6.「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)について

 

 神の言葉の三形態の関係と構造秩序性を理解するということは、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求するイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、そしてその「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)を持っていることからして、客観的な存在的な必然性>」――すなわち、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<主観的な認識的な必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件としたところ(換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」を前提条件としたところの)、客観的な存在的なラチオ性>」<主観的な認識的なラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された人間の理性性」、この全体性における総体的構造の中での客観的な存在的なラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的なしるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造秩序性)におけるその「最初の、直接的な、第一の」「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)において存在している第二の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示のしるし>」)である聖書、それから「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とした教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉(「啓示のしるし>」しるし>)である教会の宣教この三者の関係と構造秩序性を理解するということである。<この>「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)において、それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられたところで存在し思惟し行動する第三の形態の神の言葉である教会に属するわれわれ成員は、あくまでも神のその都度の自由な恵みの神的決断によるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているところの、キリストにあっての神としての神に「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身に出会い関わるのであって、それ以外のところにおいて出会い関わるのではない。

 

先ず以て、まさに〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われに差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方イエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそまさにイエスキリストの中でこそ隠れた〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する「三位一体の神」としての〕神はご自身を把握できるものとし給うた」。「しかしそのことは決して直接的にではなく、<間接的にである」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰に対してであるその本質の中においてではなく、<しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。「自己自身である神としての三位一体の神のその内在的本質である神性が肉となったのではなくわれわれのための神としてのその外に向かっての外在的な第二の存在の仕方における「<言葉が肉となった>」――「これがすべてのしるしの最初の起源的な支配的なしるしである換言すればそれ、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたに過ぎない人間的自然(人間の観念的生産物)としてのその人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」では決してなく、もっと包括的に言えば神とは異なる「実在全体」――すなわち、宇宙を含めた天然自然としての外界、自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、個体的自己としての全人間の身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動によって生み出されるところの人間化された自然としての人間的自然である人間の物質的および観念的な諸生産物(マルクス『経済学・哲学草稿』)ではなく決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉としての<「存在者」>〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのただイエスキリストのだけ、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」〕である。そして、その「<最初の、起源的な、支配的なしるし>に基づいて」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的な<しるし>が存在する」。先ず以て「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエスキリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の」「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書が、「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)においてその「最初の直接的な第一の」「啓示の<しるし>」として客観的に存在している、それから「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とした教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である教会の宣教「啓示の<しるし>」の<しるし>として客観的可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」)――この「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」が客観的に可視的に存在している。「これこそ神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について語ることができる偉大な可能性である」。

 

ア.「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉について

 この起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的なしるし>」)、まさに「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の<内>三位一体的特性性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエスキリスト自身であり、「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である神性の受肉ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのただイエス・キリストのだけでありそれは、「直接的な、絶対的な、内容的な権威と共に直接的な、絶対的な、内容的な自由を持つ」ところの、「教会の宣教における先ず第一義的に優位に立つ原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準である(Ⅰコリント310-11)――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁〔すなわち、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての宗教世界や思弁〕の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書からのみ、換言すれば〔「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である神性の受肉ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉である、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての〕イエス・キリストの<名>からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない〔何故ならば、農耕を主たる経済的基盤とした人類史のアジア的段階における日本において、天皇を含めて<非>農耕民は、神人と呼ばれていたからである〕。新約聖書の内容とはただ〔「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である神性の受肉ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉である、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての〕イエスキリストのだけであり、そのイエス・キリストの<名>がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこのイエスキリストのだけが、〔徹頭徹尾、神の側の真実としてある〕啓示の客観的現実を言いあらわしている」(逝去した年に、スイス放送で流されたバルトの最後の言葉――「私が……語るべき最後の言葉は、恩寵といった概念ではなく、一つの名前イエスキリストなのです。この方こそ恩寵であり、この方こそ、この世と教会のそしてまた神学の彼岸にある、究極のものなのです(中略)この名以外のいかなる名前にも救いはありません。(中略)そこには仕事と闘いへと向かうはげましがあり、共同体と仲間と人たちとの交わりへと向かうはげましがあります。そこには、弱く愚かであった私が生涯において試みたすべてのことがあります。しかしそれらすべても、この名においてなのです」(『教会教義学 神の言葉』および『カール・バルトの生涯』)。イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」としての三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の」「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」として、それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」(『教会教義学 神の言葉』)。

 

イ.「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉について

 この第二の形態の神の言葉は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」(最初の直接的な第一の啓示ないし和解概念の実在」)としての聖書のことでありこの聖書、「イエスキリストと共に」、「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの神性」――すなわち「権威」<と>「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの人間性」――すなわち「自由によって賦与され装備された権威と自由を持つところの第二の形態の神の言葉」(「最初の直接的な第一の」「啓示との間接的同一性>〔啓示との区別を包括した同一性〕」において存在している啓示の<しるし>」)であり、それ故に「教会に宣教を義務づけている第二の形態の神の言葉として、第三の形態の神の言葉であるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すところの、それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられた教会(すべての成員)の宣教およびその一つの補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学の思惟と語りと行動における原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準である。したがって、「聖書こそが、教会を支配するのであって、教会が、聖書を支配してはならないのである」。このような訳で、キリストの復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代(「中間時」)における第三の形態の神の言葉であるイエス・キリストの教会(すべての成員)は、その聖書を「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「標準」・「基準」として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、すなわち<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有する>ことができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行かなければならないのである。このことは、もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」(『福音と律法』)。

 

そのような訳で、第三の形態の神の言葉である教会における権威と自由」は、あくまでも「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの神性」――すなわち「権威」<と>「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの人間性」――すなわち「自由」とによって「賦与され装備された権威と自由を持っている聖書の権威と自由に基礎づけられているところの「間接的・相対的・形式的な権威〔神的権威によって限界づけられた、あくまでも人間的な教育的権威〕と自由〔神的自由によって限界づけられた、あくまでも人間的な自由、すなわち聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性における人間的な自由〕として、徹頭徹尾、限界づけられている」。何故ならば、「〔第二の形態の神の言葉である〕預言者および使徒たち>〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方である〕イエス・キリストとの出会いの直接性における直接的、絶対的、内容的な権威と自由」――すなわち「イエスの弟子たちがキリストの後に従う随従〔イエスの弟子たちがキリストに後続する追従〕」、「直接的な唯一回的特別なそれである」からである、すなわち繰り返され得ないものである」からである、換言すれば第二の形態の神の言葉である「預言者および使徒たち」<>起源的な第一の形態の神の言葉である「主なるイエス・キリストとの関係は、「啓示そのものが一回的であるのと同じように、一回的な関係である」からである。したがって、そうした第二の形態の神の言葉である「預言者および使徒たちの現実存在」<>第三の形態の神の言葉である「教会・その成員の現実存在とは、本質的に同一ではない」、本質的に同一化することはできない。それだけでなく、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)からして、第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト自身)および第二の形態の神の言葉(すなわち、預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」、聖書)先行させることはできない」。また、第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)、第二の形態の神の言葉である聖書を媒介・反復することなしに、聖書を自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とすることなし、絶えず繰り返し聖書に聞き教えられることを通して教えるということをすることなしに、<無媒介的に>、<直接的に起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト自身)と出会い関わることはできないのである。すなわち、第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエスキリスト自身と、それ故に第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神と、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、第二の形態の神の言葉である「その最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエスキリストについての言葉証言宣教説教としての聖書を媒介反復することを通して(聖書に絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教えるという仕方の中で)「間接的に出会い関わるのである。したがって、東北学院大の神学者の佐藤司郎が、Web上で、バルトの『教会教義学 神の言葉』における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を曖昧化させて、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の問題を明確に提起しないままに、それにも拘らず<主観的にだけ>バルトを正しく理解しているかのような仕方で「カール・バルトのエキュメニカルな神学への道」論を論じていたのであるが、しかしそれは、全くバルトを誤解し曲解した水準のものであると言うことができるのである。また、関東学院大学のキリスト教的著述家の富岡幸一郎の本『使徒的人間 カール・バルト』における「使徒的」という外皮的にだけ格好をつけたタイトルは、すなわち第二の形態の神の言葉に属する使徒的という概念と第三の形態の神の言葉に属する教会の一員であるカール・バルトとの関係と構造(秩序性)を認識し自覚しないまま外皮的にだけ格好をつけたタイトルは、概念的に成立不可能なタイトルなのである。このような富岡は、そのバルトに関する本の「自然神学」の項目においても、バルト自身の著作に即して論じることをしないで、ただ単純に短絡的に、トマスは自然神学の立場でありアウグスティヌスは<非>自然神学の立場であるというように、高校の<倫理資料集>に依拠したような誤解と誤謬を犯した仕方で<平然と>書いているのである。バルトは、『教会教義学 神の言葉』において自然神学の段階で「存在ノ類比」を駆使して思惟し語っているアウグスティヌスを批判しているだけでなく、『カント』でも宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もって〔生来的な自然的な〕われわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、〔自然神学の段階で「存在ノ類比」を駆使して思惟し語っている〕アウグスティヌスの教説と一致すると批判しているにも拘らずである。この時、私は、この<大学社会>に属するキリスト教的著述家であり文芸評論家の水準は、この程度かと思わされたのである、ちょうどバルトの『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」)の訳者の蘇光正が「あとがき」で、客観的な正当性と妥当性とをもって、「バルトの第三項の神学〔聖霊の神学〕という発言」から「これをバルトの『転向』〔近代主義への復古・回帰、自然神学への復古・回帰〕と誤解する者は明らかにその前後の数頁だけしか読んでいないのである」と述べていたように、そのように大学神学者等の発言の水準もその程度のものでしかないということがあり得るように。したがって、われわれは、吉本隆明が、『自立の思想的拠点』「日本のナショナリズムで述べていたように、社会的な問題に関わる、政治的な問題に関わる、大学社会に関わる知識人や知識的集団の諸知識や諸情報、また様々な集団や様々な組織の諸知識や諸情報、NHKや朝日新聞を含めてまた欧米等のメディアを含めて様々なメディアが毎日大量に流す諸知識や諸情報を「そのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしない」方がよいのである(何故ならば、それらの諸知識と諸情報を「そのまま鵜呑みにしたり模倣したりする」ならば、自分で自分の首を絞めることになることがあり得るし、実際的に自分で自分の首を絞めることになることがあるからである。この危険は、戦前だけでなく現在でもあり得るのである)。いずれにしても、私は、大学社会に属するキリスト教的著述家であり文芸評論家である富岡が、例えば「自然神学」という神学的な対象を扱う時のその洞察力において、またその対象に対する認識の度合い(理解度)の深さにおいて、バルトと<雲泥の差>があるということを知ったのである。富岡は、バルトを対象としたその本のタイトルからして、否定的な立場からであれ肯定的な立場からであれ、本来的には、先ず以てバルトに身を向けてバルトを<トータルに>把握してからバルトの「自然神学」理解について語らなければならないにも拘わらず、そういう仕方で語ることをしないで、それ故にバルトを全く誤解し誤謬したまま語っているのである、それ故にバルトとは全く逆向きの恣意的独断的なバルトについて語っているのである。神学的領域においてこのような富岡であるから、文芸評論の領域においても、文芸批評家の吉本隆明とも<雲泥の差>があることは想像に難くないことである。したがって、『福音と律法』等を翻訳しその「あとがき」を書いた文芸批評家の井上良雄とも<雲泥の差>があることは想像に難くないことである。正直に書けば、私にとっては、人間的領域において、世界的なレベルで、その人間性と思想性において、その洞察力の深さと内容の誠実さ豊かさにおいて、信頼できる人は、神学的領域においてはカール・バルトであり、人間学的領域においては吉本隆明なのである。

 

ウ.「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉について

 この第三の形態の神の言葉は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の、直接的な第一の」「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とした教会の<客観的な>信仰告白および教義Credo)のことである。したがって、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身と共に、そのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書によって限界づけられたところの、第三の形態の神の言葉である「教会の間接的相対的形式的な権威と自由、あくまでも「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの神性」――すなわち「権威」<と>「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの人間性――すなわち「自由」によって「賦与され装備された権威と自由を持っている聖書の権威と自由に基礎づけられているところのあくまでも間接的相対的形式的な権威〔神的権威によって限界づけられた人間的な教育的権威〕と自由〔神的自由によって限界づけられた人間的な自由、すなわち聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性における人間的な自由〕として限界づけられている」。このような訳で、「キリストの復活」(「キリスト復活四〇日(使徒行伝13)」、「実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」)から「昇天と再臨〔復活されたキリストの再臨、終末、「完成」〕までの間の時間、「中間時」、「聖霊の時代に現存する第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)においては、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)である「イエスキリスト自身の支配に対する感謝とこの支配が現実に続いておこなわれるようにと願う祈り、「われわれの……主であり、……避け所であり……城であり、……神である」、「われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主」である「イエスキリストの名を通した祈り、第三の形態の神の言葉である教会における「聖書の注釈に先行しつつ永続的に行われるべき決定的な行為である」。何故ならば、第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学における思惟と語りが、キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」し、それは「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さいというこの人間的態度〔「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立している」からである。

 

第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)彼は、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断によるイエス・キリストの「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」、すなわち「啓示と信仰の出来事」に基づいて〕信じる人間としてキリストのからだ〔「個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書の『体』の概念はその対立を超えたものである」ところの「からだ」〕に属する肢体である」、「彼は自分のかしらを天上に持っている」。したがって、第三の形態の神の言葉である「教会の宣教(説教と聖礼典)」は、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書〔「その最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」〕の権威と自由の支配の下にあるから、教会の中に集められた人間の洞察と恣意にまかせられてはいない」。このような訳で、第三の形態の神の言葉である「教会は、徹頭徹尾人間から成り立っているものであるが、決して人間〔神学者、聖職者、牧師、教会指導層、すべての成員〕の王国ではない」。したがって、第二の形態の神の言葉である「聖書によって宣教が義務づけられている」第三の形態の神の言葉である「教会に委託されたイエス・キリストを証しするという課題が〔すなわち、あの「神への愛」<と>「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関と循環において、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を告白し・証しし・宣べ伝えるという課題が〕、それら人間たちの自由裁量にまかせられているところの君主政治的な王国でないし、貴族政治的な王国でもないし、民主政治的な王国でもない」。「そうではなくて、……〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(「その最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」を、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とした第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な〕教会、「神の言葉を通して」――すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた、第三の形態の神の言葉である教会の思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」である起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書に基づいて創造され維持されているようにまたその〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている起源的な第一の形態の〕神の言葉を通して支配される」。このような訳で、「われわれが、〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストは〔第三の形態の神の言葉である〕教会を支配するという時、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書が教会を支配するというのと同じことを言っているのである。このことは、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における「その人間性の中で神の子」が、それ故に「われわれに啓示された〔「自己自身である神」としての「三位一体の」〕神としてのこの神の子が、啓示し給う働き」、「その支配についての預言者的――使徒的証言〔第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言〕の中で、自分の預言的な務めを続けるように」、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における「み子の支配」は、それ故に「神ご自身の支配は〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位一体の神の支配」は〕」、換言すれば「われわれのための神の支配は〔その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における「われわれのための神」としての「神の支配」は〕」、それ故に「自己自身である神の支配は〔「自己自身である神」としての「三位一体の神の支配」は〕」、第二の形態の神の言葉である聖書的啓示「証言の中で、その証言を通して、〔第三の形態の神の言葉である〕教会の身に及ぶということなのである」。このような訳で、「証の力を持つ聖霊〔客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」〕、……まさにこの証言の霊である」、「この証言をまこととして証しする霊この証言が心をかちとる霊である」。したがって、バルトは、単なる知識と認識〔・信仰〕とを厳密に区別し」、全く特定の領域で、ある特定の状況において、ある特定の人間」が、神のその都度の自由な恵みの神的決断によるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、神の言葉を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、その出来事・確証は、単なる知識ではなく、認識〔・信仰〕である」、「その時、初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して実在となり、またわれわれ人間も人間的にそれを実在として理解することができる」、と述べている。したがって、起源的な第一の形態の「神の言葉」が、第二の形態の神の言葉である「預言者的――使徒的証言の中で」、起源的な第一の形態の「神の言葉を通して規定された時間」、「キリストの復活」(「実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」)から「昇天と再臨〔復活されたキリストの再臨、終末、「完成」〕までの「中間時」、「聖霊の時代」において、第三の形態の神の言葉である「教会を支配する仕方」は、第三の形態の神の言葉である教会が、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とする点にあるから、「啓示の客観的側面であるイエス・キリストの支配を形式的に……承認しつつも」、「実際的には啓示の主観的側面である直接的な霊の導きの支配を強調し承認すること」は、換言すれば形而上学的にその一面だけを抽象し固定化し全体化して、それ故に抽象的ニ「直接的な霊の導きの支配」という一面だけを「強調し承認すること」は、「すべて偽りとなるのである」。「パウロにおいて、<霊にあって>とは、救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊知恵と啓示の霊による〔客観的な〕神の啓示への参与、すなわち客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」における人間の思惟、行為、語ることを、主観的に表示している概念である」、また<キリストにあって>とは、客観的なその生誕と地上における全生涯、その「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストにおける「啓示の出来事と全く同じ事柄を、客観的に表示している概念である」。このように、その全体性において理解しないならば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会において、「教会を掌握する場所として、〔ただ恣意的独断的にだけであるが、〕誤ることのない教皇が指し示される……あるいは誤ることのない会議が、あるいは権威的な司教の役職が、あるいは実体化された牧師の務めが、あるいは何らかの自由な指導原理が、あるいは教会の中での霊感を受けた個人が、あるいは最後にそれとしての教会全体が指し示される……」ことになる、ちょうど例えば東京神学大の実践神学者の小泉健がルドルフ・ボーレンの神律的相互関係の概念に依拠して、恣意的独断的に「わがまま勝手に」聖霊と聖霊の言葉を実体化させて聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第三の存在の仕方(聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である聖霊を、ただの人間である説教者の自由裁量の対象にしてしまったように、すなわち神を人間化(人間を神化)してしまったように。バルトは、このような恣意的独断的な「わがまま勝手な」思惟と語りに対して、『教義学要綱』で、「聖霊は人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、また「聖霊によって更新された人間の理性」も徹頭徹尾「聖霊と同一ではない」、徹頭徹尾「聖霊と同一とはならない」と批判している。ここでも、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)は貫徹される。言い換えれば、そのような、起源的な第一の形態の神の言葉である「イエスキリストの支配を無視し通り過ぎた」、「イエスキリストの支配を除去した」「欺瞞的なものそれと共に起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書を無視し通り過ぎた」、「聖書を除去した」「欺瞞的なものそれ故に第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会が、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエスキリスト自身それと共に第二の形態の神の言葉である聖書を恣意的独断的に支配し管理することができるように曖昧化した欺瞞的なもの、「天国におけるイエス・キリストの支配について、それからあのイエス・キリストの支配が突然地上に侵入してくる出来事について語る……熱狂主義……であり最後的には結局人間的な信仰」、類的機能を持つ人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」における「自律主義である」、「それ故にそのものはイエスキリストの教会について語っていないのである」。

 

 第三の形態の神の言葉である教会が、第二の形態の神の言葉である聖書を教会の宣教における「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」として、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、「聖書に服従し、〔絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で〕聖書を考察の対象とする時」、「はじめて教会、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストをのみ主・頭とする「イエスキリストの教会について語ることができる」、第三の形態の神の言葉である教会は実体ではないから、そういう仕方ではじめて教会となることによって教会であることができる。言い換えれば、第三の形態の神の言葉に属する教会においては、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とするという(絶えず繰り返し、聖書を媒介・反復するという、聖書に聞き教えられることを通して教えるという)その間接性こそが主ご自身を通して設けられ主の甦えりを通して力を奮うのである。三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、客観的な「存在的な<ラチオ性>」、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)からして、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエスキリスト自身>第三の形態の神の言葉に属する教会との間のこのような聖書を絶えず繰り返し媒介・反復する媒介的・反復的な関係性(「間接的な関係性」)のことをバルトは、「まことの直接性>」、「まことの関係性>」と述べたのである。したがって、第二の形態の神の言葉である「聖書が、〔第三の形態の神の言葉である〕教会の支配を実行に移すところ」、「そこでは」、起源的な第一の形態の「神の言葉の自由を抑圧するところの自律主義」、第二の形態の神の言葉である「聖書を……除去するところの熱狂主義に対しては、律法的に、禁止しようと欲することができるのであり、禁止することを実行しなければならないのである」。第二の形態の神の言葉である「聖書が、〔第三の形態の神の言葉である〕教会の支配を実行に移すところ」、「そこでは」、例えば「教皇と会議、司教と牧師、会議の主権と教会の主権、指導者と霊を受けた者たち、神学者の奉仕と教会の中にいるそのほかの者たちの奉仕、男たちの奉仕と女たちの奉仕」、社会的政治的実践等について、それらの事柄を第一義化し価値化し絶対化したりしない限りは、「その都度存在することが、あるいは存在しないでいることが、できる……のである」。言い換えれば、第二の形態の神の言葉である「聖書が、〔第三の形態の神の言葉である教会を支配し聖書によって教会が支配されることを教会が実際に真剣に受けとる時その時には聖書は教会とその主の間の関係のまことの直接性〔聖書を絶えず繰り返し媒介・反復する媒介的・反復的な関係性、すなわち間接的な関係性」〕を破壊することはないしまた〔第三の形態の神の言葉である〕教会に対して」、聖書を自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世すべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くという律法以外の律法を押しつけることもしない……のである」。

(文責:豊田忠義)