5.神の隠蔽としての身をかがめるということ

  

 「神の隠蔽」としての「身をかがめること」、「身を屈するとか身分を落として卑下するという形で遂行される身を向けること」、「より高い者が、より低い者に向かって身を向けること」は、「ギリシャ語の恵みの意味の中に、またラテン語の恵みの意味の中に、……ドイツ語の恵みの意味の中に含まれている」。この「身を向けることの中に」、「特に(その中でこの言葉が現れている)旧約聖書的な脈絡がそのことを明らかにしているように」、「神がよき業として人間に対してなし給うすべてのこと、神のまこと、神の忠実さ、神の義、神のあわれみ、神の契約(ダニエル九・四)、あるいはあの使徒の挨拶の言葉によれば、神の平和が含まれている」。「それらすべては、まず第一に、基本的に、神の恵みである」。神の恵み(「神的な賜物……の総内容」――すなわち「啓示者である父に関わる創造、啓示そのものである子に関わる和解、啓示されてあるものである聖霊に関わる救済」(父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)は、「確かにきわめて『超自然的な賜物』でもあるが」、それを「与える方自身が、〔「自己自身である神」としての「三位一体の」〕神ご自身が、〔神の側の真実として〕自分自身を賜物とすることによって、自分自身、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動・活動)における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、神とは全く異なる〕他者との交わりの中に赴き」、それ故に「自分自身を他者に相対して愛する者として示し給う限り」、「ご自身と……被造物の間に直接交わりを造り出し、保ってゆくことである」から、「そのような賜物なのである」。「神が恵みを与え給うことの原型は、神の言葉の受肉〔「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である神性の受肉ではなくて、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉〕、神と人間がイエス・キリストにあって一つであることである」。「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれ人間は「神の不把握性」の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「イエス・キリストの神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。ここで常に先行する神の「恵みの秘義と本質」は、「二つのものが、(徹頭徹尾第一のものの意志と力を通して)直接一つのものとなり、神と人間の間のあの直接的な『平和』、パウロが『恵み』という言葉と関連させて、……その内容的な定義として、……しばしば名指すのを常としている『平和』が樹立されるという」点にある。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「恵み深い神」と、「われわれのための神」としての「恵み深くあり給う」神との間には、「中間的な領域としての恵みについてのグノーシス主義的に受け取られた考え方が介在することは許されない」。「ここでは〔神の側の真実として〕すべてのことは直接性に」、それ故に「われわれのための神」としての「神の存在と行為〔外在的本質、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体〕が、実際に、〔「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその〕神の〔内在的〕本質的ナ独自ノ性質として、換言すれば神ご自身として、すなわち神ご自身であり、自分自身を確証〔自己認識、自己理解、自己規定〕することによって、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方において〕恵み深くあり給う方として、理解されるということによってもってかかっている」。したがって、「旧約聖書と新約聖書の中で、……力を込めて神を指し示しつつ、『わたしの』、『あなたの』、あるいは『彼の』恵みについて語られているのである」。したがってまた、「聖書的な人間は、ただ単に『あなたの恵みにしたがって、わたしをお救いください』(詩篇一〇九・二六)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを覚えてください』(詩篇一〇六・四)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを生かしてください』(詩篇一一九・八八)、『あなたの恵みを聞かせてください』(詩篇一四三・八)等々について語られているだけでなく、ほとんどのところで直接、単純に、『わたしに対し恵み深く<あってください>』と言われている」。「それに対して、わたしの知る限り、わたしに恵みを<与えてください>という言い方はどこにも出てこない」。このような訳で、第二の形態の神の言葉である「使徒たちが〔第三の形態の神の言葉である〕その教会に対して臨んでいるすべてのことは、よく知られている挨拶の言葉でもって総括することができる」――すなわち、「恵みがあなたがたにあるように」。したがって、「神の言葉は、使徒行伝一四・三、二〇・三二によれば、単純に『恵みの言葉』」と呼ぶことができる」。「パウロにおいては、恵み、彼自身の回心、彼の使徒職とその行使、それと共に福音の宣教は、一つのまとまった全体を形作っている」――「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜った神の恵みは無駄にならず、むしろ、わたしは彼らの中の誰よりも多く働いてきた。しかしそれは、私自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである(コリント一五・一〇)。なお、ローマ一・五を参照せよ」、「まさに恵みこそが、包括的に、神が現にあるところの方として、〔「われわれのための神」としてその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において〕われわれに身を向け給う際の向け方を特徴的に言い表している」。

 

 

八木誠一は、『イエス』で、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と述べている。このように、八木は、イエスに本来的な人間存在の在り方を見ている。それに対して、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、「人の子」語句について、次のように述べている――「『人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか(マタイ一六・一三)』と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)は、『あなたは生ける神の子キリストです』と答えた。メシヤの名に対する『人の子』というイエスの自己称号は、覆いをとるのではなくて覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」。「逆に、使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエ・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べているというように理解した方がよい」。「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」〕」は、「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である「神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく」、「神的姿の隠蔽、神的姿の覆い隠しを意味している」。また、「新約聖書的 ――キリスト論的命題」については、「<まことの人間>として神の子あるいは神の言葉が人間ナザレのイエスである〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」である〕」。「<まことの神>として人間ナザレのイエス〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」〕が神の子あるいは神の言葉である」。「このイエス・キリストの<名>で語るべき最初にして最後のこと、イエス・キリストは誰であるかという問いに対する答え」は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「神の<内>三位一体的父の名」・「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動・活動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ところの、「まことの神〔「神の顕現」〕にしてまことの人間〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」〕である」という点にある。「ヨハネ一・一四の『言葉は肉となった』〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である神性の受肉ではなくて、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉としての『言葉は肉となった』〕という新約聖書の中心的命題、そのヨハネの言葉」は、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、その内在的本質に関わる「神的な創造主、和解主、救済主なる言葉、神の永遠のみ子」、その存在の仕方に関わる「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ところの、「まことの神〔神の顕現〕にしてまことの人間である〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」〕イエス・キリストのことである」。

(文責:豊田忠義)