1.イエス・キリストにおける神の自己啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)およびまことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会

 

ア.イエス・キリストにおける神の自己啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力総体的構造

イエスキリストにおける神の自己啓示>は、「自己自身である神」(ご自身の中での神)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様」な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動・活動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体におけるその第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」において、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の認識と信仰を要求する啓示である。したがって、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である神の本質の問題(神の本質 を問う問い)を包括した「第一の問題」である神の存在の問題(神の存在を問う問い)を要求するのである。

 

 イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)――それは、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な存在的な必然性>」)<>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な認識的な必然性>」)を前提条件としたところの(換言すれば、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいたところの)、客観的な存在的なラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している」「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の、直接的な、第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)において存在している第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書(換言すれば、預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)、それから「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教<主観的な認識的なラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性<総体としての総体的構造のことである

 

 まさに〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われに差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、〕イエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそまさにイエスキリストの中でこそ隠れた〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する「三位一体の」〕神はご自身を把握できるものとし給うた」。しかしそのことは、「決して直接的にではなく、<間接的にである」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、<しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である神性が肉となったのではなく、「われわれのための神」としてのその外に向かっての外在的な第二の存在の仕方における「<言葉が肉となった>」――「これがすべてのしるしの最初の起源的な支配的なしるしである」、換言すればそれは、自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたに過ぎない人間的自然人間の観念的生産物としての存在者では決してなく徹頭徹尾神の側の真実としてある、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての<「存在者」>〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としてのただイエスキリストのだけ、神の自己卑下と自己疎外化〕である。このような訳で、その「<最初の、起源的な、支配的なしるし>に基づいて」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的な<しるし>が存在する」。先ず以て「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とするその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉である聖書が「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)においてその最初の直接的な第一の「啓示のしるし」として客観的可視的に存在している、それから第三の形態の神の言葉である「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉であるイエス・キリストの教会の宣教が<「啓示の<しるし>」の<しるし>として客観的可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」――この「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」が客観的に存在している。「これこそ神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について語ることができる偉大な可能性である

 

イ.まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会

 第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会(すべての成員)の宣教、その一つの補助的機能(教会的な奉仕)としての神学における思惟と語りが、キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」。したがって、それは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さいというこの人間的態度(「祈りの態度」)に対し神が応じて下さる(「祈りの聞き届け」)ということに基づいて成立している」。このような訳で、「まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会」は、実体ではない。すなわち、その現にあるがままの即自的な「イスラエル」が、「まことのイスラエルではない」、その現にあるがままの即自的な「民」が、「まことの民ではない」、その現にあるがままの即自的なキリスト教的建造物および宗教的制度・組織としての「教会」が、「まことのイエス・キリストの教会ではない」。言い換えれば、まことのイスラエルイエスキリストの教会」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて神語り給うが故に神語り給うことを「聞くことによって、常に新しく決定される」。したがって、第三の形態の神の言葉である「まことのイエス・キリストの教会」は、あくまでもイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続して、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「啓示との<間接的同一性>」、啓示との区別を包括した同一性において存在している「啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、それ故に自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識における隣人愛のことではない)という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性(「まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会」共同性)となることによって「まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会」共同性であるところのそれである。「何人も神の子供であることなしに聞くことはできないが、同時にまた何人も、聞くことなしに、しかも繰り返し聞くことなしに、神の子供であることはできない」。何故ならば、「神に愛された」、「聞くイスラエル」、「聞くイエス・キリストの教会」、聞く民、聞く神の子供たちは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、おのずから必然的に、絶えずくり返し、その「愛の命令の成就に向かって進んでゆく」からである。「イエス・キリストの中で、神は彼らのために味方してい給う。したがって、イエス・キリストの中で、彼らは、命令を聞くことによって、愛するものとしての彼ら自身の未来を、彼らが律法を成就する成就を、つかむのである〔「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請を成就する成就を、つかむのである〕」。主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(イエス・キリスト<>信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの(『福音と律法』)、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は、平和の概念を含んでいる――『平和に関するバルトの書簡』)そのものであるイエス・キリスト自身――このキリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代(中間時)において、「新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた第三の形態の神の言葉である教会のすべての成員は〕、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語るのである」。ここで、「終末論的とは、われわれの経験と感性〔人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍〕にとっての<いまだ>であり」、徹頭徹尾神の側の真実としてある「成就と執行、永遠的実在として<すでに>にということである」。(文責:豊田忠義)