10.知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明についてその3

――出来得る限り分かり易く整理するために、論稿が少し長くなる――

 

神学の道」(

 われわれは、「これまで、アンセルムス的な知解スルintelligereことの前提、条件、性質に関し、彼のもろもろのテキスト全体の……関連性において語ってきた」。したがって、われわれは、「彼のもろもろのテキスト全体の……関連性<の外>で読まれた個々の箇所において〔すなわち、ある箇所だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化して読まれた、換言すればある個所だけを拡大鏡にかけて全体化して読まれた〕、彼を……誤解する余地を与える可能性に対して反対して語ってきた」。アンセルムスは、「ギリシャの人々を理性的ニ、ト子ヨリfilioqueの洞察〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」の洞察〕へと導くことを望んでいると明言し」、「……彼ラガ信ジテイナイコトヲ最モ確実ナ議論ヲ駆使シテ証明スルタメニギリシャ教会ノ人々ノ信仰ソシテ彼ラガ疑イモナク信ジマタ告白シテイルコトヲ利用するという仕方でなすことからしてそのような「可能性は、直接的にも反駁される」。また、アンセルムスが、「晩年の文書において、(中略)予定の教説について>、自由な意志の教説について>、その有効妥当性を前提しつつそれら両方の教説の一致を示すことが大切である」ところの、換言すれば「ソコデ……神ノ余地ト……自由ガ同時ニ存在シテイルト仮定シタ上デ、コレラガ同時ニ存在スルコトハ不可能カドウカ検討シタイ」ところの、「『理性主義』〔「教義学的な合理主義」、「『自然』神学」〕に反対する決定的な証明、「既に一度触れられたように、彼が書いたそれらの書物の中で事実なしてきたことから成り立っている」。「必然的ナラチオの起源、「アンセルムスの<すべての探究においては、〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>からして、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての〕Credoを先験的ニ演繹する哲学者のところでは、……既知なものとして前提されている信仰箇条abcdを手段として、……タダラチオニヨッテノミ解かれる未知なxとして現れてくるCredoそのものの内部にある」。「他方それは、探究している神学者の〔生来的な自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟が持つ類的機能を駆使しての〕概念能力と判断能力に対しては、どこででも決して、……もろもろの強固な点を措定するという機能は帰せられていない」。すなわち、「常にただ、一方において、ほかのところで措定された様々な点の間で選択をなすことが、他方において、矛盾律の上に立てられた論理の規則に従って、あのxを解くために必要な定義づけ、結論づけ、区別と結びつけ、彼にとって可能なことの枠の中でなしてゆき、そのようにして対象を支配するのではなく対象によって支配されて〔すなわち、「教会に宣教を義務づけている」ところの、「第二の形態の神の言葉である聖書は、先ず第一義的に優位に立つ原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエスキリストと共に、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における原理規準法廷・審判者・支配者標準である」ことからして、それ故に「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならない」(『教会教義学 神の言葉』)ことからして、第三の形態の神の言葉である教会に属する全く人間的なわれわれが、思惟対象を支配するのではなく、思惟対象によって支配されて〕、信仰の対象のまことの認識的なラチオにまで〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」、換言すれば徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性にまで〕、信仰の対象の存在のラチオ>〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」、換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〕を事実聞き分けることにまでくるという課題が帰せられている」。

 

 「ここで論難され得るものとして特に問題になってくる『神ハナゼ人間トナラレタカの中ででもいやまさにその書物の中でこそ事情はそれと別様ではない」。「キリストの和解の死の理性性と必然性の基礎にある決定的な諸前提は〔すなわち、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」とその主観的な「認識的な<必然性>」を包括した客観的な「存在的な<必然性>」、換言すれば客観的な「その死と復活の出来事」におけるイエス・キリストにおける「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」・「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(『教会教義学 神の言葉』)の理性性と必然性の基礎にある決定的な諸前提は〕」、「人類についての神の計画が成り立っていること神への服従へと人間が本質からして義務づけられていること神に対しての人間の無限の負い目としての罪罪を否定する神の否定の犯すべからざるものであること人間が自分で自分を救済することができない無能さ最後にとりわけ創造の教義の中で語られている神の自足性〔すなわち、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な、それ故に完全に自由な神の自足性〕栄誉』〔「聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等」〕である(『教会教義学 神論』)」。「それらが、abcd……である」、「そのところからして……キリスト論的なx」が、神の第二の存在の仕方である「キリストの人格と業の〔主観的な〕理性性と〔客観的な〕必然性を証明することが問題であるが故にこそ〔すなわち、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことを証明することが問題であるが<故に>こそ、換言すれば客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」とその主観的な「認識的な<必然性>」を包括した客観的な「存在的な<必然性>」を証明することが問題であるが<故に>こそ〕、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕キリストが、〔その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である〕聖書の、〔その聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としての〕)信条Credoキリスト教的経験の中で占めている場所は今度は使われずに空けておかれそのところからして得られるはずであった議論はこの度はそのまま用いられずにすまされなければならないということが、『理性的であるとしてあるいは必然的であるとして示されるabcd……である」。「この問題に研究を意識的に集中させること」――すなわち「私タチノ問題ハ神ノ受肉〔神の内在的本質である神性の受肉ではなく、神の第二の存在の仕方における言葉の受肉〕……ダケデアル」は、「アンセルムスに対し、……少なくとも、通りすがりに〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)を起源とするその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(「啓示の<しるし>」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(「啓示の<しるし>」の<しるし>)としての〕Credoのとりわけ終末論的な神の国についての偉大な付論が属しているのであるが、そのような隣接した諸点の理性性あるいは必然性を、同様な仕方で明らかにすることを妨げない。(中略)『私タチノ提案シタ一問題ノ解決ヲ通シテ、新約オヨビ旧約聖書ニ含マレテイルコトハスベテ立証サレタト理解シマス』」。バルトは、「ベックにおける、アンセルムスの副修道院長あるいは修道院長としての活動の初期に、彼が、〔区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)要求するイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、〕危険な主題である……神の本質について取り扱っている『モノロギオン』……『プロスロギオン』の第二部において、先天主義的神学をなしてきたかどうかという問いに対しては、どうしても否定したい」と述べている。何故ならば、「アンセルムスの後半の文書……特に最も明瞭にまさに『神ハナゼ人間トナラレタカを通して明示された道は先天主義的神学とは別の道へと導く道であるからである。「人は、彼の時代の実際の理性主義者たち〔すなわち、教義学的な合理主義者たち、「『自然』神学」の段階で思惟し語る者たち〕に対する彼の戦術的な状況についてよく考えてみよ」。

 

 「『モノロギオン』においてこそ、信仰の対象の事実性の不把握性を尊重しない思弁のあの極めて明確な拒否が〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質からしての、信仰の対象の事実性の不把握性を尊重しない思弁のあの極めて明確な拒否が〕」、またⅠコリント138以下にあるように「すべての神認識の間接性のあの承認が〔すなわち、「まさに〔「顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)〕イエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」が故に、「そのことは、決して直接的にではなく、<間接的に>である」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「信仰に対してである」「その本質の中においてではなく、<しるし>の中においてである」というこの「間接性の承認」が〕」、先ず以て、「『プロスロギオン』におけるほど明瞭ではないのであるが、全体を基礎づける信仰の論証を指し示す指し示しが、われわれに出会う」のである。したがって、アンセルムスにおいては、キリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの「中間時」(「聖霊の時代」)において、終末論的限界の下でのその途上性で、先行する客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、後続する客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて、それ故に具体的には三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書、そしてその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教における教会の<客観的>な信仰告白および教義としてのCredoに聞き教えられることを通して、「教えるのであり、ただそこでだけ、実際の教えられること……が生起することができる」のである。アンセルムスの「『モノロギオン』一-六章の展開」は、そのように理解されることを欲している。言い換えれば、第三の形態の神の言葉である教会の一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学を目指しているところの、「教義学的な合理主義を明確に否定している」アンセルムスは、「教義学的な合理主義を否定しない」「『自然』神学」たちによって「トマス・アクィナスへの想起のゆえに誤解されて」「『宇宙論的神証明』として特徴が表示されて理解されることを欲していない」。ここで、「宇宙論的神証明における推論スルコト」は、すなわち「コノヨウナタグイノ何カガ実在トシテ存在シテイルカドウカという問い」は、「問いとしては、それ自体、未解決なものであり続ける推論スルコト」である。

 

 アンセルムスが、第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての「三位一体論を説明するために、既に知られたアウグスティヌス的な三位一体ノ痕跡想起知解愛を人間の中での神の像としてそれ故に最も身近な最も高貴な認識根拠として引き合いに出す時それは、われわれがそれについてどうみなそうと、彼にとっては、いずれにしても〔第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉としての〕聖書的、〔その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした〕教会的およびその一つの補助的機能〔「教会的な補助的奉仕」〕としての教義的な前提を意味していたのであって」、「決して自然神学の法廷を〔換言すれば、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、一般的啓示、一般的真理を対象とする神学の法廷を〕……意味したのではなかった」。すなわち第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示を起源とした「一つの啓示神学と並んでの〔半分だけあるいは全面的にその啓示神学から独立した〕第二の啓示神学の法廷を意味したのではなかった」。したがって、「『プロスロギオン』の第二部においては、アンセルムスの『理性主義』」は――すなわち、「教義学的な合理主義を明確に否定している理性主義」は、「『モノロギオン』と共通に持っているものを度外視して、その間に見出された一ツノ論証(ソレヨリ偉大ナルモノガ何モ考エラレ得ナイモノ)の適用によって到達されたより厳格な体系の中で尋ね求められなければならない……」。「この論証こそが、再び創造と切り離せないのであり、また神の独一無比性および自足性と結びつけられている〔換言すれば、「神についての聖書的な証言」は、キリストにあっての「神とは異なるすべてのものに対して持つ神の優位性」を、「神とは異なるものによってなされるすべての条件づけ、外的条件づけからの神の自由――すなわち、「すべての外的被制約性からの自由」として、「神の独立性」として、神とは異なるものとのその「神の相違性そのものの中でだけ見ているだけでなく」、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「神の自存性」として、「自存性としての神の自由」として、「自己自身である神が、それらを〔イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕実証することによって、外的条件づけからの神の自由、神の独立性に相対しても自由であることの中で見ている、すなわち神の優位性を、神の独立性と自存性との全体性における完全な自由の中で見ている〕」。「神の中でのあわれみと、痛みや不幸からの解放の間の関係」、「神の本質の単一性と区別〔差異〕」(神の本質の区別を包括した単一性)における「あわれみと義の関係についての考察は、<神ハナゼ人間トナラレタカ>の問いを既に答えられたものとして前提しており〔それ故に、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の内容」は、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「生来われわれ人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」という点にあるのであるが、われわれは、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて、「<神の選び>〔「恵み」〕をイエス・キリストの復活において認識〔・信仰〕し、<神の放棄>〔「裁き」〕をイエス・キリストの十字架において認識〔・信仰〕することができる」(『福音と律法』、『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」、『教会教義学 神の言葉』)ということを前提しており〕、「神の隠れと不把握性についての詳述」は、「啓示の事実性……を思い出させる」。すなわち、それは、「どのような因果律的なあるいは目的論的な構造へと解消させることもできない、それ自体において理性的な必然的な(啓示の)事実性を思い出させる〔換言すればそれ自体において客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」<と>その主観的な「認識的な<必然性>」を包括した客観的な「存在的な<必然性>」を持っている啓示の事実性を思い出させる〕」。「最後に、まさにこの書物のはじめに出て来るアウグスティヌスのそれとは違う」ところの、「あれほど明瞭な『私ハ知解スルタメニ信ジマス』という顕著な崇拝形式において、アンセルムスは徹頭徹尾教えられつつ語る〔換言すれば、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書に、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・標準とした教会の<客観的な>信仰告白および教義に聞き教えられることを通して教えるという仕方で語る〕」。したがって、もしもアンセルムスが、そのように啓示神学の立場で「教えられつつ語る代わりに、何らかの仕方で〔すなわち、啓示神学から独立した仕方で〕創造的に思惟しつつ、神について語ろうとしたのであれば〔すなわち、「『自然』神学」の段階で、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによつて対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」を語ろうとしたのであれば〕、彼は何と奇妙な仕方で自分自身と矛盾していなければならなかったことであろう」。われわれは、その時代や現実に強いられた「彼の避けることのできない哲学的な系譜(アウグスティヌス、プロティノス、プラトン)への指し示しが彼のやり方の技巧を理解するのに興味深いものであるとしても、彼の『証明』の内容に関してはその内容を全線にわたって〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示に立脚した啓示〕神学的に理解することに反対するただ一つの的確な根拠もないのであり、むしろそのことに味方する多くの根拠があるのである」。したがって、「われわれがここでまだ足を踏み入れていない『プロスロギオン』二-四章における神の証明は、もしもそれに関して事情が上に述べたのと別様であるとしたら、この線全体に対して全くの特例を意味することになるであろう」。

  

神学の目標証明)」(その1

 「教義学的な合理主義を明確に否定している」(神学を「一般的真理としてではなく、啓示〔の真理〕から得られた認識〔啓示認識、すなわち啓示信仰〕」として思惟し語っている)アンセルムスは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼している」(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、アンセルムスにおいては、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)――すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性は、「啓示、恵み、信仰を前提条件としていた」。言い換えれば、それは、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」――すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」――すなわち、主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件としていた。したがって、アンセルムスは、「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠の力強さを念頭において」、「信仰の対象そのものの客観的根拠の力強さを念頭において」――すなわち、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の「力強さを念頭において、非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ、信者と不信者の間の深淵を超え出て、彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとることができた」。バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――「私たちは、心を頑固にし福音を認めない人間や異教徒に対して、恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない。すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、私がその人をその中に置くことによってではなく、イエス・キリストがすでにその人をその恵みの中に置いてい給うことによってである〔すなわち、イエス・キリスト自身が、すでにその人を、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イエス・キリスト<>信ずる信仰」)による「律法の成就」・「律法の完成」そのものとしての「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、すなわち成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同じである)の中に置いてい給うことによってである〕」。したがって、往還の観点を持った思想としての神学におけるバルトとアンセルムスの立場は、還相的観点を持たないただ往相的な観点だけの信、信者、知だけからする、不信、不信者、非知に対する、啓蒙主義、外部注入論、迎合主義とは全く違っている。

 

 「知解が起こる時、……知解の先端として、証明にまでくる。そして、アンセルムスは、証明しようと欲するのである」。すなわち、アンセルムスは、「『モノロギオン』と『プロスロギオン』の中で、後の彼自身の言明によれば、『信仰ヲモッテ〔「自己自身である神」としての「三位一体の神」の内在的本質である〕神性トソノ位格〔「われわれの神」としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」のそれ〕ニツイテワレラガ知解シテイルコト』、あるいは西方の『……ト子ヨリ』〔すなわち、「父ト子ヨリ出ズル御霊」〕、あるいはキリストが人間となること〔すなわち、神の第二の存在の仕方における言葉の受肉、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」〕の必然性を証明しようと欲する」のである。「<ただ>証明しようと欲する<だけ>でなく、なしとげられた知解の美にも興味があるのである」。アンセルムスの思惟と語りにとって、「本来的な、また事柄的な表示は、結局、証明スルではなく、……知解スル(intellegere)ということである」、そして「知解スル者が求め見出す根拠そのもの、信仰の根拠(ratio)に、有用サだけでなく、美も、喜びも固有なものとして含まれている」。アンセルムスは、類的機能を持っている人間の自由な自己意識・理性・思惟としての「孤独な思惟を拒否しない」ところで(『モノロギオン』のところで)、「人間的な対向者との関係の中で考える」。アンセルムスは、「キリスト教の〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての〕Credoの諸命題のラチオ」が、「異教徒、ユダヤ人、異端者たちによって誤解され、疑われ、異論が唱えられること、またそのことが起こらないところでも、教会の内部ででも、不安をもって問われるということを知っている」、また彼は、「彼の読者たちが、そのことについて知っているということ知っている」、「この孤独なキリスト教の思想家もひどく生き生きと非キリスト教的思想家のもろもろの可能性と取り組んでいる」。「この状況との対決の中で、アンセルムス的な知解スルintelligereは遂行され、その限りそれは証明スルprobareになる」。

 

 「ここで、『証明』とは何を意味しているかを理解したいと思うならば」、「キリスト教の〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての〕Credoの諸命題に内在しているところの、真理ノラチオそのもの〔換言すれば、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする主観的な「認識的な<ラチオ性>」を包括した客観的な「存在的な<ラチオ性>」は――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〕」は、「一瞬間たりとも議論の的になっていないということ、自明的な議論の基礎を形造っているということに注意しなければならない」。したがって、アンセルムスの「対話の形と証明しようとする意志」は、党派的二元主義あるいは党派的多元主義において「信仰と不信仰、教会の声とすべてのそのほかの声が同じ権利を持っているプラットホームに赴くということを意味してはいない」、それ故に還相的観点を持たないただ往相的な観点だけの信、信者、知だけからする、不信、不信者、非知に対する、啓蒙主義、外部注入論、迎合主義とは全く違っている――「……質疑応答ノ形式ニヨル探究ハ多クノ人、特ニ理解度ノ鋭イ者ニハ把握シヤスク、シタガッテソレダケ彼ラノ意ニ適ウデアロウ」。「次に、仮定されている質問者兼反対者ボゾ」は、「はっきりと言葉に出して、アンセルムス的な私ハ知解スルタメニ信ジマスの地盤に身を置いており、対話の中でなされている『不信者』のために代理となることをば『仮面』と言い切っており〔すなわち、「私ガ異教徒ノ言葉ヲ使用スルコトヲオ許シクダサイ。私タチガソノ信仰ノ根拠ヲ探究シヨウト努メル時、……彼ラノ異議ヲ、私ガ提出スルコトハ妥当ダカラデス」、「コノ問題デハ、貴君ハ、……何モ信ジタガラナイ人々ノ立場ヲトッテイルノデ」と言い切っており〕」、「神学に相対して、同時にまた〔第三の形態の神の言葉である全く人間的な〕教会の権威の利害を代表している」。アンセルムスは、「自由な確信の自由な学校とは別なところにいる」、換言すればアンセルムスは、自然科学や人文科学についての自由な学問・研究の場である「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)とは別なところにいる。「また、アンセルムスと、マルムティエの修道僧で『プロスロギオン』二-四章の部分の批判者であるガウニロとの関係についても、事情は、それと別様ではない」。ガウニロは、「書物の第一部のことを、論証ガサホド確実ニナサレテイナイとしても、直観ノ正シサヲモッテナサレテタモノという留保のもとで全体を肯定することができ、肯定すべきであると考えている」。したがって、ガウニロは、「神の存在ではなく、ただそのためになされたアンセルムスの証明のことを論じている」。アンセルムスにとっては、「あの客観的なラチオ性の資格づけられた教会的な前提なしには〔換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする主観的な「認識的な<ラチオ性>」を包括した客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての教会的な前提なしには〕、知解スルことのための努力全体は、……また神学的な議論と弁証論の問いと答え全体は、対象がなく、意味のないものであった」。アンセルムスは、「神が存在し、神は最高の本質であり、三つの位格〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方〕における一つの本質であり〔すなわち、「自己自身である神」としての「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の内在的本質としての「失われない単一性」であり〕、〔「自己自身である神」としての「三位一体の神」の内在的本質が肉となったのではなく、その神の第二の存在の仕方である言葉が肉となった、すなわち〕人間となった……ということがまことであるという前提のもとで、アンセルムスは、どの程度までそれがまことであるかという問いを論じるのであり、彼がこれこれの信仰命題に関して、この『どの程度まで』を問い、自分に問わせる時、彼は、すべての自余の命題の前提された真理からして答える」のである。何故ならば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしだからである(『教会教義学 神の言葉』)。「もしも彼が自分自身に徹底的に矛盾することがないとすれば、それは、知解スルことについてのこの彼の概念が、また証明スルことについての彼の概念であるからである」。「『どの程度まで』についての不安」は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在しているキリストにあっての神としての神の「事柄に適ったものであり、意味深いものである」――……私ハ論述ニ対スル反論ガイカニ単純デオヨソ愚カシイモノデハアッタトシテモ、ソレヲ無視セズニ先ニ進ミタイ。ココマデ述ベテ来タコトニ曖昧ナ点ガ残ラナイト、私モソレダケ確実ニ論ヲ進メルコトガ出来ルシ、マタ私ガ黙想シテイルコトヲ人ニ納得サセタイコトガタマタマアッタトシテモ、スベテノタトエ小サナ障害デモ除去シテイタナラ、理解ノ早クナイ者モ話ヲ聞イテ容易ニソレヲ理解出来ルデアロウ」。このことに、「すべての人間的な知解スルことの限界と不確実さについての不安、知解を基礎づける信仰の行為が真正なものであることについての不安、最後に知解をはじめて現実のものとする、常に新しく願い求められなければならない、神の恵みの現臨についての不安が、付け加わってくる」。「しかしながら、神が、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書の中で、また〔その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的>な信仰告白および教義としての〕Credoの中で、ご自分の事柄をよくなし給うたかについての不安」、「不信仰ないしは疎遠な宗教あるいは異端の存在を通して不安ならしめられること、啓示の否定の可能性を真剣にとること」は、「アンセルムス的証明の前提には属していない」。何故ならば、アンセルムスは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼している」からである、その<総体的構造>に信頼しているからである。

 

神学の目標証明)」(その2

 アンセルムスは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼している」(『教会教義学 神の言葉』)ことからして、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が聖書の中でまた〔その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての〕Credoの中でご自分の事柄をよくなし給うたかについての不安不信仰ないしは疎遠な宗教あるいは異端の存在を通して不安ならしめられること啓示の否定の可能性を真剣にとることはアンセルムス的証明の前提には属していない」。このような訳で、「アンセルムスの教義学的な作業は、キリストの啓示を〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示を〕、それ故に彼自身の前提を、否定する者たち〔「証明の受領者としての異邦人・ユダヤ人・……異端者」たち〕を念頭においているということ、いや、彼は、そのような者と対立しつつ、そのような者に身を向けて、何かを語り、そのような者を少なくとも沈黙にいたらせようと欲しつつ語っているということ」――このことは、「疑いの余地がないことである」。したがって、「アンセルムスの書物の内のどの一つも、<直接的に>外に向かって身を向けている者として、それ故に近代の意味での『弁証論的』なものとして……主張されてはならないのである」。「アンセルムスが考えており、興味を感じている読者は、キリスト教の神学者たちである。もっと正確に言うならば、彼の時代のベネディクトゥス派の神学者たちであった」。「それにも拘らず、アンセルムスの神学は、密教的な知恵ではない」。「アンセルムスの神学は、『私タチノウチニアル希望ニツイテ理由ヲ求メル者スベテ』に対する弁明として展開される」、換言すれば「キリストの啓示を〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示を〕、それ故に彼自身の前提を否定する精神の否定である〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>――この「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼する」自分の立場において、「彼自身の前提を否定する精神」を包括し止揚する思惟行為である〕」、「否定する精神」を自らの立場において包括し止揚する精神(神学)である。「私ガ本論デ論駁シタアノ〔「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しない」(『教会教義学 神の言葉』)〕『愚か者』」、「不敬虔ナ者タチニハ、ワレワレノ信仰ハ道理ヲ尽クシテ理性的ニ擁護サレネバナラナイ」。したがって、アンセルムスが、そのような「否定する精神やそのような者の地盤の上に身を置かなければならなかったとか、実際に身を置いたということは、決して語られて<いない>し、彼は、そのようなことは<なすことができなかった>し、そのようなことを<しなかった>」。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――第三の形態の神の言葉である教会に属する全く人間的なわれわれは、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イエスキリスト信ずる信仰」)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「成就と執行、永遠的実在としてある」成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な「救済」そのもの、それ故に「平和に関するバルトの書簡」によればその包括的な救済概念と同一である「平和」そのもの、「神ご自身によって確立された和解、神と人間……また人間とその隣人との平和」そのものであるところの、>と<不信>(外在的な不信および信仰の側にも内在する内在的不信)を架橋されたところのイエスキリスト自身、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエスキリスト自身――この一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派〔学派、教派、非キリスト教、思想傾向、時流、「同時代の人たちの思考の前提」や「そこから形成された理解の規準」、類的機能を持つ生来的自然的な自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、さまざまな主義や主張〕に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」、と。人間学的領域における思想家の吉本隆明も、『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」で、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している中で、自らの立場において両者を包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である」、と述べている。「なぜなら、マルクスの敵たちはそのことを理解しなかったが、思想は物質ではなく外化された観念であるから、〔その〕観念の運動は観念によってしか埋葬されず、甲の観念〔甲の思想、その甲の思想にある根本的包括的な原理的な問題〕は乙の観念〔乙の思想〕がそれを〔根本的に原理的に〕包括し、止揚することによってしか……亡びない〔死滅させることができない〕」からである(吉本隆明『カール・マルクス』)。そのためには、問題を根本的包括的に原理的に明確に提起しなければならない。「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」(マルクス『ユダヤ人問題によせて』)。

 

 アンセルムスは、「論争的・弁証論的なプログラムを、馬鹿ゲタ質問ニ賢明ニ答エルコトである……というように表現した時」――すなわち、「彼ら〔「否定する精神」、「不信者」〕がイカニ非理性的ニワレワレヲ侮ッテイルかについては理性的ニ示サレルベキであるというように表現した時」、また「彼らは『不条理ニモ知ラズニイルモロモロノコトニ理性的ニ到達スルコト』へと指導されなければならないというように表現した時」、また「理性ヲモッテ自己弁護ヲシヨウト努メル彼〔すなわち、「否定する精神」、「不信者」〕ニ対シテハ、ソノ誤謬ガ……立証サレナケレバナリマセンというように表現した時」、そこでは「対話の相手たちが、知恵と愚カサ、理性的デアルコトと非理性的デアルコトの対立そのものの二つの……違った平面の上に身を置いていることとして指し示している」。この時、「人は、……アンセルムスが、……急に、不信者に対して(それに加えて、自分自身に対して)〔先行する客観的な〕『存在的な<ラチオ性>』によって条件づけられることのない〔主観的な〕『認識的な<ラチオ性>』を、最高ノ真理によって最後的に条件づけられること<なしに>〔換言すれば、最後的に、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面である主観的な「認識的な<必然性>」(「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」)を前提条件とすることなしに〕、〔主観的な〕『認識的な<ラチオ性>』を認めたと……言い切ることは不可能でなければならない……」。「アンセルムスにとっては、そもそも〔主観的な〕自己救済は存在しないように、また非ラチオ性〔すなわち、主観的な『認識的な<ラチオ性>』を欠如させたそれ〕からラチオ性〔すなわち、先行する客観的な「存在的な<ラチオ性>」の中での主観的側面としての主観的な『認識的な<ラチオ性>』としてのそれ〕への、愚カサ〔すなわち、客観的な『存在的な<ラチオ性>』を欠如させたそれ〕から知恵〔すなわち、主観的な「認識的な<ラチオ性>」を包括した客観的な『存在的な<ラチオ性>』としてのそれ〕への自己救済は存在しない」――「コノヨウニ多クノ、マタコレホドノ打チ傷ニヨッテモ、苦シミニヨッテモ、私ハ自分ヲアナタニ向ケルコトハデキマセン。ソシテ、死ニヨッテハ、私ハ押エツケラレ、無力ニサレルバカリデス。シカシ、アワレミ深イ父ヨ、ワタシヲ立チ帰ラセテ下サイ。ソウスレバ、私ハアナタニ向キカエラサレマス」。「〔主観的な〕『認識的なラチオ性>』〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」としてのそれが〕、非ラチオ性〔すなわち、主観的な『認識的な<ラチオ性>』を欠如させたそれ〕から抜きん出つつ自分をあらわす時」、それ故に先行する客観的な『存在的な<ラチオ性>』に包括された「〔主観的な〕『認識的なラチオ性>』マコトノラチオとなるということが起こる時」、客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」――換言すれば、客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる理性的な信仰の認識としての神認識、啓示認識(すなわち、啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、先行する客観的な「存在的な<ラチオ性>」に包括された「〔主観的な〕『認識的なラチオ性>』に対して上から自分自身からして明るく照らし出す真理ノラチオ〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」としてのそれ〕、すなわち信仰ノラチオそのものの業である」。

 

 そのような訳でアンセルムスのその概念は非弁証法的主観的に理解するのではなく動的な意味で理解することが適切である〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、その客観的側面と主観的側面との関係と構造(秩序性)としてある弁証法的な動的な意味で理解することが適切である〕」。「そのことのために、〔第三の形態の神の言葉である教会に属する〕人間の側で起こることができるところのこと次のことである。それは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続し、その秩序性における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち、区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が〔全世界としての〕教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、換言すれば全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え(『福音と律法』)という連関と循環において、イエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活けるヒトツノ聖ナル公同ノ教会共同性を目指していくということである(何故ならば、Ⅰコリント310-11、エフェソ24以下であるからである)。イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉、キリスト教使信の<中心>」は、教会共同性という「狭い共同体からその事実をまだ知らぬすべての他の人々、広い共同体に向かっての運動において」、個体的自己としての全人間、全世界、全人類に対して「完全に開かれている」(『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/1 和解論の対象と問題』)。また、「われわれは、心を頑固にし福音を認めない人間や異教徒に対して、恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」から、「われわれがそうした人々に呼びかけることができるのは、私がその人をその中に置くことによってではなく、〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(イエス・キリスト<>信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのものとしての「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この包括的な救済概念と同じである)そのものである〕イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってである」、それ故に「われわれは、キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」(『証人としてのキリスト者』)。「不信者たちは確かにキリスト教の〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としてのCredoの使信を聞くが、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間の生来的な自然的な〕理性にとってはCredoの使信は、〔生来的な自然的な〕理性に逆らっているように見えるのである」。それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間の「自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等々〕によっては全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)。神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>主観的な「認識的な<ラチオ性>」というイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた「キリスト教信仰ガ、〔われわれ人間の生来的な自然的な〕理性ニ反スルト考エ、ソレヲ拒否スル異教徒……」、「多クノ人ハ、理性ニ反スルト思エルコトヲ神ガ欲スルトハ決シテ認メナイカラデス」。「不信者たちは、彼らが信じようと欲する前に、先ず第一にこのラチオ性について知ろうと欲する」、「コノ信仰ニ理性的説明ナシデハ近ヅクコトヲ全ク望マナイ人タチ」、われわれ人間の生来的な自然的な「理性ニヨッテ立証サレナイコトハ何モ信ジタガラナイ人々」、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍によって立証されないことは何も信じたがらない人々である。

 

 そのような訳で、「その最後の点でアンセルムスが彼らを助けようと欲することができないということは明らかである」。何故ならば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>主観的な「認識的な<ラチオ性>」というイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいたキリスト教「信仰は、〔先行する神の〕権威に対する服従、知解に先行しなければならない服従」――この「正しい秩序を解消させようと欲することはできない」それであるからである。したがって、「その服従が出来事となって起こらない時アンセルムスとその議論相手の者たちとの間の深淵はあくまで残るのである」、「説明することのできない可能性は残るのである」、「対話相手は愚カ者であり、愚カ者であり続けるという可能性があくまで残るのである」、それ故に「対話相手とのすべての議論は意味のないものであり、目的のないものであるという可能性があくまで残るのである」――「啓示の事実の不把握性に、予定の不把握性が対応している。アンセルムスは、『義ナル者ト不義ナル者ノ子供タチガソレゾレ洗礼ノ恵ミニ選バレ、アルイハ退ケラレル』のを見ている、そしてこの神秘と直面して、説明も忠告も知らないのである。『ナゼアナタハ最高ノ慈悲ニヨリ、同ジ悪人デモ一方ヨリ他方ヲ救イ、アナタノ最高ノ正義ニヨッテ、一方ヨリ他方ヲ罰スルカタハ、タシカニドノヨウナ理由ヲモッテシテモ、全ク理解出来マセン』」。「もしも……徹底的に、最後決定的に、〔その者に〕<信仰>が欠けているなら、その者に対して、信仰の<知解>に関して、助けようと欲することは、ただ無駄であり得るだけである」し、「愚カシイ仕方デ尋ネルコトと知恵アル仕方デ答エルコトは、あるいは非理性的に軽蔑スルコトと理性的ニ示スコト」は、二元論的に、党派的に対立したまま「互いに並んで走るだけであるから、一度そのことが見て取られる時には、助けようと欲することは免除されてよいであろう」。

 

神学の目標証明)」(その3

 しかしアンセルムスは一方でそれらの可能性の事実を計算に入れなかったいずれにしてもそれらの可能性についての考えを全く用いなかったという顕著な事実の前にわれわれは立つ――この事実は、「神証明の高所において、愚カ者ダト言ウベキデス。ダカラ、彼ノ言ウコトハ無視スベキデス」と思惟し語ったアンセルムスにおいて、「わたしの知っている限り、二度起こっている」。それは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、換言すれば神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)<と>主観的な「認識的なラチオ性」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性というこの正しい秩序において服従が出来事となって起こる時には、「あの対話相手とのすべての議論は意味のないものであり目的のないものであるという可能性が残るというその可能性の事実を計算に入れない>」ということその可能性についての考えを全く用いない>」ということが起こるということである

 

 「アンセルムスの書物は、まさに論争という点で、顕著な柔和さを持っている」。その「柔和さは、〔資質的〕、人格的、心理学的に評価することができるし、評価しなければならない」。しかし、「アンセルムスの怒りの感情にまで高まる少数の例外は、いろいろな点で特徴的である」――「まさしく感情を害しつつ、ある同時代の唯名的・哲学的な背後関係に反対しつつ語っている〔下記の注1を参照〕。……彼にとって、洗礼と直面して、『キリスト教的』異端の事実……は全く理解できない。自由の問題の詳論において、何故神は人間を誘惑され得ない姿に関してご自分と同じように創造されなかったという問いを立てたボゾは、〔アンセルムスから〕鋭い仕方で怒りをぶつけられている」。アンセルムスが、「不信者と間違った信仰を持つ者たちに対して、ワレ知解センガタメニ信ジルおよび彼の予定説的な背景〔下記の注2を参照〕にもかかわらず、証明しようと欲することに……従事したという事実」は、「彼ラハ信ジナイカラソレヲ求メ」、「私タチハ信ジルカラソレヲ求メル私タチガ求メテイルモノハ一ツ」――それは、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としての「Credoの個々の部分の相互の関連づけ合いの解明を通して示されるべき信仰の認識的なラチオ性〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする先行する客観的な「存在的な<ラチオ性>」に包括された主観的な<ラチオ性>としてのそれ〕ということである」という理解を要求する、換言すれば徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された<人間の理性性>というという理解を要求する。このように、「アンセルムスは、不信者たちに対して、彼らが欠けていることに気づき、彼らが問うている信仰のラチオ性」は、「アンセルムス自身が尋ね求めている信仰のラチオ性とは別なものでないことを信頼し認める」。ただ、「信じる者」は、「自分が――つまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等々〕によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する」(『福音主義神学入門』)。イエスキリストにおける啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力総体的構造を持っていることからして、「不信者たち、「啓示そのものに躓くのではない」、彼らは「啓示の問いそのものを未決なものにしておきながら」、すなわち第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあって神としての神の特別啓示を、聖書を原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、明確に提起でき得ないが故に、「啓示のあれやこれやの構成要素に躓くのである」したがって、「彼らにとって啓示のまとまった関連性、啓示の全体性は知られておらずそれであるから啓示の構成要素そのものの中のあれこれのものが〔個々の構成要素が〕理解できるものとなることができない」のである。この「躓きは、……キリスト教の神学者を信ジルコトから知解スルコトへと駆り立てたし、今も駆り立てている躓きと同じである」。

 

注1唯名論的な命題と半唯名論的な命題について:第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここにおいては、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、換言すれば「三位一体の神の」根源(起源)としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊は、父と子が根源である」ところの「神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」ことからして、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、換言すれば起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>、この「自己自身である神」としての「三位一体の神」<と>「われわれのための神」というその<全体性>におけるキリストにあっての神としての神の認識を欠き退けた「極端な対立の主張」は、「古代においては、エウノミオスによって、中世においてはウィルヘルム・v・オッカムおよびカブリエル・ビエルによって代表された厳格な唯名論的命題に見ることができる」。「エウノミオスによれば、神は事実ただ裸ノ本質〔すなわち、「神の本質は、概念的に、第一義的、最後的、本来的に単純なものであるという事柄の不可避性から、そのほかのすべての言明は、認容、単に副次的な意味でだけ有効な真理の性格以外の性格を持つことができない固有ナコトである神の裸の本質」〕として言い表された」、また「教皇ヨハネス二二世に非教会的な教えとして断罪されたマイステル・エックハルトによれば、神ゴ自身ノ中デハイカナル区別モアリ得ナイシ、イカナル区別モ認識サレ得ナイと言い表された」、また同じように近代主義的プロテスタント主義的キリスト教的神学者の「シュライエルマッヘルによれば、われわれが神(その方の本質は、彼によれば、原因性の中で尽されてしまう……神)に帰するすべての性質〔すなわち、「差異性」・「相違性」としての「多数性」と「個別性」〕は、神の中での特別なものを言い表しておらず、……ただ宗教的な自己意識の様々な段階において、絶対依存の感情〔「敬虔心」〕を神に関連づける際の関連の付け方における特別なことを言い表していた」、また「R・ゼーベルクによれば、神の絶対的な単一性に対応しつつ、われわれは、性質〔すなわち、「差異性」・「相違性」としての「多数性」と「個別性」〕の中に、それ自身徹底的に単一的な神性の(われわれの思惟にとって避けることのできない)表現以外の何ものも見て取ることないであろう」と言い表された。これらの言明はすべて、イエス・キリストにおいて自己啓示(自己顕現)されたところの、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)、この「自己自身である神」としての「三位一体の神」<と>「われわれのための神」というその<全体性>におけるキリストにあっての神としての神の<後者の認識>を欠如させ退けているのである。

 しかし、「神学的伝統の主な流れ」は、前段で述べたような「厳格な唯名論とは違って、神の完全性の多数性についての言明」は、「われわれの神認識についての言明である〔すなわち、われわれ人間の自由な類的機能を持つ自己意識・理性・思惟の神認識についての言明である〕……ということの方に、強調点が置かれている」(<半唯名論的命題。「イレナエウスは、神の〔多数性の〕性質を、『人間ニトッテ神ニツイテ聞キ、語ルコトガ可能デアリ、フサワシイモノデアル限リ、ソノヨウナ完全サノ名』のことであると定義した」。「トマス・アクィナスは、……神ニツイテ語ルニアタッテ、ソノ自存性ヲ表示スルタメニハ、具体名辞ヲ用イルノデアッテ、ソレハ、ワレワレノ世界ニオイテハ自存シテイルノハ複合的ナモノノミデシカナイカラデアル。ソシテ、他方、神ノ単純性ヲ表示スルタメニハ、ワレワレハ抽象名辞ヲ用イルノガ常デアル。ダカラ、タトエ『神性』トカ『生命』トカ何ラカコウシタモノガ神ノウチニアルトイワレルコトガアッテモ、コウシタ措辞ハ要スルニ、ワレワレノ知性ガ神ヲドウ取ルカノ相違ニ起因スルモノと解サレルベキデアッテ、決シテ事柄ソノモノニオケル何ラカノ相違ニ基ヅクモノトサレルベキデハナイ」、「イマ、ソレ自ラニオイテ考エラレル限リ神ハ完全ニ一ナル者、単純ナル者であるが、然シナガラ、ワレワレノ知性ハ、神ヲソレ自ラニオイテアルガママニ見ルコトガデキナイタメ、様々ナ観念ニ従ッテコレヲ認識スル。ダガ、タトエ、神ヲ捉エルノニ様々なナ観念ノモトニオイテスルトハイエ、知性ハヤハリ、単一ニシテ同一ナ単純ナモノガコレラスベテノ観念ニ対応シテイルモノナルコトヲ認識シテイル」、「チョウド様々ナ事物ガ、神デアリ給ウ単一ナモノニ、様々ナ形ヲ通シテ似ニセラレルヨウニ、ワレワレノ理解ハ様々ナ概念ヲ通シテ、ヒトツノ単一ナモノニイクラカ似サセラレル。……ソレ故ニヒトツノモノニ関シテ多クニコトヲ理解スルワレワレノ理解ハイツワリデモナケレバ空シクモナイ。何故ナラバ、アノ単一ナモノガ神的デアル際ノ固有ナ在リ方カラシテ多種多様ノ形に従ッテソレラノ概念ハソノモノニ似サセラレルコトガデキルカラデアル」、と述べている。このような訳で、「ポラーヌスは、……神ノ本質的ナ性質ハ、(実際ニ区別サレルノデハナイヨウニ)事物の本性カラシテ区別サレルノデハナク、……理性ニヨッテ区別サレル。更ニモットヨイ言イ方ヲスレバ、ワレワレノ概念ト理解デモッテ、アルイハワレワレノ認識ノ仕方ニシタガッテ、区別サレル」、と述べている。また、「クエンシュテットは、ワレワレノ有限ナ理解ハ、神ノ無限ナ、最モ単純ナ本質ヲ、ヒトツノ全キ概念ヲ用イテ全キ仕方デ心ニ思イ浮カベルコトガデキナイノデ、ソコデワレワレノ理解ハ、ソレヲ不完全ナ仕方デ表示シテイル様々ナ、不十分ナ概念ヲ用イテ神ノ本質ヲ把握スル。ソレラノ不十分ナ概念ハ、神ノ性質オヨビ属性ト呼バレル」、と述べている。「ヴェークシャイダー」は、「これらの不完全な仕方での、不十分な認識」、概念構成について、人間的「精神ノ虚弱サに根拠づけている」。これらの言明の「強調点は、……神ご自身が、その性質のあの多様性の中で認識されることによって、身を落としてわれわれに合わせ、われわれの認識能力に適合し給うたということの上に置かれた。このことを、「ダマスコのヨハネは、……神は名を持ち給わない、『しかし、善意からして、われわれに対応させつつ、ご自分を呼ばしめ給う』」、と述べている。また、「カルヴァンは、……神の性質は、『神ガ神自身トシテ何デアルカ』デハナク、『ワレワレニ対シテ何デアルカ』を語っている」、「ソノタメ、神ニツイテノコノヨウナ認識ハ、空虚デ見掛ケ倒シノ思弁ヨリモ、ムシロ生キ生キシタ感動ノウチニアル」、と述べている。また、「ヴォレプは、……神的ナ属性ハ……ソレニヨッテゴ自身ヲ虚弱ナワレワレニ対シテ認識スベク提示シ、マタ被造物カラ区別サレル神ノ性質ノコトデアル」、と述べている。また、「C・I・ニッチ」は、「神の性質は、自己意識および世界意識の運動および変化を契機に、性質として開示される」、と述べた。このようにそれとしての神の性質そのものを……主張しようと望んだこれらすべての命題の背後には唯名論的な背景および意味が隠れている」のである(<半唯名論命題)。「トマスアクィナスはもちろんのことシュライエルマッヘルもそのことをしているのであり」、その地盤の上に身を置いたプロテスタント正統主義はなおさらそうなのである」。これらの言明はすべて、イエス・キリストにおいて自己啓示(自己顕現)されたところの、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)、この「自己自身である神」としての「三位一体の神」<と>「われわれのための神」というその<全体性>におけるキリストにあっての神としての神の<前者の認識>を欠如させ退けているのである。こうした中で、「クエンシュテットは、神ノ属性ハワレワレノスベテノ知的活動以前ニ、神ノ中デマコトデアリ、固有ナモノデアルという命題……でもって唯名論的な根本的な見方を見かけ上だけ破砕した」のである。ここで「見かけ上だけ破砕」という意味は、その命題の主張には一貫性がなかったからである、換言すれば唯名論的な命題の問題を「明確に提起する」ことができなかったからである。すなわち、「クエンシュテットは、その命題を翻して、……モシモワレワレガ、本来的ニ、正確ニ語ロウト欲スルナラバ、神ハイカナル固有性モオモチニナラズ、……事実的ナ区別モ、イカナル(事柄ニシロ流儀ニシロ)合成モユルサナイ純粋ナ、最モ単純ナ本質……デアリ給ウ。何故ナラバ、ワレワレハマコトニ最モ単純ナ神ノ本質ヲヒトツノ全キ概念ヲ用シテ完全ナ仕方デ心ニ思イ浮カベルコトハデキナイカラデアル。ソレ故ニ、不十分ナ仕方デ神ノ本質ヲ表示シテイル不十分ナ、様々ナ(……属性ト呼バレル)概念ヲ用イテ不十分ナ仕方デ神ノ本質ヲ理解スル。ソノヨウニワレワレノ理解ハ、事柄ノ側カラハ区別サレテイナイコトヲ区別スル」、と述べているからである。ポラーヌスも、クエンシュテットと同じ轍を踏んでいる。「ポラーヌスは、神ノ本質的ナ性質ハ永遠カラ永遠ニワタッテ神ノ中ニアル……神ノ本質ヨリモ後デアルトイウコトハナイ。何故ナラバ、ソレラハソレ自体デ同一ダカラデアル……。神ノ本質的ナ固有性ナシニハ、神ハ(ゴ自身ナシニ存在サレナイヨウニ)存在スルコトガデキナイ」と述べながら、「その後直ちに〔その命題を翻して〕、……本来的ニ言ウナラバ、神ノ中ニハ多クノ性質ガアルノデナク、タダヒトツノ性質ガアルダケデアルソレハ、神ノ本質ソノモノ以外ノ何モノデモナイ。……シカシワレワレノコトヲ顧慮シテ、アタカモ多クノ性質ガアルカノヨウニ言ワレル。ソレハ、ワレワレノ中ニ多クノ性質ガアルカラデアル」、と述べている。このような訳で、「ペトロス・v・マストリヒトも、……ワレワレガマズ第一ニ神ノ本質ヲ……ソコカラ属性ガ出テクル根ノヨウニ理解スル限リ、属性ハ神トアタカモ言ワバ第二ノ本質ニオイテ合致スルヨウニ、神ニ合致スル。何故ナラバ、ワレワレハ、神ハアワレミアリ、智恵ニ富ミ、正シイ方デアルト理解スルコトガデキル前ニ、神ハ存在スルト理解スルカラデアル」、と述べている。「この認識ノ方法は、<事柄ノ中ニ含マレルスベテノ基礎>〔このことは、「トマスの後に続いたカトリックの教義の中でも……多くのことが語られた」〕ヲ欠イテイナイ」、「ただ単に人間の情に合わせてだけでなく、マコトニ、固有ナ仕方デ、神の性質について語るべき権利と必然性を基礎づけた」が、「しかしながらこの基礎ということで何が理解されるべきであるかについて、人は、立ち入って説明しようとしなかったし、そのことを立ち入って説明することはできなかった」。何故ならば、「神の本質ということで……それとしての神の本質essentiaそのものが、換言すれば根本においては結局……それが単純なものであるということが概念的に見て第一のこと、最後的なこと、本来的なことであり、その事柄において語られなければならず、それに相対してすべてのそのほかの言明は、認容、単に副次的な意味でだけ有効な真理の性格以外の性格を持つことができない固有ナコトである神の裸ノ本質が理解されなければならないという前提〔<唯名論>的命題〕が確立されていたからである」。「ポラーヌス、クエンシュテット、v・マストリヒトたちは、聖書が性質的に規定された神の本質について語った際の重要な意味づけに対して公正であろうと努力した」のであるが、すなわち「神ノ独自ナ性質は神の本質の属性アルイハ偶性ではなく、この本質そのものであるという命題は、まさに昔の属性論の中心命題として言い表わすことができる」のであるが、「この命題の解釈は、……全線にわたって独自ナ性質に不利な仕方でなされた」のである。言い換えれば、「独自ナ性質がその本来性〔「われわれのための神」としてのその三度別様な三つの存在の仕方における「失われない差異性」〕を、最後的には本質〔「自己自身である神」としての「三位一体の神」の内在的本質である「失われない単一性」〕を有利にする仕方で喪失させてしまった」のである。したがってその命題の解釈はそれに対するわれわれの関係の中に基礎づけられているとして説明されたのである」。「人が神の本質をあの純然たる存在の中に見出すと考えたということは人が彼の神概念を、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教における「神論の決定的に重要な構成要素であり、啓示の認識原理である」〕三位一体論から定義せずに、……一般的な神概念〔すなわち、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「古代ストアおよび新プラトン主義の神概念」〕からして定義したということでありそれ故にそのことが、……悪い報いを受けたのである」。「アウグスティヌスも、多様〔すなわち、「主的であること」、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」〕ノ単純性〔すなわち、「主」、「本質」、「自己自身である神」としての「三位一体の神」の内在的本質である「失われない単一性」〕あるいは単純ナ多様性についてのその言葉でもって、……主と主的であること、主的であることと主との間の神の中にあり勝利を収める単一性を実り豊かなものとすることはできなかった」。彼らは、「神的な性質を非本来的ニ解釈した」が故に、「D・F・シュトラウスがあざけったように、『不幸な真中に身を置いたということは、……否定されるべきもないことである」(『教会教義学 神の言葉』、『教会教義学 神論』)。

 

注2アンセルムスにとって、「啓示の事実の不把握性に、予定の不把握性が対応している」――「『義ナル者ト不義ナル者ノ子供タチガソレゾレ洗礼ノ恵ミニ選バレ、アルイハ退ケラレ』のを見ている」、「そして、この神秘と直面して、説明も忠告も知らない。『ナゼアナタハ最高ノ慈悲ニヨリ、同ジ悪人デモ一方ヨリ他方ヲ救イ、アナタノ最高ノ正義ニヨッテ、一方ヨリ他方ヲ罰スルカハ、タシカニドノヨウナ理由ヲモッテシテモ、全ク理解出来マセン』」。

 

 「アンセルムスは、不信者との議論において、その者の地盤に、……一般的な人間理性の地盤に、その者と共に身をおくことなしに」、「しかしまた、その者に対して、……まず信者へと回心していなければならないという条件を付けることなしに、証明しようと欲することに従事する」。「アンセルムスは、彼自身の地盤、すなわち厳格に神学的な(むしろわれわれは今日、こう言うであろう、〔<教会>〕教義学的な)即事性の地盤を、同様に『不信者』も全くよく話し合いに加わることができ、加わろうと欲することができる地盤であるとみなしている」。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての<教会>「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない。何故ならば、最も単純な福音の宣教も、それが〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた〕神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができるからである。教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない。〔したがって、〕教義学者とはただ単に教義学を専攻する大学教員や〔牧師や聖職者や〕著述家だけのことではなく、広く一般に、〔それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられたところでなされる教会の宣教における〕今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たちのことである」。したがって、アンセルムスは、「不信者を、その彼自身の地盤へと呼び招く」、すなわちイエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、啓蒙主義的な地盤、外部注入論的な地盤、迎合主義的な地盤にではなくて、>信の側にも内在する内在的不信を含めた不信を架橋できる地盤へと呼び招く。すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼している」アンセルムスは、「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠、すなわち信仰の対象そのものの客観的根拠の力強さを念頭において、非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ、信者と不信者の間の深淵を超え出て、彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」。したがって、アンセルムスは、「(私ハ知解スルタメニ信ジマス、および彼の予定説的な背景を否定することなしに)不信者と共に、あたかもその者がボゾやガウニロであるかのように、論じることができるのである」、「彼は不信者の関心事を、実際にそのように受けとめたのである」。「アンセルムスにおいては、「『不信者』の関心事が、ただ単に何らかの仕方で取り上げられ、神学的な課題の中に共に編み入れられるだけでなく、終始、『不信者』の関心事は、信仰者の神学的な関心事と同一であるとして取り扱われている」。われわれは、「アンセルムスが、『証明スルということを、それ故に外に対して不信者が受けとるようにと向けられた議論を、信仰そのものから得ようと努めつつ努力されている探究とは異なった……箇所……を一つも見出すことはできない」、換言すればこのような「アンセルムスにとっては、神学大全とそれに加えて反異教徒大全を書くこと、〔第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての<教会>〕教義学とそれに加えて宗教哲学あるいはその種のものを書くことは……不可能であった」。イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた「まさに信仰者の知解スルコトの実行こそがまさに内に向かっての証明こそがまた外に向かっての証明でもある」。この「アンセルムス的な証明は、神学者が、世の子に対して、その者を自分の前に見出すところで、見出すままに〔換言すれば、世の子を啓蒙したり・世の子に対して外部注入したり・世の子と迎合したりするという仕方ではなしに、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた自らの神学の中に絶えず繰り返しその現にあるがままの世の子の信仰像と信仰的課題を繰り込んでいくところで〕、自分と同じ場所に、いずれにしても神学の場所にいる者として語りかけようと決心することによって起こってくる連帯責任性の前提のもとで、生起する」。このように、アンセルムスは、「世の子に対して、世の子が……いくらか明晰な理解力を持つ時、〔キリストにあっての神としての神の特別〕啓示の真理を前もって肯定しているというこなしに、どのようにキリスト教信仰の理性性〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする先行する客観的な「認識的な<ラチオ性>」に包括された主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕について確信することができるかの教示を与えると約束することができるのである」、「それから、キリスト教の教義〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする主観的な「認識的な<ラチオ性>」を包括した客観的な「存在的な<ラチオ性>」〕の前提のもとで、どのようにキリスト教信仰の理性性〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕について確信することができるかの教示を与えると約束することができるのである」、それからまた「世の子は信ジナイカラ求メルとしても、世の子は外から……全く『傍観者の態度』で問うとしても、世の子はただ単に疑うだけでなく・否定し・あざけるとしても、どのようにキリスト教信仰の理性性〔すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」〕について確信することができるかの教示を与えると約束することができるのである」。

 

神学の目標証明)」(その4

 「アンセルムスの神学は単純なものである。それが、彼の『証明すること』の全くのありのままの秘密である」。アンセルムスは、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた「キリスト教の知解を、密教的な奥義として取り扱うことはできない。世俗の思惟の冷静な光を避けなければならない行為として取り扱うことはできない。彼は、信ジナイガ故ニ、探究スル<外>に立つ者たちに対して、特別に合うように整えることなしに、証明力をもち、確信させる力をもつ彼の神学の、ただ一つの<問い>、ただ一つの<言葉>、ただ一つの<課題>を知っているだけである。彼は、信仰を、……ただ単に自分自身に対してだけでなく、ただ単に小さな群れに対してだけでなく、むしろすべての者たちに知解できるものとしようとする意図で……探究する。その時、彼は、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼している」が故に、〕あたかも〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別〕啓示と〔起源的な第一の形態の神言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および〕教義の否定など存在しないかのように、厳格な神学的な即時性の中で探究し証明するのであって、決してそれ以外の仕方で証明するのではない」。したがって、「アンセルムスは、不信仰、私タチハ信ジナイガ故ニということ、不信者の疑い、否定、あざけり、不信者自身がそれを真剣に受け取ろうと欲したほど、真剣に受けとられるべきでは全くないという前提をあえて立てたのである」。したがってまた、「アンセルムスが『証明しつつ』不信者に身を向けた時、不信者の不信仰を信じたのではなく、むしろその者の信仰を信じたのである」。すなわち、「彼は、おそらく不信者をただ単に自分自身と一緒に、神学の場の中で見ただけでなく、とりわけ自分自身と一緒に教会の場の中で見たのである」。何故ならば、イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているからである、アンセルムスはそのイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼している」からである。

 

 そのような訳で、アンセルムスにとって、「おそらく神学は、〔言葉としての〕<説教と全く同じようにキリストの宣教……行為であった」。アンセルムスにとって、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた「キリストの宣教に際しては、あの照らし出され、また照らし出す客観的なラチオへの信頼は〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、主観的な「認識的な<ラチオ性>」を包括した客観的な「存在的な<ラチオ性>」は〕、宣教者の第一の、また最後の前提でなければならず」、それ故に「キリストの宣教に際しては、罪を勘定に入れられず、罪人はその罪性において固執されず、むしろその罪性のまま、神のものとして要求されるべきであり」、それ故に「キリストの宣教に際しては、人は、聞き手の悲劇的な私ハ信ジナイを、この場合、ただ単に許されているだけでなく、まさしく命じられているユーモアをもって通り過ごして、議事日程に移ってゆかなければならないキリストの宣教の<行為であった」。

 

 そのような訳で、アンセルムスは、「おそらく、キリスト教の〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としての〕Credoについて、彼が罪人を罪人でない者として、非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけるという仕方、すなわち……結局すべての時代において、信者が不信者に語ることを決定的に可能とすることであった『あたかも……であるかの如く』の中で語りかけるという仕方以外の仕方で語る術を知らなかった」。イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼している」ことからして、アンセルムスは、「おそらく、証明しようと欲しつつ、実際に、信者と不信者の間の……深淵を超えて行った」――「ソレ故に、私ハ自分ガイカニ多クノ罪ヲ犯シ、イカニ多クノ不義ニヨッテ自分ノアワレナ魂ガ汚サレタカヲ思ウニツケ、自分ガ他ノ罪深イ人々ト同ジデアルトイウバカリデナク、ドノ罪人ニモマサッテ、スベテノ罪人以上ノ罪深イ人間デアルコトヲ知リマス」。

 

 

 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「一 神の名」(その1

 「アンセルムスはプロスロギオン四章において、(中略)『神は存在するという言明が必然的である(換言すれば、『神は存在しない』という言明が不可能である)厳密に〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に信頼している啓示〕<神学的な性格を持っている神の一つの名を前提することによって神の存在を証明する」。またアンセルムスは、「その神の名の理解からして、『神は完全であり本源的に知恵に富み力強く正しくあり給う等々という言明が必然的である(換言すれば、すべてのそれに反対の言明が不可能である)神の名の前提のもとでプロスロギオン二六章において神の本質(換言すれば、神の完全性と独一無比な本源性を)証明しようとする」。したがってこの「『プロスロギオンの二つの部分の探究における共通の論拠は前提された神の名……である」――「コノ表現ノ意味ニ(すなわち、まさに前提された神の名に)内在シテイル力ハ、ソノ言ワレタコトガ理解サレ、アルイハ考エラレタトイウ事実ヲモッテ、ソレガ実体トシテ存在シマタ神的実体ニツイテ信ズベキコトノスベテデアルコトガ、必然的ニ証明サレルホドノモノデアル」。その「神の名は、『プロスロギオン』二章の初めのところで、……はじめて現れるのであるが、そこでは、『ソレヨリモ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ』という言葉で描写されている」――この「定式は、『プロスロギオン』そのものとガウニロに反対する書物の中で、可動的なものであるが、この定式の理解のためには、ただ、maius〔ヨリ偉大ナ〕の代りにまたmelius〔ヨリ善イ〕と表現されることもできる変形だけが重要である」。この定式の語義、「ドイツ語では……それより偉大なものが考えられ得ない何かと書きかえられるべきである」。「その際、『偉大な』は、その変形であるヨリ善イと、定式の用法全体が教えているように、全く一般的に表示されている対象のすべての性質あるいは状態の高度な程度を述べている。したがって、場所と時間との関係におけるその『偉大さ』も、その精神的な諸性質の偉大さも、その力強さの偉大さも、その内的および外的な価値の偉大さも、最後にそのあり得る存在の在り方も表示している」。「その何か」は、「全く一般的に、その何かに立ちまさったものである」、「確定的な意味としては、そのものに対して、<より高い存在の仕方の中で存在しているものである」――「この語義を理解するためには、この名が語ってい<ない>ところのこと」、すなわち「この名は、〔キリストにあっての神としての〕神は、人間が現実的に考える>ところの最高のもの、それを超えたその上に、それからもっと高いものを人間が考えることができない最高のものであるということを語ってい<ないということが、また神は、人間が<考えることができる>最高のものであるということを語ってい<ないということがよく注意されなければならない」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の自由は、「自己自身である神」としての「三位一体の神」の自己還帰する対自的であって対他的な完全な自由――すなわち、「神の自足性」、「神の自由の概念の積極的側面」<と>「神とは異なるものによってなされるすべての条件づけからの神の自由」――すなわち、「神の独立性」、「神の自由の概念の消極的側面」との全体性におけるそれである。したがって、「神の名は、それによって表示されている対象は、人間がそれを実際に考えるということに、またあるいはただ考えることができるということだけにも、全く依存していないように見えるといった具合に選ばれている」。「この定式がその対象について語っていることは徹頭徹尾一つのこと否定的なことすなわちその対象よりももっと偉大なものは考えられないということである」。ここにおいては、アンセルムスが「神の概念として表示している厳格に認識的な内容の一つの概念が問題である。その概念は、神は存在するという<こと>を語っていない〔すなわち、「神の存在の問題」を語っていない〕……神は<>であるかということを語っていない〔すなわち、「神の本質の問題」を語っていない〕」。「むしろ、人間によって聞かれた禁止命令の形で……〔「神の存在の問題」に関わる〕神はであるかということを語っている」。「神は純粋ニタダ概念的ニシカ定義サレナイモノであるこの概念の中にはそこで表示された対象の存在についてと本質についてのいかなる言明も含まれていない」。したがって、「この概念が神の存在と本質の証明に役立つべきだとしたら」、「神の助けを得て認識のために証明のために唱えられるべき神の存在と本質の思想、「神の側からして信じるに値する仕方であらかじめ与えられているということが必要である」、ちょうど「<神の>側からして起こったし、起こるところの介入」としてあるところの、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているように、ちょうど先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているところの「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(すなわち、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」「まことの神」にして――すなわち、「神の顕現」にして「まことの人間」――すなわち、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、このイエス・キリストにおいて「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在する」ように、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」という「人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」ように(『教会教義学 神の言葉』、『教会教義学 神論』)。「ただ単に立ちまさっているだけでなく、われわれが神の認識可能性として理解し説明しなければ唯一の用意は、神の本質と行為、存在と現実存在の中に基礎づけられた用意である」、「神は、われわれが神認識と呼ぶ出来事の主であり給う。神は、この出来事の可能性、諸前提の総内容であり給う」(「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」)。もしもそうでないとしたならば、その神は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神ではないし、その「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)、それ故にその時には「(中略)神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した〔換言すれば、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」から発生した〕……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」、それ故にその時には「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。

 

 さて、「神は純粋ニタダ概念的ニシカ定義サレナイモノであるというこの概念の中には、そこで表示された対象の存在についてと本質についてのいかなる言明も含まれていない」ことからして、「J・ペックハイ(1292年死去)が、アンセルムスの証明を『モトモト定義カラシテ、主張サレテイル論証』として引用した時、そのことは決定的な誤解であった」。何故ならば、「教義学的な合理主義を明確に否定している」アンセルムスの第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別「啓示神学的な性格」におけるその神学においては、「神ガ存在スルカ否カハ」、「『ソレ自体デ知ラレル』ということはなく」、「信仰の前兆Vorzeichenのもとに立っていない洞察はないのであるから、「神の存在も前もって与えられている信仰命題であるこの信じられた神の存在が今や同じように信じられた神の名の前提のもとで認識され証明され必然的に考えられるべきものとして理解されなければならない」。したがって、「ソレヨリ偉大ナルモノハ考エラレ得ナイ何カ、「よかれあしかれ、……神の啓示されたさまざまな名〔すなわち、「われわれのための神」のその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>〕の間でこの度この特別な目的のために選ばれた神の一つの名〔、ソレヨリ偉大ナルモノハ考エラレ得ナイ何カ〕、その際どうしても神の認識のためにはその同じ神のほかのところでの啓示が〔すなわち、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っている啓示が、換言すれば客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な必然性」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>を持っている啓示が〕、自明のことながら前提されている神の一つの名である」。「<その限り>、そしてそれと別様にではなく、この名の理解からして神の存在と本質についての言明の必然性が生じてくる」。何故ならば、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」における神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求するからである。言い換えれば、「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)において――すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在に仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)において、詳しく言えば起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち、「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち、「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において、「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(神の本質の問題)の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示であるからである――詳しく言えば、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここにおいては、われわれ人間は神の不把握性の下にある)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示であるからである。

 

 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「一 神の名」(その2

 「われわれは、神の名の前提は、〔アンセルムスが「教義学的な合理主義を明確に否定している」ことからして、〕疑いもなく厳密に〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示に立脚したところの、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての啓示〕<神学的な性格を持っているということを確認しなければならない」。したがって、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エ得ラレナイ何カ」〔この「ヨリ偉大ナは、ヨリ善イと表現されることもできる」し、「ドイツ語ではそれより偉大なものが考えられ得ない何かと書きかえられるべきである」〕という「この定式が導入される際の導入のされ方に、すなわちこの定式が導入される際のソシテ、実際、アナタガソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カデアルコトヲ、私タチハ<信ジテイマス>という導入のされ方に、人はよく注意せよ」。

 

 「ガウニロは、信じるキリスト者として、大変よく、誰が、ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイものであるかを知っている」。「それとまた、アンセルムスが、『プロスロギオン』の序文で、この概念の発見に関してなした顕著な報告」――すなわち、「彼は、シバシバ真剣ニそれを探し求めたが遂には彼はそれを尋ね求めての探究を、不可能な企てとして放棄したし、もはやそのようなことを考えまいと決心した」が、しかし、「まさにそれと共に、考え〔その概念の思惟、探究〕が、彼にいよいよ頻りに迫ってきはじめたという報告のことが比較されるべきである」、換言すれば向こう側から、神の側から、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」、すなわち神のその都度の自由な恵みの神的決断によるその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」というイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の側から、「彼にいよいよ頻りに迫ってきはじめたということが比較されるべきである」――「ソノヨウナアル日ノコト、コノ執拗サニ激シク抵抗シ、疲労困憊ノ極ニアッタ私ノ心ニ、群ラガル思念ノ交錯ノウチカラ、<ソノ発見ヲ絶望シテイタアノ論証ガ現ワレタノデアル努メテシリゾケルヨウニシテキタ思惟デアッタガソレヲ私ハ熱心ニ迎エ入レタ>」。このアンセルムスの出来事は、「学問的な研究報告なのか、それともむしろ……おそらくはまさに典型的な……〔第二の形態の神の言葉である〕預言者的な照明の経験についての報告ではないのか」。何故ならば、その時、アンセルムスは、「神のこの表示を拘束力のない神学問題とは考えなかった」し、「神についての一般的な人間的な知識の構成要素とはみなさなかった」からである、「むしろ彼は、それを<信仰命題>とみなした」からである。アンセルムスが、「神に対して一つの名を帰す時」、「彼は、そのことを、……何かある<一つの>別な存在について一つの概念を形成するある一つの存在としているのではなく」、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)の下にあるキリスト者として、自分に先行する「自分の<創造者>の前に立っている<被造物>としている」。「この神の啓示によれば現実の神〔下記のを参照との関係の中で思惟しつつ彼は自分が、〔先に述べたキリストにあっての神としての神の「自足性」と「独立性」とのその全体を堅持すべきであるという〕あの禁止命令の下に置かれているのを認識したアンセルムスにおいては、「信仰によって排除されている愚かしいことに陥ることなしには」、すなわち「あのより偉大なものを考えようと欲することによって、自分を神の上におくという愚かしいことに陥ることなしには」、イエスキリストにおいて自己啓示自己顕現された神の上方にあるより偉大のものをつまりもっと善ものを考えることはできないのである」――「ナゼナラ、アル精神ガアナタヨリヨイ何カヲ考エ得ルナラ、被造物ガ創造者ヨリモ優位ニ立チ、創造者ヲ審クコトニナリ、コレハ甚ダ愚カシイコトダカラデス」(「アンセルムスがまさにこのところで、例外的に『ヨリ大キイmaius』の代りに『ヨリ善イmelius』を用いていることは、おそらく偶然ではないであろう」)。

 

第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神は〕、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における〕その啓示の中で〔神のその都度の自由な恵みの神的決断によるその「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた〕このわれわれ人間自身の認識の標準に従って〔すなわち、このわれわれ人間自身が人間的な言語を介して知覚し直観と概念を用いて把握する認識の標準に従って〕、われわれによって認識されるべく身を落としてご自分を低くし給う」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその神性の受肉ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方のその第二の存在の仕方における<言葉の受肉>――すなわち、「まさにイエスキリストの人間性>〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」〕こそが最高に神の自己卑下と自己疎外化を指し示している」、そのようにして、〔キリストにあっての神としての神はまことに現にあり給う、「そのようにして神はまことに現にあり給う方として、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断によるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、〕ご自分を認識させ給う」、それ故に「〔「自己自身である神」としての〕神がご自分を認識なさるのとは全く違った仕方で換言すれば〔「われわれのための神」としてその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方において、〕時間的にご自分を認識させ給う」。ここで時間的にということ、「<繰り返しの中でということを意味している」。第二の形態の神の言葉得ある聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が人間の前に立ち給い人間によって認識されるということ、「そのことが確かに時間の真中で神の永遠の言葉が人間イエスと一つである単一性の中で〔何故ならば、イエス・キリストは、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(神の顕現)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)であるからである〕、瞬時にして一度ですべてにわたって力を奮う仕方で起こった後」、「瞬時にして一度ですべてにわたって力を奮う仕方で起こるのではない」。すなわち、「神が人間の前に立ち給い人間によって認識されるということ、「その中心をめぐる周辺全体の中で、〔それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的な>信仰告白および教義としてのCredoという〕聖礼典的な実在の範囲全体にわたって、……それらのうちのそれぞれの証しと認識は他のものを待ち望み指し示しそれぞれ一つは他のものを条件づけまた他のものによって条件づけられているのであるがそのような証しと認識の続きの中で起こる」。このことは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」ということを意味している(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 「ただ見かけだけ彼によって形造られた概念」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノハ考エ得ラレナイモノ、「彼にとって実際に啓示された神の名である」。「ローマのエギディウスのところで、「<神ガ存在スルコトヲ証明スルトハ>、<神トイウコノ名ニヨッテ提示サレルモノガ何デアルノカヲ説キ示スコトデアル>というアンセルムスの意図を最も正確に描写しているであろう命題が見出される」。しかし、「エギディウスが、ソレハ、コノコトヲ証明スルアラユル論証カラ明ラカデアルと述べた時、彼のその命題は、あれら『すべての』証明の意味での名ということで、神ノ神格ノ名ではなく」、すなわち「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・業・働き・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>ではなく、「神の本質のことを言おうとしていたことが明らかでなってくる」から、その命題は、神の本質の単一性と区別〔「差異」〕」を明確に提起でき得ていない水準のものである。「ボナヴィェントゥとトマスにおいても事情はそうである」。しかし、「アンセルムス自身においては神格ノ名の意味を持っておりまたそのような役割を果たしているのである」。

 

 そのような訳で、「われわれは、アンセルムスにおいては、神の存在の証明に足を踏み入れる時にこそ、終始、そして正確に、その〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示に立脚したところの、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての啓示〕神学的なプログラムの遂行に従事しているということを見る」。アンセルムスにとっては、「自明のことながら神の存在も前もって与えられている信仰命題であるこの信じられた神の存在が今や同じように信じられた神の名の前提のもとで下記の注1を参照〕、認識され証明され必然的に考えられるべきものとして理解されなければならない」。「その際、神の名は、今度は、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としての〕Credoからとられたa……を手段として、xとしておかれた神の<存在>が、今や、未知なもの(信じられていないのではないが、しかし理解されていないもの)から知られたものに変えられるべきであるaである」(下記の注2を参照)。

 

注1「神の存在の証明を、特にトマス・アクィナスがふんだんになしたように、『神ガ存在スルカ否カハ、ソレ自体デ知ラレルノカ』に対する答えとして把握するならば、人は、アンセルムスの証明の決定的な前提の啓示神学的な性格へのアンセルムスの指し示しを看過したことになる」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示に立脚したところの、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての啓示神学的な性格を持つアンセルムスの神学においては、『ソレ自体デ知ラレ』はなく、信仰の前兆Vorzeichenのもとに立っていない洞察はない」。

 

注2「既に神の存在の<概念>を定義するのに欠くことができない信じられた神の本質>は〔すなわち、「神の本質の単一性と区別〔差異〕」は、換言すれば「自己自身である神」としての「三位一体の神」の「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」という<内在的本質>と「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な三度別様な三つの存在の仕方の「失われない差異性」(区別性)という<外在的本質>は〕、確かにbとして考察の中に入ってき、Credoのさらに引き続いての点は、cde……として、多かれ少なかれ、明らかにその背後に立つことができる」。

 

 「神ガ何デアルカヲ理解シテイル者ナラ〔換言すれば、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその神性の受肉ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方のその第二の存在の仕方における<言葉の受肉>――すなわち、「まさにイエスキリストの人間性>〔「神の隠蔽」〕こそが最高に神の自己卑下と自己疎外化を指し示している」、そのようにしてキリストにあっての神としての神は、まことに現にあり給う」ということを理解シテイル者ナラ〕、神ハ存在シナイト考エ得ナイ」。起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としての「Credoの<この>点からして、<もう一つの別な点が信じるに値するものとされるのではないが……洞察しうるものとされなければならないまさにこの点の選択まさにこの神の名の発見がアンセルムスによって証明をなしてゆくために進み行かれるべき道の上での最初の一歩であった」。「われわれは、この最初の一歩が、われわれを、いずれにしても、特別に〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示に立脚したところの、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての啓示〕神学的な思惟に結びつけられている拘束性……の中へと導き入れるということを確認する」。したがって、われわれは、「この問いにおいて認識を可能にしているように見えたあの具体的な拘束を選びとるという選択をなす」。啓示神学的な性格を持つ「最初の一歩」は、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」・「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」)を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示なし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性を選びとるという選択をなす。ここにおいて、第三の形態の神の言葉である教会に属する「人間の側で起こることができるところのこと、先にも述べたように、次のことである。それは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続し、その秩序性における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち、区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が〔全世界としての〕教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、換言すれば全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え(『福音と律法』)という連関と循環において、イエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活けるヒトツノ聖ナル公同ノ教会共同性を目指していくということである(何故ならば、Ⅰコリント310-11、エフェソ24以下であるからである)。

 

<「 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「一 神の名」(その3)>に続く

 

(文責:豊田忠義)