2.自己自身である神(ご自身の中での神)としての、それからまたわれわれのための神としての<三位一体の神>

 

聖書的啓示証言で「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、その「単一性と区別」(区別を包括した単一性)において、次のような神である。

第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、先ず以て、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、三神、三つの対象、三つの神的我ではない)である。言い換えれば、キリストにあっての神としての神は、その「自己自身である神」としての「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が根源である」ところの神である。このことは、自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における神であるということを意味している。したがって、この神は、「子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」のであるが、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」。

 

 それからまた、この神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」(区別性)の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動・活動、外在的本質)――すなわち、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体、換言すれば「先行する起源的な本来的な人格」としての「われ――存在」)において「三度別様」に、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父(「父は子の父、言葉の語り手」)と子(「子は父の子、語り手の言葉」)の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において、「神は現にあるところの方であり給う」。

 

そのような訳で、「自己自身である神」としての「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における「三位一体の神」の「完全さ、自由さ」は、存在的にも認識的にも、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における「完全さ、自由さ」である。したがって、われわれは、「まさに〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神ご自身について語らなければならないが故に」、そのことを「確認し、讃美しつつ」、「神論の決定的に重要な構成要素」であり「啓示の認識原理」であるところの「三位一体の神について語らなければならない」し、その「完全さ、自由さについて語らなければならないのである」。したがってまた、キリストにあっての「神」は、神とは異なる「被造物ではあり給わない」、「罪ではあり給わない」、「死ではあり給わない」、「単一性と多様性〔あの差異性における多様性〕の中であり給う」。「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神としての「一人の方自身」は、「自由の中で愛する方である」、それ故にその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における多様性(父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)は、「神の完全性、神の生の完全性である」。「自由・主権」、「愛」は、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」。「ここでは、ただ完全性だけが問題となってくる。何故ならば、神が現にあり給うところのもの」は、「神が現に完全性であり給うという理由で、完全であるからである」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、存在的にも認識的にも内在的にも外在的にも、「完全性であり給うが故に、完全性であり給うことの中で、完全である」。「ただ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神だけが完全性を持ち給う方として、神は完全性をご自分に固有なものとして持ち給う」が故に、「完全性は、神の中にその本質と現実存在を持っているが故に」、すなわちその完全性は、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質と「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)を持っているが故に、「完全性であり給うことの中で、完全である」。イエス・キリストにおいて自己啓示された「三位一体の神」が、「父、子、聖霊であり給うことによって」、「父、子、聖霊として自由の中で愛し給うことによって」(父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体によって)、「神にとってすべての完全性が本質的に固有である」。このような訳で、われわれは、そのイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「第一の問題」としての「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)――すなわち、イエス・キリストにおける神の自己「啓示に基づいて神について語る時」には、換言すればわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方である父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体について語る時には、同時に、その「第一の問題」に包括された「第二の問題」としての「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)――すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその「神の本質について語るのである」。「この関連性を見て取り理解することが、『神の性質についての教説』の課題である」。「われわれは、この教説の中で」、「神は、(ドイツ語はここで、ほかの国語が持っていない表現能力を持っているのであるが)ただ単に主であり給うだけでなく、そのような方として栄光に満ちてい給い、他方すべての栄光は主なる神の栄光であるという認識〔栄光」と「」との全体性においてイエス・キリストは栄光の主であるという認識〕を遂行しなければならない」。「われわれは、ここで、まさにこの概念でもってはじめなければならない……」。聖書的啓示証言「コリント二・八、ヤコブ二・一によれば、イエス・キリスト」は、「栄光〔聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等〕のであり給う」――「そのような方として、認識され承認されている」、すなわち聖書的啓示証言からすれば、「主と栄光とを切り離して認識する切り離しは存在しない」。

 

第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、「神以外の一切のものとの関係において自由であり給うということ」――このことは、神が、「他の一切のものから区別され、それらに対して独立し自立してい給う」(キリストにあっての神は、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、神としての神である)ということを、「しかも他のいかなる本質〔人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての「存在者レベルでの神」、「絶対に自由な力の精髄」、「一切事物を超越する存在の精髄」、「絶対最高の存在」、「究極最深のもの」、「物自体」等々〕からも無比な、卓越した仕方で区別され、独立し、自立してい給うということを、意味している」。キリストにあっての神としての「神は、それら一切に対して、徹頭徹尾独立してい給う。したがって、たとえそれらすべてが存在していないとしても、あるいは別様に存在するとしても、神は、〔徹頭徹尾神としての〕神であり、神以外の何ものでもあり給わない」。キリストにあっての神としての「神は、それらとの無限距離〔無限の質的差異〕の中にあり給うのであって、……有限距離〔有限の質的差異〕の中にあり給うのではない」。したがって、「それらすべてが一つの存在を、その特定の存在を持つならば、それは、神が、それらにそのような存在を、神の自由の中で与え給うたからである」。言い換えれば、「それらが〔神のその都度の自由な恵みの神的決断により、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示の固有な自己証明能力」の<総体的構造>における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の中で〕神に属し、また神がそれらに属し給うならば、この二重の所属性は、神の本質の必須条件ではない」。何故ならば、神としての「神の本質」は、「それらが神に属しておらず、神がそれらに属し給わないとしても、同じである」からである。したがって、「神とそれらのものの間に関係と結びつきがあるとするならば」、「神は、この関係と結びつきの中ででも」、「それらのものに依存しない形で、現にあるところのものであり給う」、すなわち「それらのものに依存しない形で」、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において、「現にあるところのものであり給う」。例えば、徹頭徹尾神の側の真実としてある子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としてのイエス・キリスト自身が、その復活に包括された「十字架の死の出来事」において、われわれ人間のために・われわれ人間に代わって、「われわれ人間の神の恩寵への嫌悪と回避に対する神の答えである刑罰(死)を、唯一回なし遂げ給うた(「律法の成就」・「律法の完成」の)出来事は、「われわれ人間からは何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さずとも、神であることを廃めずに、何ら価値や力や資格もない罪によって暗くなり・破れた姿のわれわれ人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬように、しかも混淆〔混交・混合・協働・共働・共労、神人協力〕されぬように、統一し給うたということを内容としている」ようにである。「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、キリストにあっての神としての神は、「その存在を、〔神とは異なる〕それらのものの存在と分有し給わない」、神とは異なる「それらのものの存在」と混淆・混交・混合・協働・共働・共労、神人協力し給わない、神とは異なる「それらのものの存在と一緒になって第三の種類の存在を構成するということをなし給わない」、神とは異なる「それらのものの存在とご自身を混同したり、取り違えることをなし給わない」、「ご自身を、それらのものの存在に変えることをなし給わない」。何故ならば、神とは異なる「それらの存在」は、「徹頭徹尾、神の存在によって制約されている」からである。キリストにあっての神としての神は、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)の下で、それ故に神のその都度の自由な恵みの神的決断により、徹頭徹尾神の側から、人間と架橋し給う、「関係と結びつきを造り出し、保ち給う」、またその関係と結びつきを「支配し給う」。したがって、キリストにあっての神としての「神は、この関係と結びつきがなくても、現にあるところのものであり給う」。キリストにあっての神としての「神と〔神とは異なる〕他者との間の現に存在している一切の関係と結びつき」は、「徹頭徹尾異なった二つの相手方同志の間で起こっており、その際その徹底的な相違性は、第二の相手方のいかなる自己規定も第一の相手方の規定を意味することができない」ということ(何故ならば、第一の相手方は、「自己自身である神」として、「自存」しており、完全に自由であるから)、同時に、「他方で、第一の相手方の自己規定は、第二の相手方の自己規定を廃することはないが、しかし徹頭徹尾第二の相手方の自己規定に先立つ、主権的なあらかじめの規定であるということから成り立っている」(何故ならば、第一の相手方は、「われわれのための神」として、その三つの存在の仕方において常に先行しており、徹頭徹尾第二の相手方の自己規定に先立つ、主権的なあらかじめの規定として、第二の相手方の自己規定から「独立」しており、完全に自由であるから)、その内在的本質としての「神の本質は、神の本質である」、その存在の仕方における神としての「神の行為は、神の行為である」、「神が愛するということ〔父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体〕は、神が愛するということ〔父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体〕である。キリストにあっての神としての神、「自己自身である神」としての「三位一体の神」は、「われわれのための神」として、「人格として」、換言すれば「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我(われ)」ではないところの、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方――すなわち、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体の中で、この「神の存在と行為の中で、……現にあるところの方であり給う」。このような訳で、われわれは、この常に先行する「神の存在を強調することによって」、後続する神とは異なる「その他の存在、その他の行為」、「またその他の愛する者、……その他の人格が存在する」と言わなければならないのである。

 

「神が何であり給うか〔「神の本質の問題」、「神の本質を問う問い」〕についてのすべての言明、あるいは神はどのようであり給うか〔「神の存在の問題」、「神の存在を問う問い」〕についてのすべての説明は、あらゆる事情の下で、神がその行為と決断の中で何であり、どのようであり給うかということを述べ説明しなければならない」。何故ならば、その「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問題」、「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問題」、「神の存在を問う問い」)を要求するからである。言い換えれば、われわれは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示の中で、神は生き給う・神は存在し給うという事実によってとらえられることに基づいて」、それ故にイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の総体的構造に基づいて、「神は生き給う・神は存在し給うという事実を把握することができるのである」。このことでもって、「神は生き給う」・「神は存在し給うという事実」は、キリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」としての「三位一体の神」として、「ただ単に最高の生、ただ単に無比な生であるだけでなく、むしろ起源的、本来的に、ただ一つの唯一の生であるということが言われている」。

 

そのような訳で、われわれは、この常に先行する「神の存在を強調する」ことによって、換言すれば「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方である父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体を強調することによって、神とは異なる後続するわれわれ人間の人間的存在等「その他の存在、その他の行為」、「またその他の愛する者、……その他の人格が存在する」と言わなければならない。ちょうど常に先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、あくまでも神の側からする神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならないように。このような訳で、まさに、常に先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意という人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」。したがって、われわれは、素直に、次のように告白する――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう」。したがって、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神を、その福音を「信じる者」は、生来的な自然的な「自分の理性や力〔知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等〕によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」、と。したがってまた、われわれは、感謝をもって、次のように告白し証しし宣べ伝える――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子信じ給うことに由って〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト信ずる信仰」によって〕生きるのだということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、「われわれの召命、和解、義認、聖化、救済、そして更新を可能とするのは、今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある『復活の力』だけである」(ここに、「福音と律法の<現実性>における勝利の福音の内容」がある――『福音と律法』)。

 

「われわれは、神の人格性という概念を取り上げる時、……人が神の三位一体に関する教説の中ででも最近に至るまで(大多数の人たちによって!)神の人格(Personen)について語ってきたことから生じる不明瞭さを意識しなければならない」――すなわち、「神の人格(Personen)」という概念(複数形)から生じる「三つの神的我(われ)」、「三つの対象」、「三神」という概念像を喚起させる「不明瞭さを意識しなければならない」。したがって、「われわれは、三位一体論と取り組んだ際」、「三位一体の事柄を言い表す」時、この「『人格(Personen)』という概念を用いることをやめることに賛成する立場をとった」のである。何故ならば、この「『人格(Personen)』という概念」は、「古典的な神学全体」においては、「人が今日『人格(Person)』という概念〔「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」概念、近代市民社会における「私利」・「私意」の概念〕によって理解するのを常としているような方向では決して理解されたり解釈されたりすることはなかったからである」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした「キリスト教会は、神の中に三つの人格」が、それ故に「三重のわれ、三重の主体、三神論、三重の対象の意味で三つの人格性が存在しているということを決して教えたことはなかった」からである。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」としての「三位一体の神」として「ご自身の中で父・子・聖霊であることによって、ご自身の中で生き給う方、愛し給う方」、それ故に「ただ一人の方であり」、また「常に、われわれは、神を父・子・聖霊として認識することによって、神を〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方において〕われわれを愛する方として」、換言すれば父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体として、それ故に「われわれに出会い、われわれに対して、汝と呼びかけ、働きかけ給う一人の方として、認識するのである」。常に先行するキリストにあっての神としての神が、それに後続するわれわれが、「人格性として言い表すことのできる者である」とすれば、それは、キリストにあっての神としての「神ご自身〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」を内在的本質とする「三位一体の神」〕の中および〔その「われわれのための神」としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における〕その業の中での三位一体性<全体の中においてであって、すなわち父・子・聖霊の共存の中での三位一体性<全体の中においてであって、決して個々の存在様式それ自体の中においてではない」。言い換えれば、「三重ではなく、三度」、「三位相互内在性の中で、一人の三位一体の神」が、「人格性であり給う」。したがって、「神の三つの顔があるのではなく、一つの神の顔が、神の三つの意志ではなく、ただ一つの神の意志が、神の三つの義があるのではなく、ただ一つの神の義が、神の三つの言葉と業があるのではなく、ただ一つの神の言葉と業があるのである」。「徹頭徹尾、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」を内在的本質とする「三位一体の神」〕一人の神が、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方において〕われわれに対して、イエス・キリストの中で啓示されているのであり、徹頭徹尾、同じ一人の神が、ご自身の中でも神であり給う」。

 

 「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方である父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体という「事実的な神の存在という行為の中で」、「神の非存在あるいは別種の存在は、存在的に、認識的に排除されてしまっており、……絶対的不可能性に……されてしまっている」。ここには、「神が存在しなければならないいかなる必要〔「必然」性〕も存在しない」。何故ならば、「神が存在し給う時、まさにこのことこそ」が、いかなる「困窮」にも、「不可避性」にも、「窮地にも追い込まれることのない」、キリストにあっての神としての「神の……自由の業である」からである、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体であるからである。

 

「モーセ五書の中で、それから再びエゼキエル書の中で、……頻繁に出てくる『わたしは主である』」、「その後、別な言い方『わたしはあなた方(あなた)の神、主である』が分析的に続いており、またヨハネ文書の中に出てくるイエスの『わたしがそれである』の中にその正確な新約聖書の平行的表現を持っている『わたしは主である』よりももっと明瞭な神の神性〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその内在的本質である神性〕についての記述は存在しない」。「この聖書的な『わたしがそれである』の中で、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての、その自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な〕主体が自分自身を措定し、まさにそれと共に〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方において〕自分自身を生き、愛する主として措定しているということは、まことに明白なことである」。「この主体が、そのことをなすことによって、この主体は神である。そのことをなす者、その者が聖書の神である」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「聖書の神は、そのことをなす方であるが故に、彼の外にあるすべてのものは、彼のみ心に適うか適わないかということによってもってかかっているのである」。「それ故に、彼のみくらは『高くあげられ』(イザヤ六・一)、彼ご自身によって『天に堅くすえられ』(詩篇一〇三・一九)、『ケルビムの上に』(列王一九・一五)あるのである。それ故に、彼の目は『地の上を見おろされる』(詩篇一一・四、三三・一三以下、一〇二・二〇)のである。それ故に、彼のような者はいない(出エジプト八・一〇、一五・一一、詩篇八六・八、八九・七)、それ故にただ彼だけが神でありその他に神はない(申命四・三五、列王一九・一五、歴代一七・二〇)。それ故に、彼は『主の主、王の王』(テモテ六・一五、黙示一七・一四、一九・一六)であり、それ故に……彼は初めであり、終りである(イザヤ四四・六、黙示一・八、一七、二一・六、二二・一三)。それ故に、ローマ一二・三五以下で『だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか』、万物は神から出で、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、と言われている」。「人が、〔聖性・秘義性・隠蔽性において存在している〕「隠サレタ神の崇高さ、主権、尊厳性、神聖さ、栄光」、「神の『超越性』と呼ぶもの」――「それらすべて」は、「まさに顕ワサレタ神のこの自己規定〔・自己認識・自己理解〕、神が生きることと愛することの、神の人格の〔父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体の〕、この自由以外の何であろうか」。したがって、われわれは、「神の愛の性質のすべての精密規定を、神の愛の神性、すなわちその崇高さを考慮しないでは遂行することができない」ように、「逆に、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における〕そのすべての性質の中での神ご自身の神性を〔そのすべての性質の中での「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の神性を〕、この神の自由の総内容として理解しなければならない」。

 

 「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・標準とした教会の<客観的>な信仰告白および教義Credo)である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ、新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)の自己啓示のことである。聖書的啓示証言において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示した。このイエス・キリストにおける神の自己啓示が、教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)である三位一体論の根拠である。したがって、この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがってまた、「教会の宣教の的確な批判と訂正」は、常に、「教会に宣教を義務づけている」「先ず第一義的に優位に立つ原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕としてのイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である聖書」を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としたイエス・キリストの教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての三位一体論に即して行わなければならないのである。何故ならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない時、すぐに「神性否定のキリスト論」や「半神・半人キリスト論」や「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我(われ)」論等の誤謬に陥るからである。この三位一体論を啓示認識の原理としなかったところの、「『自然』神学」の段階で停滞した人間中心主義的な近代主義的プロテスタント主義的キリスト教信仰・神学・教会の宣教は、実際「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」という誤謬に陥った。(文責:豊田忠義)