ならば、その「方法論的な定式」の<全体性>における「アンセルムスの理性は、ちょうど〔「福音と律法」を二元論的に分離し対立させたルターにおいてであれ〕ルターの信仰〔すなわち、「『信仰ノミ』が行いを結果として自分の下に持っているのと同じように」、必然的に、起源的な第一の形態の神言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書<と>その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的な>信仰告白および教義としてのCredoの〕(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするおよびその≫)権威を前提として自分の下に持っている」からである。また、その<全体性>において、「ちょうどルターによれば、ただ信仰のみが義とするように、アンセルムスによれば、ただ理性だけが証明する(狭義のより厳密な意味での知解スルintelligereことに奉仕する)法廷として認められるべきである」とされる。
「神学の道」(3)
「『探究』の手段を表示することができる」「奪格においても……用いられ」、「『探究』の目標を表示することができる」「対格においても用いられる」アンセルムスにおける「ラチオratio」(「根拠」、「原因」、「理由」、「理性」)は、「何を意味しているのか」。
(A)アンセルムスが、「ラチオratio<ニヨッテ>という時」、「あるいはスデニ理性ノ指導ノモトニ……あるいは理性ノ教エルトコロニ従イあるいは理性ノ……指導ニヨリあるいは理性的ニあるいは諸根拠カラあるいは必然的理由ニヨッテという時」、「ラチオは尋ね求められた知解への<道>を表示しているように見える」。
(B)それに対して、アンセルムスが、「〔根拠ヲ熱望スル〕rationem esurire、〔求める〕quaerere、〔示す〕ostendere、〔知解スル〕intelligereことについて、〔根拠ニ関シ黙想スル〕meditari de rationeについて語る時」、「ラチオは、尋ね求められた知解そのものを表示しているように見える」。したがって、前者の場合には、「知解する人間的なラチオ」(奪格的側面、探究の手段)を、後者の場合には、「信仰の対象そのものに固有なラチオ」(対格的側面、探究の目標)を考えることがゆるされるであろう」。
アンセルムスは、「ラチオratio」(「根拠」、「原因」、「理由」、「理性」)を、人間の感覚と知識を内容とする「経験と取り組むに際しての概念能力および判断能力」と表示し、「人間ノ中ニアルスベテノモノノ原理オヨビ判断〔このことは「異端的な詭弁化の肉欲主義に対して向けられている」〕と呼び」、「人間を、(天使と共通に、すべてのそのほかの被造物と区別して)理性的ナ本性と呼び、その理性性ということでもって、判断を形成してゆく能力、すなわち真なるものと真でないもの、善いものと善くないもの等々を区別する能力のこととして理解した」。アンセルムスは、「天使と人間によって……構成されている……神の道の終りと目標を形造っている霊の国」は、「理性的デ至福ノ都と呼んでいる」。「客観的なラチオに対するその対立」、「人間的な(あるいは天使の)概念能力と判断能力についての思想」は、前述したように、「探求ノラチオについて、……私ノ確信ノ根拠について、……神のもろもろの言葉と行為のラチオについて、それらの<必然性>と<可能性>のラチオについて語られる時、……超えられる」。「その結果、先ず第一に、信仰対象に固有な、……人間的な概念能力および判断能力の認識するラチオ〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」、換言すれば徹頭徹尾「聖霊そのもの」ではないが聖霊によって更新された人間の理性性〕を手段として、信仰の対象が啓示を通して与えられた後〔すなわち、信仰の対象が客観的な「存在的な<必然性>を通して、換言すれば客観的な「その死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」を通して与えられた後〕」、「指示されるべきである存在的なラチオの表象が生じてくるのであるが〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、「真理ノラチオ」の表象が生じてくるのであるが〕、この表象は、アンセルムスが三番目に最高のこととして真理ノラチオを知っているということを付け加えて受け取る時、正しく解釈することができる」。その「真理ノラチオ」・「真理ノ根拠」(「あるいは真理ノ理性的根拠」)」は、「それとして……厳格に理解されるならば、最高ノ本性ノ理性と……同一である」。言い換えれば、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第三の存在の仕方、すなわち「父なる神と子なる神の愛の霊である」・「神的愛に基づく父と子の交わり」である聖霊と同一である――この「真理ノラチオは、<神の>ラチオである」(「神ハ何事モ理由ナクシテハナサラナイ……」)。しかし、「それがラチオであるが故に、それは真理を持つのではなく」、「神が、真理が〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の真理が、換言すれば客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」としての客観的な「存在的な<必然性>」の真理が〕、それを〔すなわち、客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」・「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」、換言すれば主観的な「認識的な<必然性>」を〕持つが故に、それは真理を持つのである」。したがって、「自己自身である神」としての「三位一体の神」の「根源」、「起源」であり、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な起源的な第一の存在の仕方(啓示者・言葉の語り手・創造者)である「父によって語られた言葉であるが故に〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位一体の神」の「根源」、「起源」としての父が、「子として自分を自分から区別した」ところの、それ故に「父を根源とする」その「区別された子」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方(啓示・語り手の言葉・和解者)である子としてのイエス・キリスト自身であるが故に〕、あの言葉は神的なのである」、ちょうど「キリストの永遠のまことの神性」は、「啓示および和解におけるキリストにおける行為で認識することができる」ように、すなわちその第二の存在の仕方における「啓示ないし和解」が「キリストの永遠のまことの神性」の根拠ではなくて、「キリストの永遠のまことの神性が啓示および和解を生じさせる」ように。このような訳で、アンセルムスの「ラチオratio」(すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」、換言すれば徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性)は、「すべてのそのほかの神ノラチオ〔「父なる神と子なる神の愛の霊である」・「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊〕と同一ではないが」、「神の被造物のラチオ〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」、換言すれば徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性〕として、神ノラチオ〔すなわち、主観的な「認識的な<必然性>」、換言すれば客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」・「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」〕にあずかっているラチオについて言えることである」。バルトは、『教義学要綱』および『バルトとの対話』で、次のように述べている――「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、「聖霊によって更新された理性」も聖霊と同一ではない。ここでも、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>が貫徹される。したがって、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の「真理がそのようなラチオに制約されているのではなく」、「ラチオが〔キリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理に制約されている」のである――第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の「最高真理ハソレ自体デ自存し、ドノヨウナモノノモノデモナク、ムシロアルモノガ最高真理ニ従ッテ存在スル時、ソノモノノ真理アルイハ正直ト言ワレルノデアル」、その「真理ハ……ドノヨウナ始メニモマタ終リニモ制約ヲ受ケルコトハナイ」。言い換えれば、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別「啓示の真理」自身が、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が、啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>――すなわち、客観的な「存在的な必然性」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」(換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「きりすとの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を前提条件とするところ、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>主観的な「認識的な<ラチオ性>」を持っているのである。もしそうでないとしたならば、その啓示し給う神は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神ではないであろう。したがって、その時には、その神は、その神の啓示は、その神への信仰は、神学は、次のようなそれでしかないものとなってしまう――「神とはまさに、人間の〔類的機能を持つ自由な〕想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)し、それ故に「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」し、それ故にまた「(中略)神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した〔すなわち、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や際限なき人間的欲求やが対象化し客体化した人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」でしかなくなってしまう〕……。〔それ故に、〕(中略)この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。
前段で述べたことは、「先ず第一に、<認識的な>ラチオに対して、適用されるべきである〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」に対して、適用されるべきである〕」。すなわち、「認識的なラチオ〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕の使用を念頭に置いたラチオの真理〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」〕は、明らかに表示ノ真理、例えば、一つの命題の真理と同一であるであろう」。このことについて、生来的な「自然的な思惟能力あるいは言語能力の〔一般的な〕『真理』以上のこと」、「〔ソレガ言イ表ワソウトシテイル目標ニ〕フサワシイコトが言おうとされている時」、「徹頭徹尾その表示が表示された対象と一致するということを通して、条件づけられている規則が妥当する〔換言すれば、それが客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「神の言葉の三形態」の関係と構造(知秩序性)に連帯し連続しているということを通して、条件づけられている規則が妥当する〕」――「……在ルモノヲ在ルト(すなわち存在シナイモノヲ存在シナイト)命題ガ表示スル時、命題ニ真理ハアリ、真デアルトイウコト」。「この対象を通して規定された正しい使われ方の中で、……ワレワレノラチオノ真理について、まことに語られることができるかどうかが決定される」。何故ならば、「対象、〔客観的な「存在的な<ラチオ性>」――それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)聖書、それからその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の<客観的な>信仰告白および教義〕の存在と本質の真理は〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」としての客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」は〕」、「ワレワレノラチオノ真理〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〕それ自身の中に基づいてはおらず」、「神的な言葉……を通して、その対象が創造され、その対象に対してそれが造られると共に」、「神によって語られた言葉としてのそれ自身に固有な真理との類似性を賦与する神的な言葉」、それ故に「厳格に理解された真理〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の真理〕ノラチオ〔主観的な「認識的な<必然性>」としての客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」〕の中に基づいている」からである。このような訳で、「人間的なラチオが正しい使用へと定められていること」は、すなわち「対象から発する使用の定め」は、「ただいわば導き、それを手段にして、真理そのものが、すなわち神ご自身が、その決断を下し給う導きでしかない」。したがって、客観的な「存在的な<必然性>」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の「真理に関して、〔生来的に自然的に有する〕人間的なラチオが創造的な・標準的な意味を持っているということについては、いかなる意味においても語ることはできない」――「……スナワチ思考ノ真理ト命題ノ真理……ハドノヨウナ真理ノ原因デモナイノデス」。
「第二に、<存在的な>ラチオ〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」〕に関しては、……〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理へのそれの参与は、原則的に認識的なラチオ〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕の参与以外のものではないが」、「それよりもより高度な参与であるということ」、すなわちその「参与」は、「認識的なラチオ〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕……の場合と同様に、すべてのラチオの真理としての真理そのもの〔すなわち、主観的な「認識的な<必然性>」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事な中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括している客観的な「存在的な<必然性>」(第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の真理そのもの)〕によって存在的なラチオ〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」としてのそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〕が賦与されなければならないということが生じてくる」――「この賦与は、認識的なラチオ〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕の側においては、その都度下される決断〔すなわち、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性における服従への決断〕の事柄である一方」、「存在的なラチオ〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」〕については、……それのラチオが存在的なラチオであるその対象の創造と共に、真理が賦与されて<いる>ということが語られなければならない」。このことは、「アンセルムスにとって問題である信仰ノラチオについて妥当する」。したがって、この「信仰ノラチオratio」(根拠、原因、理性)は、「アンセルムスにとって、疑いもなく真理ノラチオ〔換言すれば、客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」に包括された主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」〕と本来的な厳密な意味で同一である」。したがってまた、「信仰ノラチオが真理ノラチオであるかどうかについてではなく、それがそのようなものとして自分を知解させるかどうかについての決断が問題である」。「信仰ノラチオ」は、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての「Credoの中に」、それ故に「聖書の中に隠されており、それは、自分自身をわれわれに知らせるためには、自分自身を〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件として〕<啓示し>なければならない〔自己啓示しなければならない〕」――「それ故に、『私タチガ真理ニ根ザシタ理由カラ<学ンダ>……』信仰ノラチオ」は、「そのことを、ただ真理が、神ご自身が、そのことをなす時にだけ、なすことによってだけ、なす」。「したがって、知解することの出来事の中で、その都度、〔客観的な〕存在的なラチオと共にまた〔主観的な〕認識的なラチオが、〔主観的な「認識的な<必然性>」を包括している客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理と同形的であり、その限りマコトノラチオであるか……あるいはないか、あるいは(そのことが実際的ニハ普通のことであるのだが)ある程度そうであるといった具合である」。「原則的に、……〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の〕<真理自身>が、すべてのラチオの主であり、それ自身で、何がこことあそこで、その都度マコトノラチオであるかについて決定する」。すなわち、「信仰の対象のラチオが、また人間が自分の概念能力および判断能力についてなす使用が、真理に(真理それ自身の決断の力によって)同形的であることによって、そのラチオ性のために決断が下され・求められた知解が出来事となって起こるのである」。したがって、われわれは、次のように言わなければならない――第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(教会的な補助的奉仕)としての神学における<理性的>な思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」から、その思惟と語りは、『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔すなわち、「祈る」の態度〕に対し神が応じて下さる〔すなわち、「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立しているのである」(『教会教義学 神の言葉』)。
起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者と・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての「Credoの考え抜かれた理解」(「信仰ノ知解intellectus fidei」)は、「そのラチオ性〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」(換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を前提条件とするところの、主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性〕のために出来事となって起こるのである」が、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題)<と>、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、「証明スルことと喜バスことにまで来なければならない」「信仰が『要求する』」「知解スルintelligereこと」、キリストにあっての神としての神の特別啓示の「真理を真理として理解すること」である「信仰ノ知解intellectus fidei」は、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての「Credoの考え抜かれた理解」は、「最後的には<祈り>および<祈りの聞き届け>の問題である」から、第三の形態の神の言葉である教会の成員のわれわれは、先に述べたような仕方で、「信仰ノ知解を、祈りのもとで、力を尽くして理性的能力を用いつつ探し求めなければならないのである」。
「神学の道」(4)
「アンセルムスのラチオ概念の構造をさらに探究する前に、ここでいくつかの後ろを振り返り見る<注>が挿入されてよいであろう」。
(a)「知解と<恵み>の、知解と<祈り>の関連性の上に、どのような光が……さしてくるかが指し示されなければならない」。「すべてのラチオの相対性に関して、事情がそのようであるとしたら、信仰の対象のラチオに対する信頼が〔すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に対する信頼が〕、また自分自身の理性的な能力を正しく用いようとするよき意志が、……『プロスロギオン』一章でなされているような仕方で、知解を求めて祈らなければならないということである(中略)知解を求めて祈られるし、明らかにただ祈られることしかできない」。
(b)「先ず第一義的に優位に立つ原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕」としての「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の「真理がすべてのラチオを自由に支配し、啓示が、先ず第一に、原則的に、<権威>の様式において、外的なテキストの様式において起こらなければならない」。「この様式において真理のラチオ〔すなわち、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)包括されたその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)〕は、命令以外の何ものでもあり得ないから、この命令に相応する用い方の中で、人間的な能力もマコトノラチオとなる〔換言すれば、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に包括された主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性となる〕」。したがって、「信仰は常に権威信仰であり、権威信仰は理性的な態度であるから、権威信仰が『非理性的な』態度であるかのような考えは、権威信仰にとって縁遠いものなのである」。「信仰は、権威に従うことによって、それと共に人間的なラチオ〔客観的な「存在的な<ラチオ性>」に包括された主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕に対して立てられた問題を受け取り取り上げるために、信仰の対象の隠れたラチオ〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」に包括された主観的な「認識的な<必然性>」〕を肯定する」。
(c)「<啓示>の様式」は、「知解スルintelligereことの<出来事>」、「マコトノラチオヲモッテ〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」に包括された主観的な「認識的な<必然性>」をもって〕マコトノラチオヲ〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」に包括された主観的な「認識的な<ラチオ性>」を〕探究スルコトの出来事」、すなわち「内部ニ立チ入ッテ読ムintus legereことである」。また、それは、その「啓示に固有な自己証明能力」を持っている起源的な第一の形態の神の言葉自身であるイエス・キリストにあっての神としての神の特別啓示の真理――すなわち、「内的テキストが、……自分を開示する内部ニ立チ入ッテ読ムintus legereことである。言い換えれば、その「<内的な>テキストは、もちろん(われわれから見て)外的なテキストが、その権威のある主張から見ても、われわれの信仰という点から見ても、〔キリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理であるということ以外のことを語っておらず、その<内的な>テキストは外的なテキスト以外のところで見出されることもないのであるが、しかもそれでいて、ここで外的なテキストを聞き・読み取ることはそのまま<内的な>テキストを聞き・読み取ることになるということでは決してなく、「特別な意志と特別な行為によって、なかんずく特に決定的なこととして、特別な恵みによって」、換言すれば客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」(すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を前提条件とするところの、主観的な「認識的な<ラチオ性>」<と>客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である「外的なテキスト〔聖書〕の中で尋ね求められ見出されなければならないのである」。
「権威とラチオの対立は、神と人の対立と符合せず」、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>からして、「人間は、先ず第一に、信仰へと〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる信仰へと、信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事へと〕、それから信仰に基づいて、……ラチオノミニヨッテ知解へ〔客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>主観的な「認識的な<ラチオ性>」によって知解へと〕と来る神のひとつの道……の二つの<段階>の区別を言い表している」。
(d)「ラチオ概念を探究するわれわれの引き続いての探究は、ラチオ概念のいたるところで見出される<必然性>の概念と<ラチオ性>の概念との関連性の考察へと向かわなければならない」。「アンセルムスが、<客観的な>信仰の対象〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己<啓示>、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)――このイエス・キリスト自身〕に固有なラチオ〔すなわち、客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」〕について語った時、彼は、<必然性>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」〕と<ラチオ性>〔すなわち、その客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>〕をドノヨウニアノ死ガ合理的マタ必然的デアルト証明出来ルカというようにマタetでもって、アルイハvelおよびマタetでもって、結びつけた」。「探求され、あるいは見出された客体の表示として、まさにラチオを予期するであろうところで、神ガ必然性カラ人間トナラレタトイウ先生ノ立証ハ、実際ニ、モシ考エ得サエシタナラ、ソレハ(スナワチ、神ハ)必然的ニ存在スル」、「私タチガキリストニツイテ信ジテイルコトハスベテ必然的ニ実現スベキコトヲ……証明スルといようにただ<必然性>だけを用いた」。また、アンセルムスが、「<主観的な>弁証法的に得られたあるいは得られるべきラチオ〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」としての徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性〕について語った時も、〔キリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理ノ理性的根拠〔換言すれば、主観的な「認識的な<必然性>」〕、スナワチ必然性というようにラチオを必然性と等置し、理性的必然性ニヨッテ〔すなわち、主観的な「認識的な<必然性>」としてのイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」ニヨッテ〕、……理性モ〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」としての徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性モ〕、……必然性ヲ伴ウ〔すなわち、主観的な「認識的な<必然性>」としてのイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」ヲ伴ウ〕というようにラチオを必然性を通して、推理ノ必然性、理性的必然性というように必然性をラチオを通して解釈した」。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>――すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの(換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件とするところの)、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)<と>主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性を持っている。
「神学の道」(5)
「<必然性>は、非存在(Nicht-Sein)あるいは別な仕方での存在(anders Sein)の不可能性の性質を表示している」。したがって、それは、「アンセルムスのラチオ〔「根拠」、「原因」、「理由」、「理性」〕概念においては、法則にかなっていることという意味が一般的な指数として最も推奨されてもよい」。
その時、「<信仰の対象>と<知解の対象>に関して、<必然性>と<ラチオ性>について次のような定義が生じてくる」。
(ア)「<信仰の対象>に固有な<必然性>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としてある主観的な「認識的な<必然性>」(換言すれば、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」、すなわち神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与える主である――『教会教義学 神の言葉』)〕」は、「それが存在しないでいること(Nicht-Sein)あるいは別な仕方で存在すること(anders Sein)の不可能性ということを意味している」。「それは、信仰の対象を非存在あるいは別の仕方での存在へと陥らせないところの信仰の対象の<基礎>である」。この「信仰の対象は、信仰の対象に固有なラチオ性〔換言すれば、客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」と主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕を持っている」。
(イ)「証明スルことと喜バスことにまで来なければならない」「信仰が『要求する』」「知解スルintelligereことに固有な必然性」、すなわち第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の「真理を真理として<理解する>」「<信仰ノ知解>intellectus fideiに固有な<必然性>」、「信仰の対象の<知解>に固有な<必然性>」は、「信仰の対象を、非存在(Nicht-Sein)」あるいは別な仕方での存在(anders Sein)するものとして考えることができない(思惟された)不可能性のことである」。このことが、「信仰の対象の必然性〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」〕を通して排除された非存在あるいは別な仕方での存在の(思惟しつつなされた)否定であるところの信仰の対象の<知解の基礎づけ>である」。
(ウ)「尋ね求められた知解<そのもの>を表示している」「信仰の対象そのものに固有な<ラチオ性>」〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」〕、「尋ね求められた知解への<道>を表示している」「知解する人間的な<ラチオ>」〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕は、「信仰の対象の存在と存在の法則にかなっている」。それは、「信仰の対象を、(法則にかなう存在と存在の法則を聞くことができる)本質に対して聞き得るものとするところの<信仰の対象>の<理性性>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」〕である」。
(エ)「信仰の対象の<知解>に固有な<ラチオ>」は、その「信仰の対象の存在と存在の法則にかなったものであることが、信仰の対象を考えることの中へと共に取り上げられた考えることである」。この「信仰の対象の<知解>に固有な<ラチオ>」は、「信仰の対象の知解を、信仰の対象が、(法則にかなった存在と存在の法則を聞くことができる)本質を通して聞かれることとして特徴づけているところの知解の<理性>である〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、知解の主観的な「認識的な<ラチオ性>である」〕」。
「定義(ア)と定義(イ)の相互の関係から、次のことが続いてくる」。
(オ)「信仰の対象の知解の<基礎づけ>」は、「信仰の対象そのものに固有な<根拠>の承認から成り立っている〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」の承認から成り立っている〕」。その「〔客観的な〕存在的な<必然性>は、〔主観的な〕認識的な<必然性>に対して先行する」。
「定義(ウ)と定義(エ)の相互の関係から、次のことが続いてくる」。
(カ)「信仰の対象の知解の<理性>〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕」は、「信仰の対象そのものに固有な<理性性>〔すなわち、主観的な「認識的な<必然性>」〕の承認から成り立っている」。そして、「存在的な<ラチオ性>〔すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〕は認識的な<ラチオ性>〔すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性〕に先行する」。
「<必然性>と<ラチオ>との相互関係からして、……次のことが生じてくる」。
(キ)「信仰の対象に固有な<根拠>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」〕」は、「信仰の対象の固有な<理性性>〔主観的な「認識的な<必然性>」〕と共存」し、「存在的な<必然性>は存在的な<ラチオ性>〔すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〕と共存する」。
(ク)「信仰の対象の知解に固有な<基礎づけ>」は、「信仰の対象の知解に固有な<理性性>〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」としての徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性〕と共存」し、「認識的な必然性〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な必然性」、換言すれば客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」〕は認識的な<ラチオ性>〔すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性〕と共存する」。
(オ)と(キ)から次のことが続いてくる。
(ケ)客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」としての客観的な「存在的な<必然性>は〔主観的な〕認識的な<ラチオ性>〔すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性〕に先行する」。
(カ)と(ク)から次のことが続いてくる。
(コ)三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)としての「存在的な<ラチオ性>は、〔客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」としての〕認識的な<必然性>に先行する」。
(サ)第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)の中で「現にあるところの方であり給う」ことからして、客観的な「存在的な<ラチオ性>そのもの」は、「最後のものではなく、最高ノ真理に照らしてはかられた<まことのラチオ性>でしかないように」、「存在的な<ラチオ性>と共存する存在的な<必然性>もそうである」――「神にとって存在している<必然性>は、ただ栄誉ノ不変性でしかありえないであろう。ソノ栄誉ノ不変性ハ他者カラ与エラレタモノデハナク、自分自身ニ由来スルカラ、厳密ナ意味デハ必然性ト呼バレナイ。(中略)スベテノ必然性ハ、彼ノ(スナワチ、神ノ)意志ニ従属シテイル。ナゼナラ、神ガ意志シ給ウコトハ、必然的ニ存在スルカラデアル。存在的な<必然性>は、例えば『神ハナゼ人間トナラレタカ』において、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)としての〕キリストが人間となることと和解の死に対して帰せられている。〔したがって、〕存在的な<必然性>が、アンセルムスにおいては、……最後の言葉ではありえないということが看過されてはならないであろう。モシ彼ガナシ、ソシテ苦シンダスベテノコトノ真ノ必然性ヲ知リタイナラ、彼ガ望ンダカラコソ〔彼が意志したからこそ〕、スベテガ必然性カラ起コッタコトヲ知ルベキダ。シカシ、ドノヨウナ必然性モ彼ノ意志ニ先行シナカッタ』」。キリストにあっての神としての神の特別啓示の「真理の中で、真理を通して、神の中で、神を通して、根拠は根拠をもち、理性性は理性性をもつ」。
「<必然性>と<理性性>相互の間の関係については、次のことが言われなければならない」。
(シ)「非存在(Nicht-Sein)あるいは別な仕方での存在(anders Sein)の不可能性の性質を表示している」「<必然性>の概念」は、「認識的な内容を持っているにも拘らず、<存在的なもの>との起源的な近親性を持っている限り」、また「信仰の対象を存在と存在の法則にかなっているものとするところの、信仰の対象を、(法則にかなう存在と存在を聞くことができる)本質に対して聞き得るものとするところの信仰の対象の固有な<理性性>の概念が、存在的な内容を持っているにも拘わらず、<認識的なもの>との起源的な近親性を持っている限り」、「<必然性>は<理性性>に先行しなければならない」。したがって、「問題を真理概念に移す時、神の<意志>を神の<知>に先行させるということが結果として生じてくる」。
アンセルムスは、「<客観的な>信仰の対象に固有な<ラチオ性>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」〕について語った時、<ラチオ性>と<必然性>をドノヨウニアノ死ガ合理的マタ必然的デアルト証明出来ルカというように結びつけた」し、「<主観的な>弁証法的に得られたあるいは得られるべき<ラチオ性>について語った時も、〔主観的な「認識的な<必然性>」としての〕真理ノ理性の根拠、スナワチ必然性〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」〕というように<ラチオ性>を<必然性>と等置し、理性的必然性ニヨッテ」、「……理性モ、……必然性ヲ伴ウというように<ラチオ性>を<必然性>を通して、推理ノ必然性、理性的必然性というように<必然性>を<ラチオ性>を通して解釈した」。
「<信仰の対象>に固有な<必然性>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」〕」は、「信仰の対象に固有な<根拠>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」〕である」。また、「信仰の対象に固有な<根拠>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」〕」は、「信仰の対象の存在と存在の法則にかなっていることである」。したがって、「信仰の対象」、「信仰の対象の存在と本質の真理」、キリストにあっての神としての神の特別「啓示の真理」は、「ワレワレノラチオノ真理〔すなわち、生来的な自然的なわれわれ人間の一般的な真理〕それ自身の中に基づいてはおらず」、それは、「信仰の対象が創造され、その対象に対してそれが造られると共に、神によって語られた言葉としてのそれ自身に固有な真理との類似性を賦与する神的な言葉」、「厳格に理解された〔キリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理ノ<ラチオ性>の中に基づいている〔換言すれば、客観的な「存在的な<ラチオ性>」の中に――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)の中に基づいている。
「<信仰の対象>に固有な<必然性>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」〕」は、「信仰の対象の固有な<理性性>〔すなわち、主観的な「認識的な<必然性>」〕と共存する」。キリストにあっての神としての神の特別啓示の「真理を真理として<理解する>「信仰が『要求する』」「信仰の対象の<知解>に固有な<必然性>〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」〕」は、「信仰の対象を、非存在(Nicht-Sein)あるいは別な仕方での存在(anders Sein)するものとして考えることができない(思惟された)不可能性のことであり、信仰の対象の知解の<根拠>である」。客観的な「存在的な<必然性>」は、客観的な「存在的な<ラチオ性>」と共存する。しかし、「〔客観的な〕存在的な<必然性>は〔すなわち、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」は〕、〔主観的な〕認識的な<必然性>に先行する〔すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に先行する〕」。「信仰の対象の知解に固有な<理性>は〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」は〕、「信仰の対象そのものに固有な<理性性>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」〕の承認から成り立っている」。客観的な「存在的な<ラチオ性>は、〔主観的な〕認識的な<ラチオ性>に先行する」、換言すれば客観的な「存在的なラチオ性」は、「信仰の対象の法則にかなった存在と存在の法則を知覚する、聞き分ける能力である〔主観的な〕認識的な<ラチオ性>に先行する」。「信仰の対象の知解に固有な<根拠>〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」〕は、信仰の対象の知解に固有な<理性>〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕と共存する」。
「われわれは総括する」。
(ⅰ)「<ラチオ>概念に並行的な<必然性>の概念」は、客観的な「存在的な<ラチオ性>」と主観的な「認識的な<ラチオ性>」に関わる「『理性的な』知解が信仰の対象〔客観的な「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を持っているキリストにあっての神としての神の特別啓示の真理〕のあとに従い、その逆ではないということを結果として生じさせる」。この時、「信仰の対象とその知解」は、「最後的には、〔キリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理に、換言すれば〔先行する〕神に、すなわち〔先行する〕神の意志のあとに〔後続して〕従うのである」。
(ⅱ)しかし、その「<必然性>の概念は、『理性的な』知解においては、「信仰の対象の法則にかなった存在と存在の法則を知覚する、聞き分ける能力である〔主観的な〕認識的な<ラチオ性>によって、法則にかなう存在と存在の法則を聞き分けることができる本質にとって聞きわけ得るものである信仰の根拠を、信仰の対象が聞きわけ得るものである信仰の対象の理性性を〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を〕認識的に知解しようとする時」、「彼の目標は、非存在あるいは別様な存在の不可能性、法則にかなっていることという信仰の対象の<必然性>を〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」を〕、信仰の対象の根拠を〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を〕、……考えることである」。「信仰の対象が根拠を<持っている>ということ」は、キリストにあっての神としての神の特別「啓示の中で与えられており、信仰の中で確かなことである」。アンセルムスは、「初めから、存在可能なものを問わず」、その<必然性>として「存在しないでいることができないものとしての存在するものを<問う>、<考え>ようとする」。
「信じられた基礎づけ〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」〕に対しては、認識された基礎づけ〔主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕が対応すべきであり、存在的な<必然性>〔すなわち、客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」〕に対しては認識的な<必然性>〔すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」〕が対応すべきである」。「〔客観的な〕存在的な<必然性>と〔客観的な〕存在的な<ラチオ性>〔すなわち、簡潔に言えば「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〕が共存することの力によって」、「主観的な認識的な<ラチオ性>が存在する」。アンセルムスは、「〔主観的な〕認識的な<必然性>への道を、信仰の中に基礎づけられた信頼……の中で見出している」。「<この>信仰の対象の<理性性>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」〕と<必然性>〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」〕を通るまわり道を通って、〔主観的な〕認識的な<必然性>を目指す認識的な<理性性>〔主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕に、真理そのものの絶対主権性の留保の下で、<知解スルintelligereことのアンセルムス的なこころみ>が妥当する」。
われわれは、「〔主観的な〕認識的な<ラチオ性>についてのアンセルムスの問題提起の仕方全体から」、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての「Credoの……それら一つ一つの命題をすべてのあるいはすぐ次にある自余の命題と関連させ、その命題をそれらの命題と比較し、結び合せ、それらの命題を通して明らかにさせるという仕方で……思索すること」、「換言すれば、その意味内容を探究すること、それらすべてのことを」、「信仰の対象の隠された法則を<後から>〔後続して〕考えつつ、<自分自身で>考え、その法則をまさにそのことでもって提示し、そのようにして信じられたことをまた<知解>しようとする意図をもってなす」ということを学ばなければならない。この時、「〔主観的な〕認識的な<ラチオ性>は、〔客観的な〕存在的な<ラチオ性>の<後に従う>〔「足跡を追う」〕ことによって、〔客観的な〕存在的な<ラチオ性>の<発見>となって行くのである」。この時、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての「Credoの自余の諸命題」は、「その上で、〔主観的な〕認識的な<ラチオ性>に対して〔客観的な〕存在的な<ラチオ性>が先行し、……〔客観的な〕存在的な<ラチオ性>を発見するために、〔主観的な認識的な<ラチオ性>が〔客観的な〕存在的な<ラチオ性>に従わなければならない道を表示する」。アンセルムスは、「知解ヲ求メル者として、無でもって、換言すれば自律的な〔生来的な自然的な〕人間的理性の諸法則……人間に共通の経験〔人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍〕の諸事実でもってことをはじめ」、それ故に「知解ヲ見出ス者として、別にどういう支えもなし手放しで、換言すればある種の一般的な『思惟必然性』を用いて(パロの魔術師たちに比較し得るような仕方で)Credoの一種の<影法師>を……造り出したのではない」。
<「神学の道」(6)>に続く
(文責:豊田忠義)