7.「<真実の証人そのものであるイエス・キリストの真実の証人としてのヨブについて

 

バルトは、『ヨブ』(ゴルヴィツァー編・概説)で、イエスキリストは「人間の偽りは煙のごとく、ただちに一切の香りを失う者の証人」、「苦しまれ、十字架につけられ、死して葬られた神の子にして人の子なる、ただひとりの真実の証人そのものである」と述べている。この「イエスの中で、〔すなわち、まことの証人としてのその現実存在と職務の中で」徹頭徹尾神の側の真実としてのみあるところの、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における<言葉の受肉としての存在者」>、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」、最初の起源的な支配的なしるしとしての被造物は、〔「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の」〕神ご自身の代りに、〔「われわれのために神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方において、すなわち子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉において、〕神について語るあの委託と能力附与の中でのその新しい存在の始まりを持つようになる」。「そして再びその意味でイエスキリストはコロサイ一一五で、『見えない神のかたちと呼ばれ換言すれば、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたに過ぎない人間的自然(人間の観念的生産物)としてのその人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」では決してなくて、もっと包括的に言えば神とは異なる「実在全体」――すなわち宇宙を含めた天然自然としての外界、自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、個体的自己としての全人間の身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動によって生み出されるところの人間化された自然としての人間的自然である人間の物質的および観念的な諸生産物(マルクス『経済学・哲学草稿』)としての「存在者」では決してなくて、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「<言葉が肉となった>」ところの「すべてのしるしの最初の起源的な支配的なしるし>」、「言葉の受肉としての存在者>」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」と呼ばれ〕、そのようなものとしてすべての造られたものに先立って生まれた方と呼ばれている」。「その意味、「第一の観点の下では、ただ単純に、<受肉の実現と結果>であるものが、第二の観点の下では、神の配剤と恵みによって被造物が<抜擢>されることであり、第三の観点の下では、それと共に被造物一般に与えられた<約束>である」、という点にある。「キリストの人間性、「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」としての「被造物であったしあくまで〔「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」としての〕被造物であることをやめないのであるから」、「被造物一般>」、「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」としての〕キリストの人間性のように神と一つになることはできないが」、しかし、「その被造物一般の中でそれが神の配剤と恵みによってそうであることが許される時と所では〔すなわち、それが、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、それ故にその<総体的構造>の中での三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)に基づいたところでは〕、神の証人であることができる」。したがってその被造物がそのようなものであるところそこに〔「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書を、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉に属する〕教会は存在する」。言い換えれば、そこに、「神によって造られた世界の場所と時間の中での神の自己証言が存在するのである」。何故ならば、教会は実体ではないのであるから、その第三の形態の神の言葉に属する「まことのイエス・キリストの教会」は、神のその都度の自由な恵みの神的決断よる、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「神語り給うが故に神語り給うこと」を「聞くことによって、常に新しく決定される」からである、「まことのイエス・キリストの教会」は、絶えず繰り返しそのような仕方で教会と<なる>ことによって教会で<ある>ことができるからである。教会の宣教およびその一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学における思惟と語りがキリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである。「何人も神の子供であることなしに聞くことはできないが、同時にまた何人も、聞くことなしに、しかも繰り返し聞くことなしに、神の子供であることはできない」。何故ならば、「神に愛された」、「聞くイスラエル」、「聞くイエス・キリストの教会」、「聞く民」、「聞く神の子供たち」は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、それ故に起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世の全ての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活きた「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くという「愛の命令の成就に向かって進んで行く」からである。「イエス・キリストの中で、神は彼らのために味方してい給う。したがって、イエス・キリストの中で、彼らは、命令を聞くことによって、愛するものとしての彼ら自身の未来を、彼らが〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた「神への愛」<と>「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関と循環において〕律法を成就する成就を〔純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法を成就する成就を〕、つかむのである」。したがって、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた「神への愛」<と>「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」は、もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世〔のすべての人々〕に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」(『福音と律法』)。

 

バルトは、「ヨブ記」のヨブについて、さらに次のように述べている――ヨブの神との関係における彼の個の時間性(自己史、個体史)は、始めと終わりについて言えば、神の祝福に満ちている。しかし、その中間の時間性は苦難に満ちている。その現存性(自己史、個体史)にけるヨブの神への対応の在り方は、「自己是認や自己称賛とは何の関わりもない神への無比なる信頼であり」、「自分の身のためだけでなく」、「祭司的に、彼を取り巻く人々のための代理として」「神に対して立っている(29章・31章)」。ヨブは、「敬虔な偽りの証言をした友人三人のために、とりなしの祈りを行うという仕方で、神に対している(42章)」。このように、ヨブは「真実の証人<そのもの>」ではないが、「<真実の証人そのものであるイエス・キリスト>」の「真実の証人」であるヨブの個の時間性(自己史、個体史)における信仰の在り方は、「偽りを暴露するのみならず」、「敬虔な偽り者のためにとりなしの祈りをする」という点にある。ヨブにおけるそれは、「誤ることがない神ご自身が、ヨブに力をそえるが故に、その時、ヨブもまたあやまつことはできないし、あやまつことはない」という点にある。また、「神がヨブをわがしもべと呼ばれるのは、ヨブがそう望んだり・そう望むからではなく」、「ヤーウェ自身が先行して喜んでそうするからそうなのである」という点にある。言い換えれば、「神とヨブの関係性」は、先行する神の自由な恵みの神的決断に基づいた「神の側からの自由な選びと意向によって」、それに後続して従う「ヨブの側からの自由な服従」という点にある――これが「真実の証人<そのもの>」ではないところの、「真実の証人そのものであるイエスキリスト真実の証人の>」、「真実の証人の基本構造>」、「真実の証人の一つの型>」であるしたがって、「ヨブの神奉仕」は、「神から幸いをうけるのだから、災いもうけるべきではないか」、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェがとられたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」という点にある。したがってまた、ヨブは、「誤りうる人間として、不正をも行いまた不正でもある」ということを背後に持っていることを認識させられ自覚的させられた人間である、それ故にヨブは、「神奉仕真実の証人の>」、「真実の証人の基本構造>」、「真実の証人の一つの型>」ではあっても、「真実の証人そのもの>」ではない。したがってまた、「真実の証人<そのもの>」である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」「まことの神」(神の顕現)にして「まこと人間」(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」)「イエス・キリスト」ではない。「自由な神の自由な人間として人間的な可謬性を持ちながら試煉の地獄を通りぬけて行くヨブのその危なかしい歩みに対して」、「真実の証人そのものであるイエスキリスト>」その復活に包括されたゴルゴタの屈辱を通りぬけることによってすでに勝利者であるという不可謬性の道を歩んでいる」。イエスキリストこそが神の真実な証人そのものであるということは、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエスキリストの>」において、「この歴史の中で人間存在の真理〔「まことの人間」存在の真理〕を生きることによって」、復活に包括された十字架のすがたによってほかの一切の実存者は偽りであると暴露したということを意味している」――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人としてそのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリスト>信仰」は、明らかに<主格的属格>として理解されるべきものである〔すなわち、それは、「イエス・キリスト<>を信じる信仰」(<目的格的属格>)としてではなく、「イエス・キリスト<>信ずる信仰」(<主格的属格>)として理解されるべきものである〕)」(『福音と律法』)。この「イエス・キリストの〔復活に包括された〕十字架を頂点とした地上の生、生活において」、われわれは、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠したその信仰の類比を通して、「神に棄てられた者」・「神にたたかれ、苦しめられる者」・「闇に屈伏させられた者」・「敗北」者の姿を認識させられ自覚させられるのである。バルトは、『福音と律法』で、次のように述べている――「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世」「以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰〔目的格的属格的信仰〕に由って生きるのではなく、神の子<>信じ給うこと〔主格的属格的信仰〕に由って〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたイエスキリスト信ずる信仰によって生きるのだということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではないそのことが現実であるのはただわれわれのために人として生まれわれわれのために死にわれわれのために甦り給う主イエス・キリストが彼にとってもその主でありその避け所でありその城でありその神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。

 

さて、「ヨブの悩み」は、「死への恐れではない」。何故ならば、ヨブは、「自分の死を、神に求めている」からである。「所有、家族、健康、安定、名誉の喪失」に人間の生、生活の無常を感じ、その無常に苦悩することを主題とするのであればヨブを必要としないから、ヨブは、そうした無常を嘆き死を恐れているのではなくて、「神との関係が断たれた闇への疾走」、「ただ滅び行くだけの生を恐れ嘆き訴えている」のである。三時にイエスは大声で叫ばれた『エロイ、エロイ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(マルコ1534という意味である」――「この叫びはイエスの苦難の総括である」。「この叫びの中に苦難の神のしもべの真実の証人そのものであるイエス」<>「神奉仕の真実の証人の>」、「真実の証人の基本構造>」、「真実の証人の一つのであるヨブとの関連性があるヨブの苦難、嘆きの対象」は、先ず以てヨブが、「苦難の中で、神と関わりあわねばならないことを深く知っている知」と「そのことを深く知っていない非知」との混在の中にあり、その混在における争いにおいて、ヨブは「不正を行う」という点にある。しかし、ヨブは、「イスラエルの神からわがしもべヨブと呼ばれて祝福されているが故に、すなわち先行する「神がヨブから離れないが故に、「ヨブは神から離れえない」のである。そして、「ヨブの苦難、嘆きの中心的対象」は、ヨブが、徹頭徹尾先行する神の自由な恵みの選びにあるのであって、後続して従う人間の自由な選びに基づいた契約関係の解消や廃止はないという点にある。したがって、その対象は、先行する神が、「ヨブに与えていた祝福を、……はぎとり」、「隠蔽するという姿においてヨブと出会う」という点にある。したがってまた、その対象は、神とヨブとの関係性の変容という点にある。したがって、「ヨブの側からの神への問いや嘆願は、全く無力である」。このような訳で、「最後には、ヨブは、ちり灰の中で悔いる」。ヨブは、その神に対して「不真実になるわけにはいかない」が故に、「神の隠蔽性」のただ中で、「苦難のしもべヨブは苦しみながらの服従をする」のである。偽りの外皮的皮相的な「善において神なきこと」は、「ヨブとの対決においてあばかれ仮面をはがれた彼の友人たちの敬虔と神学である」。その「偽りの敬虔と神学、「神なきことは、善においても神なきことであって、神なきことであるのをやめない様式の一様式である」、ちょうど第二の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、神との「混淆」・「混合」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」もということは、「神なきことであって〔無神性・不信仰・真実の罪であって〕、神なきことであるのをやめない様式の一様式である」ように。「ヨブのドラマ人間の偽りは煙のごとくただちに一切の香りを失う者の証人」、「苦しまれ十字架につけられ死して葬られた神の子にして人の子なるただひとりの真実の証人そのものであるイエスキリスト真実の証人の>」、「真実の証人の基本構造>」、「真実の証人の一つの型である者のドラマである

 

 さて、「明らかに被造物にとって抜擢を意味するところのことが神ご自身にとっては……被造物に相対して神が立ちまさっている姿が可視的であることを断念すること>〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」のこと〕なのである」。「被造物がその対象性の中で、神ご自身の対象性の代表者となることによって、被造物は神ご自身の対象性を覆い隠す」、ちょうど「自己自身である神」としての「三位一体の神」の内在的本質である神性の受肉ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、覆い隠しを意味している」ように。「神が被造物を通してご自身をわれわれに対し可視的にし給うことによって、神は、ご自身の中であるところのものとして〔すなわち、「自己自身である神」として〕、また神がご自身を認識し給うところのものとして〔すなわち、神が自己認識・自己理解・自己規定し給うところのものとして〕、不可視的であり続けることを耐え給う」。「神がわれわれにとって知られるようになることによって、神は、ご自身に対して、われわれにとって知られるようになるために用いられる手段と<しるし>の中で〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」としての、われわれにとって知られるようになるために用いられる「神の業の<衣>」、「しるし」、「殻」、「特定ノ外形」の中で〕、疎遠で非本来的なものになり給う」。「神がわれわれをその被造物の言葉を通してご自身へと高め給うことによって、神は、ご自身をわれわれのところまで低め給う」――「これらすべてのことは既に」、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(神の顕現)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエスキリストの人間性にとって妥当する」。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか(マタイ一六・一三)と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)は『あなたは生ける神の子キリストです』と答えた。『メシヤの名』に対する『人の子』というイエスの自己称号は、覆いをとるのではなく、覆い隠す働きをする要素〔神の隠蔽の要素〕として理解する方がよい逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている〔神の顕現の解き明かし〕というように理解した方がよい」。その内在的本質である神性の受肉ではなく、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、覆い隠し〔神の隠蔽〕を意味している」。新約聖書的――キリスト論的命題は、まことの人間として、神の子あるいは神の言葉が、人間ナザレのイエスであるまことの神として、人間ナザレのイエスが、神の子あるいは神の言葉であるという点にある。「このイエスキリストので語るべき最初にして最後のことイエスキリストは誰であるかという問いに対する答え」は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)であるという点にある。したがって神であり給う言葉が人間となったのであって〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における「言葉が人間となったのであって」〕、決して〔その内在的本質である〕神性それ自体が人間となったのではない。すなわち、「ヨハネ一一四の言葉は肉となったという新約聖書の中心的命題、そのヨハネの『言葉』」は、神的な創造主、和解主、救済主なる言葉、神の永遠のみ子、まことの神〔「神の顕現」〕にしてまことの人間〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」〕であるイエス・キリストのことである」。「われわれが、……人間イエス〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」〕の中での神の子の顕現〔「神の顕現」〕の目標と高所は、〔その復活に包括された〕イエスの死と十字架から成り立っているということ、その方はまた甦られた方としても十字架で死なれたこの人間であるということを考えるならば、われわれは、まさにイエス・キリストの人間性〔「神の隠蔽」〕こそ、最高に神の自己卑下と自己疎外化を、神としてご自分で本来すべての被造物に相対して持ち給うまさった姿が不可視的〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の「本来すべての被造物に相対して持ち給う立ちまさった姿」の不可視化、「神の隠蔽」〕であり続け、あれほど違った被造物の対象性を通して神の対象性が覆い隠されていること〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の不把握性〕を意味していると言わなければならない」。イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。

 

 さて、「ヨブは他の人間すべてと同じく誤りやすい人間である」。したがってヨブ記、「罪なくして罪となり給うたⅡコリント521イエス・キリストではない者……のドラマである」。すなわち、「ヨブ記、「真実の証人そのものであるイエス・キリスト真実の証人真実の証人の基本構造真実の証人の一つの型のドラマである」。言い換えれば、「ヨブ記ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の<属格主格的属格理解――すなわち、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「イエス・キリスト<>信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであり、それ故に「律法の成就」・「律法の完成」そのものであり(『福音と律法』および『ローマ書新解』)、それ故にまた成就され完了された個体的自己としての全人間、全世界、全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同じである――『平和に関するバルトの書簡』)そのものであるところの、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(性質・業・働き・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」――この「<真実の証人そのものであるイエス・キリスト真実の証人真実の証人の基本構造真実の証人の一つの型のドラマである」。したがって、「ヨブ記」は、「神には誤りがないここで一切がそれにかかりそのために神自身が力をそえうけあった事がらについてはヨブもまたあやまつことができないしあやまつことはない真実の証人真実の証人の基本構造真実の証人の一つの型のドラマである」。このことは、「『わがしもべヨブ』(ヨブ記1823427-8と神ご自身に呼ばれ祝福された」、真実の証人そのものであるイエス・キリスト真実の証人としてのヨブのドラマである」ということを意味している。「ヤーウェとヨブの交わり関係〕」、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという方式>(『ローマ書』)が堅持された自由にある」。したがって、その「自由な交わり関係〕」は、先行する神のその都度の自由な恵みの神的決断による「神の側からの自由な選びと意向によっているものであり、それ故にその先行する「神ご自身の働きかけに対する」後続して従う「真実の証人そのものであるイエス・キリスト真実の証人ヨブの側からの自由な服従〔すなわち、神語り給うことに対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性における自由な服従〕に基づいて形造られている」。したがってまた、それは、「しもべヨブ」自身の方からの先行した働きかけによるそれではなくて、先行する「神がヨブを『真実の証人』として決め、しもべとみなし、認め、現にしもべとしているという交わり〔関係〕であり、ただヤーウェが喜んでそうするからそうである交わり〔関係〕である」。

 

そのような訳で、「神ご自身によって祝福されたヨブとは違って」、「秘かに神より上位に置かれている道徳的あるいは法律的な律法を優先する三人の友人たち」は、「神に祝福されることはない」のである。何故ならば、彼らは、神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性・真実の罪のただ中にあって思惟し語っているからである。このような訳で、前段で述べたところのヨブは、「神ご自身によって祝福された真実の証人真実の証人の基本構造真実の証人の一つの型であることによって、その「三人の友人たちの偽りを暴露する」だけでなく、その「偽り者のためにとりなしをする」し、またそのことによって神の祝福を現実化する真実の証人そのものであるイエス・キリスト真実の証人、真実の証人の基本構造、真実の証人の一つの型も示している」。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――「まことのイスラエルまことの民まことのイエスキリストの教会実体ではないから、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、そのイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世の全ての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活けるヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会共同性を目指すところに存在する、と(すなわち、その教会は、実体ではないからその教会は絶えず繰り返し、そういう仕方で、教会<となる>ことによって教会<であるところの教会共同性を目指すところに存在する)。まことのイエス・キリストの「教会は、〔前述したような仕方で〕人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うことを聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」、それ故にそうでない時には、「どのような大群衆をその中に擁し、〔学業的優等生の大学社会の学者や人間的奉仕の優等生の奉仕家や法律家や倫理家・道徳家等々〕どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(啓示・教会・神学)。

 

 さて、ヨブはその苦しみや嘆きにおいて」、「ゲッセマネとゴルゴダの苦しみと嘆きを引き受け給うたイエス・キリストの証人である」。すなわち、ヨブは、この意味でも、「ただひとりの真実の証人そのものであるイエス・キリスト証人である」。「<ただひとりの真実の証人そのものであるイエス・キリスト>」においては、「人間の偽りは煙のごとくただちに一切の香りを失う」。イエス・キリストにおける神の自己啓示においては、われわれ人間の個と現存性(人間の個の時間性としての個体史、自己史)――われわれ人間の類と歴史性(人間の類の時間性としての人類史、世界史、歴史)の生誕から死までのすべてが裸形化され明るみに出される、それ故に「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」、現在情報科学や情報技術の進歩・発達によってさらに加速している際限なき人間の欲望が裸形化され明るみに出される、「『自然』神学」の段階で停滞と循環を繰り返す教会の宣教およびその一つの補助的機能としての神学における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした十字架象徴論へと、イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが裸形化され明るみに出される。「<ただひとりの真実の証人であるイエス・キリスト>」においては、それが人間論的な自然的人間のそれであれ、教会論的なキリスト教的人間のそれであれ、誰のそれであれ、一切の「人間の偽りは煙のごとくただちに一切の香りを失う」。したがって、「<ただひとりの真実の証人であるイエス・キリスト>」においては、「ヨブの三人の友人の敬虔なすがたキリスト教的なすがたにおいて行われる」、「少しも神に身をゆだねることなく生き生きつづけうるようになりたいという企て」――すなわち、「人間がキリストの福音を飼いならすという企てキリストの福音を人間に帰化させる企て等偽りの現象のすべてが裸形化され明るみに出される、「自分自身の自由と救いと滅びの免除にだけ関心がある三人の友人たちの訓育牧会典礼説教にある偽りの現象のすべてが裸形化され明るみに出される

 

 さらにバルトは、「ヨブ記」の全体の構成とユングの『ヨブへの答え』について述べている――ヨブは、死海の東あるいは東南のイスラエルの境界を越えたエドムの領域・ウヅの住人である。また、ヤーウェとの関係でいえばヨブはイスラエルの神からわがしもべヨブと呼ばれて祝福されている人物である」。「1242章は、富裕なヨブが苦しみの只中でのヨブの神への真実、あらためて受ける神によるヨブへの祝福についての民間伝承・枠小説である。また、詩の331章、ヨブと三人の友人たちの言葉(特に2526章)は、ヨブ記の中心部である。3337章の詩形式のエリフの言葉、たぶん4041章のベヘモトとレビヤタンについてのヤーウェの口におかれた詩、その前におかれている3839章の宇宙世界や、その他の特に獣の世界に……関する部分は、後からの挿入である」。「最後には、28章のヨブの知恵の歌である」。「ユングは41章(34節を引用)に依拠して、集合的無意識としての神・ヤーウェ」は、「動物的――自然的」であり、「あらゆる古代の神々と同様にヤーウェもまたその動物シンボル体系を持って」いると述べている。因みに、吉本隆明によれば、農耕を主たる経済社会構成に置いた人類史のアジア的段階の日本において<非>農耕民と同様に神人と呼ばれた天皇のそれは、白蛇である。バルトは、ユングの『ヨブへの答え』について、「人間的には非常に感動的な記録であり、職業的心理学者の心理学にとっては極めて啓発的でもある」が、「しかし聖書のヨブと聖書一般の解明のための寄与としては」、その叙述が心理学者然としており、ヨブ記を「冷静に読み、思索することができなかった」が故に、その「作品は望みなく全く不毛となっている」と述べている。吉本に依拠して言えば、ユングの作品は、人間にとって一面に過ぎない心理学的側面だけを拡大鏡にかけて全体化し絶対化した(形而上学的にその一面だけを抽象し固定化し全体化し絶対化した)集合的無意識に依拠して展開されたそれであるから、ユングの作品によっては、ヨブ記をトータルに読み解くことはできない。

 

 先にも述べたことであるが、ヨブの神との交わり〔関係〕における時間性は、始めと終わりについて言えば、「神の祝福に満ちている」。しかし、その中間の時間性は「苦難に満ちている」。すなわち、この中間の時間においては、「ヨブに対する神の祝福は、乏しく最小限でしかなくなっている」。その時間におけるヨブの神への対応の在り方は、「自己是認や自己称賛とは何の関わりもない神への無比なる信頼であり、自分の身のためだけでなく、祭司的に、彼を取り巻く人々のための代理として、神に対して立っている(29章・31章)」。ヨブは、「敬虔な偽りの証言をした友人三人のために、とりなしの祈りをするという仕方において、神に対している(42章)」。このように、「<真実の証人そのものであるイエス・キリスト>の真実の証人、真実の証人の基本構造、真実の証人の一つの型であるヨブ」の個の時間性(現存性、自己史)における信仰の在り方は、「偽りを暴露するのみならず、敬虔な偽り者のためにとりなしの祈りをする」という点にある。ヨブのそれは、「誤ることがない神自身が、ヨブに力をそえるが故に、その時、ヨブもまたあやまつことはできないし、あやまつことはない」という点にある。また、「神がヨブを『わがしもべ』と呼ばれるのは、ヨブがそう望んだり、そう望むからではなく、ヤーウェ自身が先行して喜んでそうするからそうなのである」という点にある。言い換えれば、神とヨブの交わり関係先行する神の側からの自由な選びと意向による」、後続して従うヨブの側からの自由な服従〔すなわち、神語り給うことに対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性における自由な服従〕」という点にある。この交わり関係、「真実の証人そのものであるイエス・キリスト真実の証人真実の証人の基本構造真実の証人の一つの型である」。「自由に与えまた自由に取り戻すことができないなら〔徹頭徹尾完全に自由でないなら〕、神は〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神でない」。したがって、「ヨブの神奉仕」は、「神の自由、主権、愛に服従する神奉仕である」――「神から幸いをうけるのだから、災いもうけるべきではないか」、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェがとられたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。したがってまた、このヨブは、「誤りうる人間として不正をも行いまた不正でもあるということを認識させられ自覚的させられた人間である

 

 ヨブは、「真実の証人そのものであるイエス・キリスト真実の証人真実の証人の基本構造真実の証人の一つの型である」が、真実の証人そのものではない、<真実の証人そのものであるイエス・キリスト>、<真実の証人そのものであるイエス・キリストの名ではないイエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間であるところの<真実の証人そのものである>が、ヨブは、「神ご自身に呼ばれ祝福された」ところの徹頭徹尾ただの人間そのものとして、「真実の証人そのものであるイエス・キリスト真実の証人真実の証人の基本構造真実の証人の一つの型である」。徹頭徹尾ただの人間そのものとしてヨブが、「自由な神の自由な人間として人間的な可謬性を持ちながら試煉の地獄を通りぬけて行く危なかしい歩みを歩んでいるのに対して、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間であるところのイエス・キリストは、その復活の出来事に包括された「十字架の死」の出来事――すなわち「ゴルゴタの屈辱を通りぬけることによって、すでに勝利者であるという不可謬性の道を歩んでいる」。「イエス・キリストこそが神の真実の証人そのものであるあるということは、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方におけるまことの人間「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」において、「この歴史の中で人間存在の真理〔すなわち、「まことの人間」としての人間存在の真理〕を生きることによって」、その復活の出来事に包括された十字架のすがたによってほかの一切の実存者は偽りであると暴露したということを意味している。その「ほかの一切の実存者」・時間、その彼らが現存する世・時間は、実在の時間であるイエス・キリストにおける啓示の時間」から、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」から、「『攻撃された時間」、「否定された時間」、「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・世である(『教会教義学 神の言葉』)。この<イエス・キリストの復活の出来事に包括された十字架を頂点とした地上の生、生活において>、われわれは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」(すなわち、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある客観的な「存在的な<必然性>」)と、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(すなわち、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した信仰の類比を通して、「神に棄てられた者」、「神にたたかれ、苦しめられる者」、「闇に屈伏させられた者」、「敗北者の姿」を自己認識・自己理解・自己規定させられるのである。このようにして、「イエス・キリストは、われわれと現在ともに在すことができる」。「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」(「キリスト復活の四〇日(使徒行伝13)」、「キリスト復活四〇日の福音」)としての「イエス・キリストの現在は、〔その復活の出来事に包括された〕十字架につけられた者の現在である」。すなわち、その「〔復活の出来事に包括された〕十字架の姿において、<神の真実の証人そのものであるイエス・キリストわれわれの人間の敬虔な偽りを暴くのである」。その時、われわれは、「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院、希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨、現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)闇のこの世以外には、何も眼前に見ないのである」――「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰〔目的格的属格的信仰〕に由って生きるのではなく、神の子<>信じ給うこと〔主格的属格的信仰〕に由って〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト<>信ずる信仰」によって〕生きるのだということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではないそのことが現実であるのはただわれわれのために人として生まれわれわれのために死にわれわれのために甦り給う主イエス・キリストが彼にとってもその主でありその避け所でありその城でありその神であるということにおいてのみである(ここに、「福音と律法の<現実性>における勝利の福音の内容」がある)。したがって、キリスト復活と復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代、中間時の中で生かされ、そこで存在し思惟し行動しているわれわれは、それ故に終末論的信仰において復活されたキリストの再臨、終末、「完成」を待たなければならないわれわれは、あくまでも神のその都度の自由な恵みの神的決断により「神の恵みの賜物である聖霊」を贈り与えられることによって、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>おいて終末論的に語るのである」、ここで「終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての<いまだ>であり〔すなわち、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いま>であり〕、〔神の側の真実としてある〕成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」、ちょうどドストエフスキーの『罪と罰』の中で終末論的信仰に生きたマルメラードフのように、あるいは吉本隆明にあなたはキリストの<復活>、〔復活されたキリストの〕<再臨>〔終末、「完成」〕を信じているのですかと問われて、信じていますと答えた終末論的信仰に生きたカトリック作家の小川国夫のように

 

「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリストこそが、「受難から続く十字架の死の絶対的沈黙死の沈黙をその復活において打ち破り克服された唯一無比の方である」。このイエス・キリストの復活、「彼が神性を本質としているということ」をまた彼の言葉は神ご自身の言葉であることを示している」。バルトは、「霊(プニュウマ)とは、パウロの人間学においては、〔生来的な自然的な〕人間実存の不可視な精神的生の要素である魂(プシュケー)とは違うが、キリスト者に洗礼の際に贈られる、イエス・キリストとの交わりのことであって〔客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいたところの、イエス・キリストとの交わりのことであって〕」、「その霊に基づいてキリスト者は初めて、新しい真実の主体となる〔信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を終末論的限界の下で与えられた新しい真実の主体となる〕」という意味を与えている、と述べている。したがって、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準するところの、その復活の出来事に包括された十字架につけられたイエスはこの世界に向けられた神の言葉であると証しするキリスト教会、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用するし」(しかし、それに対して、「『自然』神学」の段階で停滞し循環する<近代主義>的プロテスタント主義的キリスト教信仰・神学・教会の宣教は、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」のであるが)、「勝利の福音それ故に復活を信ずると告白するのであるそれ故にまた復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)を待ち望む終末論的信仰に生きるのである。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、そのイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>が、われわれに対して、その<総体的構造>の中での神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を、終末論的限界の下で授与するからである。

 

 その死と復活の出来事における「イエスの受難とは、神は、イエスを棄てた者であるとともに、そのイエスにおいて自分自身をも棄てるものである」ということである。その復活の出来事に包括された「十字架につけられた〔まことの神にしてまことの人間である〕者の語りかけ」は、生来的な自然的な人間の「だれもがそれを他人に言うことはできないものである」から、もしも生来的な自然的な人間がそれをお互いに言うことができるとするならば、その「人間がお互いに言うことができるのは、人間の理念であり、世間的情報でしかないのである」、すなわち類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間の意味的世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」でしかないのである。言い換えればイエスの語りかけ、「彼の聖霊の力によってしか聞かれることはできないものである」(「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」)、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、そのイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事」(すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」とその啓示の出来事の中での主観的側面である復活され高挙されたイエスキリストから降下し注がれる霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」に基づいてしか聞かれることはできないものである。したがって、「イエスの語りかけを宣べ伝える時もそれは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中における客観的な「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」(すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」)を前提条件としたところの、主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性<と>客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下での途上性で、絶えず繰り返し、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛を根拠とした神の讃美としての隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関・循環においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活けるヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会共同性を目指して行くところでしか聞かれることはできないものである。そのイエスの聖霊は〔客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊は〕、それ自身力であり〔「慰め主としての霊」、「真理の御霊」、「キリスト教原理を覆いをとって明らかにする霊」、「キリストについて語ることができる能力」、「証しの力」であり〕、……その力によって神の言葉真理の言葉がただ神のうちにあるだけでなく神が欲する時と所で〔神のその都度の自由な恵みの神的決断により〕、神から出てわれわれ人間にはいりこみ、……いくらかわわれわれの信仰われわれの認識われわれの服従という……収穫をえて神にかえっていくだけである」。したがって、聖霊は、人間精神と同一ではない」し、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」し、聖霊によって更新された人間理性も聖霊と同一ではないのである(『教義学要綱』、『バルトとの対話』)。

 

そのような訳で、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における人間の説教は、それがたとえ第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした「聖書にかなう宣教や最も純粋な教説であっても」、「それ自体は神の言葉では全くないから、「それ自体を神の言葉とすることはできないのである。したがって、東京神学大の実践神学者の小泉健が、ルドルフ・ボーレンの神律的相互関係の概念に依拠して、「誤謬は必然」となる「『自然』神学」の段階の思惟と語りにおいて、それ故にそのことは「神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」にも拘らず、人間が恣意的独断的に「わがまま勝手に」聖霊と聖霊の言葉を実体化させるという仕方で、聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と主張した時、その主張は、その最初から「誤謬は必然である」主張なのである。したがってまた、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としない宣教や教説それ自体は、「神の語りかけを聞く妨げになるのである」。このような訳で、バルトは、『教会教義学 神の言葉』において、次のように述べている――教会の宣教(その一つの補助的機能としての神学)における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」、それ故に教会の宣教およびその一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学における思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈り」の態度〕に対し神が応じて下さる〔「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立している」のである、と。キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、そのイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における客観的な「存在的な<ラチオ性>」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の現存に立脚する<立場>において、そのように思惟し語らないならば、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(フォイエルバッハ全集第12』「宗教の本質にかんする講演 下)と、フォイエルバッハから客観的な正当性と妥当性とをもって、根本的包括的に原理的に批判されてしまう。その時には、「『自然』神学」の段階で停滞し新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出した」ブルトマン(ブルトマン学派)に対して、客観的な正当性と妥当性とをもって、根本的包括的に原理的に「揶揄」(批判)したハイデッガーから、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大しているが、……〔類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」に過ぎない〕いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神を見失うこと』」になるから、「それよりはむしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」(木田元『ハイデッガーの思想』)と言われてしまう。

 

 

 さて、「神はヨブに敵対していながらも、彼に味方している」ことに基づいて、「ヨブはヤーウェに反抗(不正)しながら、自分を告発している神へと逃げる道(正しい道)へと歩みを進める」。「神のしもべであるヨブの苦難の問いに対する答え、「知恵に属することでありまたその知恵が神に属する事柄であれば〔換言すれば、その知恵が神的愛の完全性における、「われわれのための神としてのその「外に向かって」の「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・業・働き・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における神の忍耐と、「自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神の知恵とにおける知恵に属する事柄であれば〕」、ヨブはただ神に信頼し固執し固着して、終末論的信仰において答えを持つ道へと歩みを進める以外にないのである。主は、「テマンびとエリパズに言われた、『わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなた方が、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである』」。この時、「神はヨブを保証する者弁護する者保護する者である」」。またこの時、「神がヨブの証人であり神の真実でありつづけた真実でありつづける選びに基づいて不正と正しさを告発されたヨブは正しいイスラエルであり、<真実の証人そのものであるイエス・キリスト真実の証人真実の証人の基本構造真実の証人の一つの型である」。(文責:豊田忠義)