8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その2)
この<8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その2)>は、<「『自然』神学」の段階で思惟し語る神学の諸形態について>――<1>.ローマ・カトリックの教説、<2>.宗教改革者マルチン・ルター、によって構成されている。またその続編の<8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その3)>は、<「『自然』神学」の段階で思惟し語る神学の諸形態について>――<3>.アウレリウス・アウグスティヌス、<4>.近代主義的(自由主義的)プロテスタント主義的神学者フリードリヒ・シュライエルマッハー、<5>.ルドルフ・ブルトマン、<6>.ユンゲル・モルトマン、エーバーハルト・ユンゲル、パンネンベルク、<7>.エミール・ブルンナー、<8>.ラインホルド・ニーバー、<9>.ルドルフ・ボーレン、ベルトールト・クラッパート、エーバーハルト・ブッシュ、<10>.滝沢克己、八木誠一、北森嘉蔵、<11>.1928年エルサレム会議、によって構成されている。
先ず以て、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している中で、<自らの立場>において、両者を包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である」(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)ということからして、自らの<立場>において、現在的問題を、すなわち現在的問題を止揚する問題を、換言すれば人類史において世界普遍性を獲得した西欧近代の<段階>の問題を包括し止揚しようとしたのが、次の二人である。一人は、「私に興味があるのは、西欧の合理性の歴史とその限界です……」、「西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものです」、「そうした中で、時代を画する哲学者は一人もおりません。というのも、……西欧哲学の時代の終焉であるからです」、「たとえばマルクシズムは、(中略)一つの思想形態……一つの世界ビジョン、一つの社会機構となりました。(中略)マルクシズムは現在、明白な危機のうちにあります。それは西欧思想の危機であり、革命という西欧概念の危機、人間、社会という西欧概念の危機なのです。それはまた〔西欧近代は現在危機に陥っているとは言え、それは、現存する時空において世界普遍性を獲得していることからして、〕全世界にかかわる危機……です」(『思考集成VII』「フーコーと禅」)と述べたミシェル・フーコーである。もう一人は、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、西欧的にいえば〔人類史における〕アジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは〔人類史的段階における西欧的とアジア的の〕二重になってきます」(『世界認識の方法』)と述べた吉本隆明である。
フーコーは、「マルクスは資本主義の分析の際に、労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒んだ」。何故ならば、資本主義的生産は、その制度的必然によって、「その基本的法則によって、必然的に貧困を生産せざるをえないものである」からである。すなわち、「資本主義は、何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできないものである」。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、〔資本主義的〕<生産>を分析した」のである(『ミシェル・フーコー』「セックスと権力」)。何故ならば、マルクスは、例えばイザベラ・バードの『日本奥地紀行』等々で指摘されている人類史の原始・未開の段階(ブラック・アフリカ的段階、縄文的段階、北米インディアン的段階、アボリジニ的段階等世界の諸地域のその段階)における「内在の精神」を繰り込むことができる内在の精神史の観点を持たなかったが、「もしもロシアが世界において孤立しているとしたら、ロシアは、西ヨーロッパが原始共同社会の存在以来現状にいたるまでの長い一連の発展を経過してはじめて獲得した経済的征服を、独力でつくりあげなければならないであろう。(中略)しかし、……、ロシアは、近代の歴史的環境〔歴史的現存性〕の中に存在し、より高い文化〔外在的な「自由を原理」とする精神〕と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この〔資本主義的〕生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的である形態〔すなわち、農耕を主たる経済的基盤とする人類史のアジア的段階における農耕村落共同体の育む相互扶助意識(・感情)の形態〕を破壊しないで、それを発展させ変形することができる」(『資本主義的生産に先行する諸形態』)と述べて、資本主義的生産の問題を明確に提起したからである(『ユダヤ人問題によせて』――「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」)。このマルクスの思惟と語りからすれば、激化する国際競争力を維持するためという大義名分の下に、内部留保分を貯め込み自己資本比率を高めることを第一義とする企業は、またそのことを上から助長した小さな政府を目指す、しかし国家を第一義とする国家主義的な新自由主義、経済的自由至上主義、市場原理至上主義経済化政策を推進した政治家・小泉純一郎(経済学者・竹中平蔵)内閣の政策は、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般国民の生活のことを第一義とせず、日本の社会を安定させていた要因でもあった自分や家族の将来を見通すことができる終身雇用制や年功序列型賃金を衰退させ、人々に競争原理による競争意識を植え付け、社会を分断し、貧困格差を増大させて行ったところの、破壊的で無能な悪しき企業のそれであり政治家のそれであり経済学者のそれである。したがって、例えば衰退した農耕村落共同体が育む内在的な絆ではなく、現在メディアを通して流されている政治的領域や社会的領域等のさまざまなところからなされる外在的な絆の強調は、その<衰退>局面における裏返された表現である。
吉本隆明は、『アフリカ的段階について 史観の拡張』で、直線的な進歩史観による資本主義を主たる経済社会構成とし自由を原理とする人類史の頂点である(世界普遍性を獲得した)西欧近代の<段階>からその文明や文化が<外在的に未開で野蛮>だと除外されたところの、その人類史の原型・母型・母胎であるアフリカ的<段階>における内在の精神に着目し、その内在の精神史にまで史観を拡張する<立場>で、「ヘーゲルが旧世界として文明史的に除外したアフリカ的世界は、実は内在の精神史からは人類の原型〔・母型・母胎〕にゆきつく特性を有しているおり、そのアフリカ的世界は、内在の精神史においては天然は自生物の音響によって語り、植物や動物も言葉をもっていて、人語に響いてくる。そういう認知は迷信や錯覚ではない仕方で、人間が天然や自然の本性のところまで下りてゆくことができる深層をしめしている」という<観点>から、西欧近代の危機の問題を明確に提起したのである。
因みに、矢沢利彦編訳『中国の医学と技術』(平凡社)によれば、「東洋の技術や知識については、西洋では版画術からすぐひき続いて印刷術が起こったが、シナ人は版画の技術をもちながら印刷術をものにすることができなかった」、「大砲用の火薬をもっていたのに、大砲を空想することができなかった」。西欧近代の<段階>を人類史における頂点とするヘーゲルの『歴史哲学講義』によれば、その外在史的な観点から、人類史におけるアジア的<段階>の「中国人は、ヨーロッパ人より先にいろいろと知識を得ているが、知識の応用のしかたを知らなかった。磁石や印刷術などがそうです。……火薬の発明もヨーロッパ人より早かったが、大砲の鋳造はイエズス会士の手をかりなければならなかった」、「ラプラスは、中国に月食や日食の古い報告や記録があるのを見て、中国の天文学をほめたたえましたが、それはむろん学問の体をなしていない」、またその外在史的な観点から、宣教師等の報告を介したブラック・アフリカ(人類史におけるアフリカ的<段階>)は、「自然のままの、まったく野蛮で奔放な人間」、「人間の心にひびくものがない」、「人間精神にとって神は雷以上のものでなければなりませんが、黒人はそう考えない」、「人間を食べる」、「子どもを売りとばす」、<呪術宗教>と<絶対奴隷制>という<段階>にある。『金枝篇』を著わしたフレイザーは、文明史的に人類史における頂点である西欧近代の<段階>にもあったアフリカ的<段階>の「名残り」について、すなわち「樹木の精霊がその力のうちにもっている祝福を、村やめいめいの家へもち帰る一般の生育の精霊や樹木の精霊」は、「樹、枝、花などのような植物の形であらわされている」場合と、人形または実際の人物との組み合わせ、すなわち植物人間形態で表される場合」とがあり、後者は「……例えば花嫁の花と嫁がそれである。少女たちの一人を花冠で飾り五月の花嫁として仕立て、少女たちは家を巡って、それぞれの家でその五月の花嫁は贈り物を求め、その求めに応じれば年中豊かであり、その求めに応じなければ何も与えられない、という歌を歌う」人類史のアフリカ的<段階>における自然宗教(アニミズム)としての「樹木崇拝の名残り」について述べている。言い換えれば、西欧も、人類史におけるアフリカ的段階を経過したのであるが、西欧は、ただその段階を速やかに超え出ただけなのである。吉本は、前段で述べた「史観の拡張」の<立場>から、次のように述べている――資本主義が<悪>や<欠陥>を持っていることは、制度的必然として原理的に自明なことであるが、一方で、その資本主義は、「人類の歴史の無意識〔自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果である経済社会構成の拡大・高度化、資本主義化、消費資本主義化、科学・技術の進歩・発展、高度情報社会化、その知識の細分化・増大、生活の利便性の向上等〕の生んだ……最高の出来栄えの作品である」から、外在史的な観点からすれば「資本主義が産みだした文明も文化も人類の最高の作品である」、それ故に資本主義には<悪>と<欠陥>、搾取、貧困があるから「資本主義が産みだした〔その〕文明や文化や商品も<悪>で<欠陥>があると資本主義とその文明や文化や商品を批判しても」、自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果であるその「最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない」。このような訳で、その根拠を揺るがし資本主義を超えるには、自らの<立場>において、その資本主義的生産の問題、その文明や文化や商品の問題を「明確に提起する」以外にはないのである、それらの根本的な原理的な問題を包括し止揚する以外にはないのである。還相的な究極的総体的永続的問題として、それらの根本的な原理的な問題を包括し止揚するためには、資本主義的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を明確に提起する以外にはないのである。吉本によれば、それは、世界普遍性としてあった人類史の原型・母型・母胎であるアフリカ的(縄文的等)な<段階>における種々の贈与制の歴史的批判的な調査、解明に基づくその再構成にある。すなわち、現存する世界が経済の世界性と戦争の元凶である自らの国家の利害を第一義的に最優先する民族国家の一国性を単位として動いている中で、民族国家の枠組みを超えた「世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制」の構成、「等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論」の構成にある。それができれば、主たる経済社会構成を資本主義的生産に置く西洋近代の<段階>を超え出て行くことができる、「<超>西欧の段階」へと超え出て行くことができる。一方で、往相的な過渡的緊急的課題としては、たとえそれが資本主義的生産による物質的なあるいは観念的な諸生産物であるとしても、優れたそれは評価すべきであるから、創造的な批判は、それを包括し止揚した物質的なあるいは観念的な諸生産物を創造する以外にはないのである(『マルクス――読みかえの方法』)。その時、われわれには、次のような観点、自覚を必要とするのである――「人類は、〔外在的な〕文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない」(『アフリカ的段階について 史観の拡張』)から、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般国民が、「歴史の主人公だとおもうためには、まだやること、創られるべき物語はたくさんある……。意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒をふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語ばかりである」、それ故に「知識人〔政治的な、社会的な、メディア的な知識人、それらの集団〕が非知識人〔大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般国民〕を導くというようなかんがえ方は、絶対に転倒されなければいけない」(『大情況論』)。
<1>.ローマ・カトリックの教説
バルトは、次のように述べている――「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)の下における、「スベテノ物ノ始メデアリ、終局デアル神ヲ」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)、その<総体的構造>における客観的な「存在的な<ラチオ性>」としての「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である」、「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として」客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「啓示との<間接的同一性>」において存在している、啓示との区別を包括した同一性において存在している、その最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)であるところの、第三の形態の神の言葉に属する「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である「聖書」を、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方ではなくて、すなわち「『自然』神学」の段階において、生来的な自然的な「人間ノ自然理性ノ光ニヨッテ、被造物ヲ通シテ、確実ニ認識スルコトガデキルト確信シ、教エルというローマ・カトリックの教説に対して、われわれは、真向から反対した」。「それと共に」、われわれは、「『自然』神学」の段階において、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――すなわち「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>におけるところの、起源的な第一の存在の仕方(父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「創造者デアリ」、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれ人間は、神の不把握性の下にある)「神の<内>三位一体的父の名」・「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三つの神的我」、「三つのわれ」、「三つの主体」、「三神」、「三つの対象」ではない)としての「ワレワレノ主デアル唯一ノ真ノ神ハ、〔生来的な自然的な〕人間理性ノ自然的ナ光ニヨッテ、被造物ノ中カラ確実ニコレラヲ認識スルコトガデキナイト言ウ者ハ<排斥サレル>」と主張するローマ・カトリックの「教説に反対する」。
「神の恵み〔「神的な賜物……の総内容」、すなわち「啓示者である父に関わる創造、啓示そのものである子に関わる和解、啓示されてあるものである聖霊に関わる救済」、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>〕とは違う、したがって信仰とは違う神の認識可能性の保証を探し求める神学、あるいはそのようなものが存在し得ると考え・約束する神学」――すなわち「<『自然』神学>はすべて、教会の領域では不可能であり、しかも根本においては<議論の余地なく不可能>であるという洞察」をなすことができる。「何故ならば、<『自然』神学>は、ローマ・カトリックの教説〔すなわち、形而上学的にその一面だけを抽象し固定化し全体化し絶対化して、それ故に抽象的ニ「神の一つの面だけを……考える」分割、「主および創造者なる神だけを考える」分割、このことを「念頭に置いた神の認識可能性」のローマ・カトリックの教説〕<と>「われわれの対決が示したように、ただキリスト教的な神概念に対する暗殺計画に基づいてだけ可能となり得るからであり、キリスト教的神論が、それと共に〔教会の一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての<教会>〕教義学が、したがって純粋な教えを問う問いが〔換言すれば、区別を包括した単一性において、「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題を包括した「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題が〕、この暗殺計画でもってはじまるということは、そもそも全く問題とならないことだからである」。われわれが、「ヴァチカンの『自然』神学」の段階における思惟と語りに対して抗弁するのは、「先ず〔形而上学的にその一面だけを抽象し固定化し全体化して、それ故に抽象的ニ「神の一つの面だけを……考える」分割、「主および創造者なる神だけを考える」分割、このことを「念頭に置いた神の認識可能性」を主張する教説における〕ヴァチカンの神概念に対して、それは、明らかにヤハウェとバアルを、聖書の三位一体の神とアリストテレスおよびストア派の存在概念を結びつけようとする試みによる形成物だとして反対することから当然出てく結論である〔換言すれば、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持しない神と人間との、また神学と人間学との混淆・混合行為、すなわち「『自然』神学」の段階で停滞した、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」を目指す試みによる形成物だとして反対することから当然出てく結論である〕」。ローマ・カトリックの「『自然』神学」の段階における「造られたものから理性を通して神を知ることができるという神の認識可能性についての命題」は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神をその中に再認識することができず、そのようなものをキリスト教的神概念として力を奮わしめることができないところの」、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、すなわち「存在者レベルでの神」としての「神概念の第二の<異教的な>構成要素に関して……言えるだけである」。
Ⅰコリント3・10-11(なお、エフェソ2・14-22も参照)は、次のように語っている――第二の形態の神の言葉である<使徒>・パウロの「わたしは、神からいただいた恵みによって、〔第二の形態の神の言葉に属する<使徒>として〕熟練した建築家のように土台を据えました。そして〔第三の形態の神の言葉に属する〕他の人がその上に家を建てています。ただ、〔「聖書こそが教会に宣教を義務づけている」その教会の宣教は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、その神の啓示、その神への信仰を対象としている限り、〕おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエス・キリストというすでに据えられている土台を無視して〔恣意的独断的に「わがまま勝手に」〕、だれもほかの土台を据えることはできません(『教会教義学 神の言葉』および『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』――イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っている)。このような訳で、「『自然』神学」の問題は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在しているところの、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれ人間は、神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三つの神的我」、「三つのわれ」、「三つの主体」、「三神」、「三つの対象」ではない)の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」――このイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、客観的な「存在的な<ラチオ性>」)の関係と構造(秩序性)に連帯し連続することをしないで、その関係と構造(秩序性)から逸脱して行くところに発生して来る問題としてあると言うことができる。このような訳で、「『自然』神学」における「神認識……が事実可能であり、遂行し得るものであり、その<事実的な遂行>の中で自らその権利と必然性を裏づけ語っているという」時、「そこで問題となること」は、「彼の現実存在および世の現実存在に関するある種の答えを通して、自分自身および世と決着をつけようとする<人間の試み>、自分と世の間に均衡状態を造り出そうとする<人間の試み>、あるいは彼の答えの目標あるいは彼の問いの起源を第一のものおよび最後のものとして、したがって〔類的機能を持つ彼の自由な人間的理性や際限なき彼の人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(彼の観念的生産物)としての彼の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、すなわち「存在者レベルでの神」としての〕それを、自分の神としてみなそうとしながら、その方向にそって問いを立てようとする<人間の試み>である。この第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神なしに自分自身を理解し、支配することができると考えている人間は、自分自身および世と決着をつけ、その彼の努力の目標および起源を第一のことおよび最後のこととして、したがって〔類的機能を持つ彼の自由な人間的理性や際限なき彼の人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(彼の観念的生産物)としての彼の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、すなわち「存在者レベルでの神」としての〕それを、自分の神としてみなそうとすることを、彼の生の意味および内容として持っている」。その時には、「もし君が無限者を思惟するならば、……君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである」、「そして、もし君が無限者を情感するならば、……君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである」、その時には「理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、それ故に「(中略)神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)、それ故に「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)。このような訳で、「自然的な人間にとって神であるもの、自然的な人間が自分の神と呼ぶもの」――「それは、……彼が確かに認識するし、したがってそのものは彼にとって確かに認識可能であるが、しかし、そのものは、彼を偶像として決して実在の神の認識〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の認識〕へと導かず、実在の神の認識に向かって準備もせず、〔それ故に〕むしろ実在の神の認識〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の認識〕から遠ざけるだけであり、そのものの認識および認識可能性は、彼を実在の神の敵〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の敵〕とするであろう偶像である」。したがって、「ここでは、神認識についても、神の認識可能性についても語られることはできないのである」。われわれは、それらの事柄についての「確認に関して、最後的には〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書の判断から由来して来るということ」、「その聖書の判断なしには……ここで起こり得る虚偽と自己欺瞞を長きにわたって避けることはほとんど不可能であるということにについて明瞭でなければならない……」。
「『自然』神学」の段階における思惟と語りにおいては、「信仰あるいは不信仰についての、神を認識するか認識しないかについての本来的な決断について」、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づかないところで、それ故に生来的な自然的な「人間が、〔「神の『自然的な』認識可能性が考慮に入れられた」「人間の用意」をもって、人間の側から先行して〕神の啓示と出会う出会いの中で、出会いと共に、はじめて下されることができるし、下される」と「人々は、……考えているのである」。しかし、先行する「神の用意」は、包括的に言えば神とは異なる「実在全体」――すなわち宇宙を含めた天然自然としての外界、自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、個体的自己としての全人間の身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動によって生み出されるところの人間化された自然としての人間的自然である人間の物質的および観念的な諸生産物(マルクス『経済学・哲学草稿』)としての「存在者」では決してなくて、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉としての<「存在者」>〔「神の隠蔽」としての「神の自己卑下と自己疎外化」、すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」〕である。「人間の個とその現存性(個の時間性としての自己史、個体史)」<と>「人間の類とその歴史性(人間の類の時間性としての人類史、世界史、歴史)」の交点で存在し思惟し行動するわれわれ人間にとって、「確かにそれらすべては、……重要である」が故に、「『自然』神学」の問題は、「この領域の中」に現存するところの、生来的な「自然的な人間の生きる試みの中に」、「神の認識可能性が……存在するのかという問題として総括することができる」、換言すれば「この領域の中」に現存するところの、生来的な「自然的な人間の生きる試みの中」での「神の認識可能性の発見は、……〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕実在の神、〔「聖書によって宣教が義務づけられている」第三の形態の神の言葉に属する〕キリスト教会にとってその方の宣教が問題であるところの実在の神と同一」である「〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕「啓示の中での神の認識可能性への準備を意味するであろうかという問題として総括することができる」。
<2>.宗教改革者マルチン・ルター
第三の形態の神の言葉に属する全く人間的なローマ・カトリック教会における「教皇の宣言を通して」というまさに「『自然』神学」の段階で停滞した主張は、第二の形態の神の言葉である「聖書の権威と自由」を揚棄し越権した、「聖書の権威と自由を剥奪した」、「聖書の権威と自由を相対化した」、「聖書の権威と教会の権威を等置し同一視した」、悪しき「神学的な階級制と第二の啓示源泉を承認する」教会共同性を成立させた。この事態は、教皇主義(「ローマ的啓示組織体の絶対主義」)と同じように、「無謬性の教説」を前提とした「近代的な自然科学および歴史学の経験主義を尊重する」まさに「『自然』神学」の段階で停滞した近代主義的プロテスタント主義的キリスト教でも起こった。「宗教改革」は、一方で、この第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会が「わがまま勝手に」恣意的独断的に成立させた「神学的な階級制と第二の啓示源泉……を、当然のことながら承認しなかった」、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の主観的な「教父ノ一致に、その個人の権威に、無批判的に服従してしまうことについて承認しなかった」。しかし、「宗教改革」は、他方で、徹頭徹尾その「福音主義教会と聖書原理の地盤」に立脚しなかったその分、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「教会の中での特定の教父たちのことを、またそれらの者に対して帰せられるべき真理ノ証人としての標準的な地位を(聖書の標準性の下においてであるが)事実考慮に入れていたということ、そのことは、ルターからも、カルヴァンからも(特にアウグスティヌスとの彼らの関係に関して)容易に証拠立てることができる」――「聖書を説明し、解釈した聖なる教父たちと古代の教師たちが、この規準〔「神学的な階級制と第二の啓示源泉」〕から離れなかった場合には、われわれは、彼らを単に聖書の解釈者としてだけでなく、神がそれによって語り、み業をなし給うた選ばれた器として認め、尊敬しよう」というその信仰的な態度が、その証拠である。「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、〔「『自然』神学」の段階で停滞したその思惟と語りにおける〕アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)――このようなアウグスティヌスとの関係性からして、ルターもカルヴァンも、その度合いの差異はあれ、「『自然』神学」と「『<非>自然』な神学」とを混在させた。宗教改革の「福音主義教会と聖書原理」に基づかない限りは、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的なプロテスタント教会においても、「ルターの翻訳の絶対化」が起こるし(例えば、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間も、生来的な自然的なわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、神と人間との共働・協働・協力もという「『自然』神学」を温存させるところの、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」)の属格の<目的格的属格>理解が起こるし)、ルターはプロテスタント教会における「新しい教父」、「選ばれた器」であるとする事態が起こるし、「第二の啓示源泉」であるとする事態が起こる。「十八世紀初頭に至るまで、ルターやカルヴァン、また彼らの仲間のうちの多くの者は、それぞれの仕方でこれらふたりの者と並んで、……『聖書の博士として』、それと共に教会の霊的な指導者……として、彼らに対して与えられるべき権威をはるかに超えた、それ以上のひとつの権威……を所有し、行使した」。
さて、ルターは、『キリスト者の自由』で、次のように述べている――先ず以て律法と福音を分離し対立させ、先ずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」。ルターは、「律法に対して全体的に不従順であるという事実における人間に生じる生の不安」という、また「律法」によって人間の破れや痛悔や人間の無能力を「学び且つ経験する」という、そのような生来的な自然的な人間の直接的な契機を第一次化させている。しかし、それだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵〔キリストの福音〕の呼びかけを説教して、信仰を教えるべきである」。「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」。「さらばキリストを信じなさい」。「あなたが、律法ノ成就者ヲ信ジル限リニオイテ〔あなたが、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を<目的格的属格>として理解し、神と生来的な自然的な人間との共働・協働・協力関係の中で、あなたがあなたの側から「イエス・キリスト<を>信じる」限りにおいて〕」、「あなたが信じるならこれ(〔恩恵と義と自由〕)を得られる」し、「信じないなら得られない」、と。因みに、「律法」により「怖れさせ」られ「その罪を暴露」されなくても、人間の内面の普遍性に届く言葉はあるのである。すなわち、キリストの福音そのものであるその言葉の前では、自分の罪を意識させられ、自覚させられる言葉はあるし、心に響いて来る言葉はあるのである――「イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女〔姦通の女〕に石を投げなさい。』(中略)これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(ヨハネ8・7-9)。
前段におけるルターにおける信仰は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)の中での、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(すなわち、主観的な「認識的な<必然性>」)を前提条件とするというその媒介性が欠如しており、それ故に生来的な自然的な人間の直接的な契機が第一義化されているから、「『自然』神学」の<段階>における信仰の水準にあるものであると言うことができる。したがって、ルターの「イエス・キリスト<を>信じる信仰」という<目的格的属格>理解は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間も、生来的な自然的なわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、神と生来的な自然的なわれわれ人間との共働・協働・協力も、人間の直接的な契機もということを目指す近代主義的(自由主義的)プロテスタント主義的神学にとって好都合のものなのである。したがってまた、<人間中心主義>的な近代主義的(自由主義的)プロテスタント主義的神学の方も、それは<人間中心主義>を聖書的に根拠づけるのに好都合のものであるから、ルターの「イエス・キリスト<を>信じる信仰」という<目的格的属格>理解だけは手放さないのである。このような訳で、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とするその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書を、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」と<主格的属格>として理解することによって、ルターの「イエス・キリスト<を>信じる信仰」と<目的格的属格>として理解した(新共同訳聖書も、「ルターの翻訳の絶対化」というその伝統に従っている)その理解の仕方から対象的になって距離を取り得た神学だけが、近代主義的(自由主義的)プロテスタント主義的神学等々の「『自然』神学」の<段階>で停滞し循環する神学から超え出て、新たな段階へ移行することができる、そこでだけさまざまな時代や世紀のただ中で、またさまざまな時代や世紀を超えて未来に生きる言葉を語ることができる。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教にとって最善最良の神学を構成したバルトの神学がそれであったが、しかし、バルト<主義者>も、<反>バルト主義者も、<中立>バルト主義者も、<折衷>バルト主義者も、欧米の神学者も、日本の神学者も、どこの神学者も、どの神学者も、そのことをよく理解することができなかった。
第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間もという神と人間との共働・協働・協力関係を前提させ温存させたところの、すなわちローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格に対する、生来的な自然的な<人間の直接的な契機>も温存させたところのルターの<目的格的属格>理解においては、<信仰>と<不信仰>(外在的な不信仰だけでなく、信仰の側にも内在する内在的な不信仰を含めて)を架橋することはできないのである。第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教およびその一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学における<思想>の問題であるところの、<信仰>と<不信仰>(外在的な不信仰だけでなく、信仰の側にも内在する内在的な不信仰を含めて)を架橋する問題は、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の<属格>について、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的属格>(「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」、「律法の成就」・「律法の完成」、「成就と執行、永遠的実在としてある」成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、平和)として理解さるべきであるということを、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、明確に提起するところにあるのである、ちょうど徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(第二の存在の仕方における言葉の「受肉」、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)――このイエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ〕人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する〔すなわち、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に向かっての人間の用意が存在する〕」というように。ここにおいては、「ただイエス・キリストの名だけ」というその<媒介性>が肝要な点である。したがって、徹頭徹尾神の側の真実としてのみあるそこにおける信仰は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間もという神と人間との共働・協働・協力関係を前提条件とさせたところの、生来的な自然的なわれわれ人間の直接的な契機に基づいてはおらず、換言すればただ神の恵みの力に基づいて贈り与えられる信仰だけでなく、それだけでなく一方で人間の側の力(理性力、悟性力、感性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等々)に基づく信仰(自力信仰)も前提され温存されたルターにおける(新共同訳聖書における)目的格的属格として理解された「イエス・キリスト<を>信じる信仰」(「イエス・キリスト<を>信じる信仰」による「神の義」)に基づいておらず、それ故にバルトが論じているように第二の形態の神の言葉である聖書における「イエス・キリスト<を>信じる信仰」は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)――すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの(すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、客観的な「存在的な<ラチオ性>」と主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて贈り与えられる<媒介的な>それであり、<信仰>と<不信仰>(外在的な不信仰だけでなく、信仰の側にも内在する内在的な不信仰を含めて)が架橋されたところの、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、先行する「神の用意」――すなわち、ただ<主格的属格>として理解された「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」にだけ根拠づけられ基礎づけられたところの「イエス・キリスト<を>信じる信仰」であり、それ故にそれは、<媒介的な>、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、「律法の成就」・「律法の完成」そのものであり、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同じである――「平和に関するバルトの書簡」)そのものであるところの「イエス・キリスト<を>信じる信仰」である――バルトの『福音と律法』によれば、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<の>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きているのではなく〔すなわち、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を、「イエス・キリスト<を>信じる信仰」として理解された、換言すれば「目的格的属格」として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<が>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を、「イエス・キリスト<が>信じる信仰」として理解された、換言すれば「主格的属格」として理解された信仰に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(このことが、「『福音と律法』の<現実性>における勝利の福音の内容である」)。したがって、この「イエス・キリスト<を>信じる信仰」は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、その中での三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、終末論的限界の下でのその途上性で、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになす、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くそれなのである。
さて、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているわれわれ人間は、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を<目的格的属格>として理解し、たとえ神と生来的な自然的な人間との共働・協働・協力関係を前提としたとしても、そしてそれが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間の直接的な契機に基づいては、「イエス・キリスト<を>信じる」ということはできないのである。「『<非>自然的』な神学」の<段階>で思惟し語るバルトは、『福音と律法』で、「『自然』神学」の<段階>で「律法と福音」について思惟し語るルターとは違って、イエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に分離し対立していないのであって、それ故に福音と律法を二元論的に分離し対立させることはしないで、律法は純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式であるとして、先ず以て、次のように述べている――第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な人間である〕われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)〔復活に包括された死によって〕引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』は、明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕<主格的>属格〔「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」(これが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である)。このバルトの「『<非>自然的』な神学」の<段階>で思惟し語られた言葉は、それぞれの時代、それぞれの世紀のただ中で、またそれぞれの時代、それぞれの世紀を超えて、未来に生きる言葉である。しかし、それに対して、「『自然』神学」の段階における、先ずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」という、また「律法に対して全体的に不従順であるという事実における人間に生じる生の不安」という、また「律法」によって人間の破れや痛悔や人間の無能力を「学び且つ経験する」という、そしてその次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべきである」という、また「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」という、その<目的格的属格>理解における生来的な自然的な人間の直接的な契機を第一次化させたルターの思惟と語りは、現存する時代と現実の側が、さらにその先の時代と現実が、加速度的に衰退させて行くに違いないのである。何故ならば、その<目的格的属格>理解における思惟と語りにおけるルターの言葉は、どのような時代と現実にも通用するところの、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)の中での神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した「恵ミノ類比」(「信仰の類比」)を通して自己認識させられ自己理解させられ自己規定させられるところの、「自分が――つまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や力〔すなわち、知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等々〕によっては』――全く信じることができない……」(『福音主義神学入門』)ということを、また「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ということを、また「神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間、そのような人間の世」ということを、「生来人間は〔生来的な自然的なわれわれ人間は〕、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということを、「われわれの召命・義認・聖化」は、生来的な自然的なわれわれ人間の直接的な契機によって「われわれ自身の中に生起するのではなく」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「イエス・キリストの御業として、われわれのために、われわれ自身の中に生起する」(『教会教義学 神の言葉』、『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)ということを包括することができない言葉であるからである。
このような訳で、前述した内容の『キリスト者の自由』を著わしたルターからして、ルターが、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を<目的格的属格>として理解したことは必然的なことであったと言うことができるのである。しかし、その<目的格的属格>理解の欠陥は、その理解が第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間も、生来的な自然的な人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、生来的な自然的なわれわれ人間の直接的な契機も、<神人>共働・協働・協力もというまさに「『自然』神学」を喚起させ生み出すという点にある。したがって、その<目的格的属格>理解の欠陥は、まさに「『自然』神学」そのものである近代主義的(自由主義的)プロテスタント主義的神学を温存させる役割を担ったし、現在も、そしてこれからも温存させる役割を担っているという点にある。
バルトは、「『<非>自然な』神学」の段階において、次のように思惟し語る――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<の>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「目的格的属格」(「イエス・キリスト<を>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<が>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(このことが、「『福音と律法』の<現実性>における勝利の福音の内容」である)。したがって、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世」「以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。
最後に、バルトは、ルターの次のような教説に対して、根本的包括的な原理的な批判を行っている――「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を揚棄したところの、あるいは認識し自覚しないところの、類的きのうを持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としてのその人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」は、「……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)〔それには、〕あらゆることが可能であり、(中略)〔またそれは、〕人を義とする……、……〔恣意的独断的な「わがまま勝手な」〕愛と善き業を生み出す…、〔恣意的独断的に「わがまま勝手に」〕罪や死にも打ち勝ち、人を救う。〔その〕信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)『神性の創造者』と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を『神は人となり、人は神となる』という定式で簡明に表現し〔たが、それは、〕……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地、神と人間を顚倒する可能性を意味しており〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を揚棄することを、あるいはそのことを認識し自覚していないことを意味しており〕、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態、無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に顚倒不可能な関係だということ――そのことについて〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>について〕、人々は、フォイエルバッハ〔の客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)〕を有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」、「……神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」、「市民的啓蒙という観念、(中略)……社会民主主義の<無神性>は、教会にとって、(中略)現在でも警告であって、(中略)教会がフォイエルバッハの問いの前に晏如となることができるのは、教会の倫理が古いまた新しい実体やイデオロギーに対する崇拝から根本的に分かたれるときである。そのときにこそ人々は、教会の告げる神も幻想ではないのだという教会の言葉を信ずるであろう。そのときまでは、そのようなことを決して信じはしないのである」(『カール・バルト著作集4』「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ」)、「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった」(『バルト自伝』)。
ルターの礼典論は、「結果において、次の点においてカトリックの教理と同じになっている」。すなわち、ルターにとって、「聖餐の中の『約束ノ徴』は、『パント葡萄酒ノ中ノ』キリストご自身である。洗礼の水は、『恵みに満ちた水』であり、『神の水』であり、『神の天的な、聖なる祝福された水』なのである。そこで『信仰は水によっている』」。それに対して、バルトは、次のように述べている――「私たちは、<徴>の力の源泉を、<徴>自体、<徴>そのものの中に移すことをしない。(中略)信仰自体の中にあるのでもない」、「聖礼典の恵みは、信仰自体にも、<徴>自体にも帰せられない」、「カルヴァンにとっては、聖礼典の恵みの源は、信仰自体にも、しるし自体にもなく、神御自身、恵みの自由、自由な恵みの賜物にある」、「その神の恵みの賜物が、<徴>に授与され、信仰に授与される」、「ここに、礼典論についての、よりよい全教会的解決がある」、と。
因みに、東北学院大の神学者であった倉松功は、『ルターとバルト』で、「われわれの結論」でもあるとして、まさに「『自然』神学」の段階の思惟と語りにおいて、次のように述べている――「『ルターによれば文明の建設と発展は理性・知能の課題であり、全人類の課題であり、特定の宗教の特権ではない。ルターの二つの統治の区別は、かれの文明論の恒常的基礎である。その区別が人間の責任と活動の分野を自由にしている。(中略)被造物的・生物的現実……の中にわれわれに直接出逢う当為の要求が自然に存在する。その要求こそ心に記された理性の基本的規範である。ルターによれば、こうした文明の体系は全体として、神律的側面と相対的に自律的な側面とを持っている。神律的というのは、文明を担う諸力は神の恒常的創造者としての活動であるという意味……相対的に自律的だというのは、神の創造者としての働きは人間理性によって把握されるからであり、理性に基づく、人間の神との<共働の行為>は自発的に形成されるからである』」。「ルターによれば文明の建設と発展は理性・知能の課題であり、全人類の課題であり、特定の宗教の特権ではない」と意味ありげに述べているが、そのことは当たり前のことであり、それ故にもっと客観的な正当性と妥当性をもって言えば、経済社会構成の拡大・高度化、科学や技術の進歩・発達、その知識の細分化と増大、生活の利便性の向上等という「文明の建設と発展」は、外界としての自然と同じように、自己<身体>として、性としての他者<身体>として、人間は自然の一部であるように、人類史も自然史の一部であり、その自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果である。その人類史の自然史的過程におけるそれぞれの<段階>は、さまざまな観念諸形態を生み出すのであるが、そのいったん生み出された観念はそれ自体の展開過程を持つのである。現在危機のただ中にあるとは言え、人類史の頂点における現存する<主たる>経済社会構成は資本主義であり、人類史の頂点における現存する文化はそれに規定された西欧文化である、すなわち現在における人類史の尖端性は世界普遍性を獲得している西欧<近代>である。
さて、第二の形態の神の言葉である聖書、「聖書的証人たち、預言者的――使徒的証人たち」の「『自然』神学」に対する<立場>は、バルトの『教会教義学 神論』によれば、次のように言うことができる――第二の形態の神の言葉である「聖書的証人たち、預言者的――使徒的証人たちは、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストにあっての神としての〕神ご自身を、彼らが神の名において神について語っていることが真理であることの証人として呼び求められる時、彼らは、決して、ただついでだけでも、彼らに向かって語り給う方の傍らを、それであるからそれに基づいて彼らが神について語った啓示の傍らを通り過ごして見てはいない」。したがって、預言者および使徒たちが、「神ご自身の証言に訴え出ているということは、神の啓示についての彼らの証言に対して、別に何も新しいものをつけ加えず、……彼ら自身が、彼らの証しと共に、彼らが証ししている光なのではなく、また彼らの証言を聞くところの者たちも彼らを聞くべきではなく、……彼らが証ししてる方が、もしもその方が、すべての人間的な証言の中で、すべての人間的な証言の彼岸で、自ら、ただ一人、ご自身についての証人でないならば、神ではないであろう方に聞くべきであるということを強調している」。
「旧約聖書の証人たちは、彼ら自身の言葉を超えて、それの対象を、換言すればイスラエルの歴史そのものの証言とその歴史の中でのくすしき、自分自身で語って来る神の道を指し示すことによって、自分自身とその聞き手を慰め警告している。これらの道の上で語り行動するところの方が、したがってご自分を啓示される方が、ご自身の証人であり給うということ」が、「それであるから、確かに、神の啓示〔神の<「特別的な啓示」>・<「特別啓示」>〕」が、第二の形態の神の言葉である「彼らの証言の法廷〔・審判者・支配者・規準・原理・標準〕」である。また、「新約聖書の中で、神が、そこでは特にはっきりと言葉に出して聖霊が、〔その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である〕使徒的言葉を確認する証人として呼び求められている時」、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身が「彼らの証言の法廷〔・審判者・支配者・規準・原理・標準〕」として、〕事情は正確にそれと同様である」。「聖霊は、それが神ご自身の本質の中で〔すなわち、それが「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」ご自身のその本質の中で〕、父と子の霊であり給うように、独立した仕方で、自分自身だけで、<直接的な>真理として、人間のところに来るのではなくて、み子を通して〔客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊」――すなわち〕み子の霊として、……その中で神の真理がまさに<間接性>の中で、まさに神の肉となった子として〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉として、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」として、子としてのイエス・キリスト自身として〕、人間のことを引き受ける方として来たり給う」。「新約聖書の中で、聖霊降臨の聖霊は、……クリスマスの光、聖金曜日と復活日の朝の光」そのものである、「まさに、……〔キリストの〕霊を通してこそ、イエス・キリストご自身の裁きが人間の身に下されるといった具合」である。「ここでもまた、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊」に基づく〕神ご自身の証言は、啓示についての人間的な<証言>につけ加わって来る確認を意味している。しかし、この確認は、〔その「啓示に固有な自己証明能力」を持っている〕啓示そのものを通して起こるのである」。したがって、「この確認」は、「確かに啓示についての人間的な証言を限界づけているが、啓示を限界づけず、まさにその確認こそが啓示そのものを通して遂行されるのである」。起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書は、この遂行を、聖書が神ご自身の証言を指し示すことによって、〔第三の形態の神の言葉に属する教会の成員である〕われわれに向かって指し示す」。このような訳で、「聖書によれば、<直接的な>自然神学はない」のである。
また、「聖書的な証人たちは、彼らの言葉を、それとして、全体として、その本来的な中心的な内容と目標において、〔人間の自由な内面の無限性、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を持っている〕宇宙の中での人間の声に基づかせておらず、神の啓示〔神の<「特別的な啓示」>・<「特別啓示」>〕に基づかせているということ」――このことに関しては、われわれと同様に、「『キリスト教的な』自然神学、単に準備として考えられた自然神学の代表者たち〔「<間接的な>自然神学」の代表者たち〕の意見」でもある。しかし、その「『キリスト教的な』自然神学の代表者たち」は、「例えば、詩篇一九篇をどれほど重要に受け取るとしても」、その「……詩篇は、かかるものとして全体において、……エジプトからの脱出を通して、先祖たちの選びを通して、モーセ、ヨシュア、士師たちの派遣を通して、ダビデ王家の設立と保持を通して起こったのであって、いずれにしてもそこでは疑いもなく『もろもろの天は神の栄光をあらわし』と言われており」、それ故に「直接『天』〔自然〕を通して起こったのではない神の栄光をあらわす物語から由来している」にも拘らず、「<間接的な>自然神学」を根拠づけるために、そのことを「引用するに当たって忘れ……文献批評的に片隅に追いやる」という仕方で、「直接『天』〔自然〕を通して起こった神の栄光」という注釈をするのである。また、「彼らは、同じように彼らの意味で注釈された箇所ローマ一・一九以下、二・一二以下をどれほど強調するとしても」、彼ら「<間接的な>自然神学」者たちの思惟と語りとは全く違って「パウロは、そのローマへの手紙の使信を、〔「神の啓示〔神の<「特別的な啓示」>・<「特別啓示」>〕とは独立した仕方において、すなわち「<「一般的な啓示」>」において、〕異邦人たちも神について知ることができることから引出してこようなどとは全く考えなかったということを……否定することはできない」し、「パウロは、その使信を、徹頭徹尾、ただまさにこの手紙の最初の数章において、神の啓示〔神の<「特別的な啓示」>・<「特別啓示」>〕と呼ばれていることに基づいて」述べているということを「否定することはできない」。このような訳で、第二の形態の神の言葉である「聖書の使信の<決定的な>線、<主要な>線は、神の啓示〔神の<「特別的な啓示」>・<「特別啓示」>〕の中での神の認識可能性に遡られていて、決して〔人間の自由な内面の無限性、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を持っている〕宇宙の中での人間そのものにとって成り立っている〔神の<「一般的な啓示」>の中での〕神の認識可能性に遡られてはいないということは、ここで改めて論じるまでもないことである」。「とりわけ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕神の啓示〔神の<「特別的な啓示」>・<「特別啓示」>〕についての聖書的な主要な線の上でなされている言明を、自然、歴史、人間の理性の中での神の<一般的な啓示>についての言明へと解釈し曲げてしまうことを伴った一八世紀末の合理主義者たちの聖書説明は、いずれにしても……とっくの昔に取り除かれてしまったのである」。したがって、「思慮深い注釈家たちの間では、……聖書がその中心において、決定的に、神の<「一般的な啓示」>とは<区別された>神の啓示〔神の<「特別的な啓示」>・<「特別啓示」>〕以外のほかの源泉からしては語ろうとしないということ、あるいはまさに宇宙の中での人間がもともと持っている知識そのものとは<区別された>神の啓示〔神の<「特別的な啓示」>・<「特別啓示」>〕について語ろうとしているということについて何ら問題はあり得ない」。このような訳で、「聖書によれば」、「預言者的――使徒的証言の真理を、預言者的――使徒的証言とは独立した仕方で」、それ故に「神の啓示〔神の<「特別的な啓示」>・<「特別啓示」>〕とは独立に」、生来的な自然的な類的機能の能力を備えた人間の自由な自己意識・理性・思惟の故に、「自然的な、歴史的な宇宙の中での人間から、神の啓示〔神の<「特別的な啓示」>・<「特別啓示」>〕とは独立した形で期待されるべき神の啓示の確認が問題であるところの〔それ故に、神の<「一般的な啓示」>に立脚した〕<間接的な>自然神学もない」のである。(文責:豊田忠義)