9.福音と律法および神の恵みの選びについて

 

A.福音と律法について

最初に、『キリスト者の自由』で「『自然』神学」の<段階>において、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を、<目的格的>属格(「イエス・キリスト<>信じる信仰」)として理解して、ただ往相的な観点だけにおいて一方通行的に「律法→福音」というベクトルで思惟し語るルター>『福音と律法』で「『<非>自然』な神学」の<段階>において、<主格的>属格(イエス・キリスト<>信ずる信仰)として理解して、往相的な観点と還相的な観点との総体(思想の往還)において「福音⇄律法」というベクトルで思惟し語るバルトとの差異性については8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その2)「<2>.宗教改革者マルチン・ルター」および8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その3)>の「<8>.ラインホルド・ニーバー」を参照されたし

 

そのような訳で、ここでは、次のことを述べておけばよいと考える――第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間も、生来的な自然的なわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神と人間との共働・協働・協力関係を前提させ温存させたところでの、ローマ322ガラテヤ216等のギリシャ語原典イエスキリスト信仰属格に対する、生来的な自然的な人間の直接的な契機も先行させ温存させたところのルターの目的格的属格理解においては、<信仰不信仰>(すなわち、不信仰の側の<外在的な不信仰>および信仰の側にも内在する<内在的な不信仰>)を架橋することはできないのである。第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教およびその一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学における<思想>の問題であるところの、<信仰不信仰>(すなわち、不信仰の側の<外在的な不信仰>および信仰の側にも内在する<内在的な不信仰>)を架橋する問題はローマ322ガラテヤ216等のギリシャ語原典イエスキリスト信仰属格について徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格>(「イエスキリスト信ずる信仰による神の義神の子の義神自身の義」、「律法の成就」・「律法の完成」、「成就と執行永遠的実在としてある成就され完了された個体的自己としての全人間全世界全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、この包括的な救済概念と同一である平和の概念として理解さるべきであるということを、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、明確に提起するところにあるのである、ちょうど徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「永遠の(神との人間の)和解」(神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性であるところの、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(第二の存在の仕方における「言葉の受肉」、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)――このイエスキリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ〕人間にとって神に向かってのしたがって神認識に向かっての人間の用意が存在する〔すなわち、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に向かっての人間の用意が存在する〕」というように。ここにおいては、「ただイエス・キリストの<名>だけ」というその<媒介性>が肝要な点である――まさにそれは聖書のことであるが、第二の形態の神の言葉である使徒>・パウロのわたし神からいただいた恵みによって、〔第二の形態の神の言葉に属する<使徒>として〕熟練した建築家のように土台を据えましたそして〔第三の形態の神の言葉に属する〕他の人がその上に家を建てていますただ、〔「聖書こそが教会に宣教を義務づけている」その教会の宣教は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、その神の啓示、その神への信仰を対象としている限り、〕おのおのどのように建てるかに注意すべきです。〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストというすでに据えられている土台を無視して〔恣意的独断的に「わがまま勝手に」〕、だれもほかの土台を据えることはできません(Ⅰコリント310-11およびエフェソ214-22参照)」。したがって、徹頭徹尾神の側の真実としてのみあるローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の<属格>に対する<主格的属格として理解された(すなわち、「イエス・キリスト<>信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのものとして理解された)信仰は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間も、生来的な自然的なわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神と人間との共働・協働・協力関係を前提条件とさせたところでの、生来的な自然的な<われわれ人間の直接的な契機>には基づいてはおらず、換言すればローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の<属格>を目的格的属格として理解すること(すなわち、「イエス・キリスト<>信ずる信仰」による神の義として理解すること)には基づいておらず、換言すればただ神の恵みの力に基づいて贈り与えられる信仰だけでなくそれだけでなく一方で人間の側の力による信仰自力信仰も前提され温存されたルターにおける新共同訳聖書における)<目的格的属格として理解されたイエスキリスト信じる信仰には基づいておらず、それ故にバルトが論じているように第二の形態の神の言葉である聖書におけるイエスキリスト信じる信仰徹頭徹尾神の側の真実としてのみあるイエスキリストにおける啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)――すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの(すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、客観的な「存在的な<ラチオ性>」と主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて贈り与えられる媒介的なそれであり、<信仰>と<不信仰>(すなわち、不信仰の側の<外在的な不信仰>および信仰の側にも内在する<内在的な不信仰>)が架橋されたところのまさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある信仰である。それは、先行する神の用意――すなわち、ただ主格的属格として理解されたイエスキリスト信ずる信仰だけ根拠づけられ基礎づけられたところのイエスキリスト信じる信仰でありそれ故にそれは、<媒介的な>、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある神の義神の子の義神自身の義」、「律法の成就」・「律法の完成」、「成就と執行、永遠的実在としてある」成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同じである――「平和に関するバルトの書簡」)そのものであるところのイエスキリスト信じる信仰である

 

先ず以て、「ただ単なる知識」ではないところの、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、あくまでもその「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)の中での客観的な「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」に基づいて、換言すれば神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられるものである限り、信仰不信仰>(不信仰の側の<外在的な不信仰>としての<それ>および信仰の側にも内在する<内在的な不信仰>としての<それ>)を架橋させる問題、例えばペテロにもあった内在的な不信仰が露わにされたマタイ1422-31の出来事におけるイエス・キリストの言葉からして、また「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「実在の成就された時間」、「キリスト復活四〇日の福音」、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」以前の使徒たちにもあった内在的な不信仰を指摘されたマルコ1427-31から1466-71の出来事へと続くところでのイエス・キリストの言葉からして、<信仰>と<不信仰>を二元論的に分離し対立させたところで、それ故に信仰の側にも内在する内在的な不信仰を認識し自覚していないところで、まさに「『自然』神学」の<段階>における「非本来的な信仰」において、「不信仰を〔そのような「非本来的な」〕信仰の側に取り込む」ことが問題ではないように、福音律法を架橋させる問題、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、その<人間の内面の普遍性に届く言葉>で語られているヨハネ81-11の出来事における「真に罪なき、従順なお方イエス・キリスト」の言葉からして、また徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」<主格的>属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(すなわち、「イエス・キリスト<>信ずる信仰」)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであり、「律法の成就」・「律法の完成」そのものであるイエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に分離し対立してはいないことからして、ルターの『キリスト者の自由』にあるような、福音と律法を二元論的に分離し対立させたところで、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の「自主性」・「自己主張」・「自己義認」の欲求もという「『自然』神学」の<段階>における「非本来的な」信仰の側が、それ故にその最初から「無神性、不信仰、真実の罪」の中にある「非本来的な」信仰の側が、ただ往相的な観点だけで一方通行的に<律法>から<福音>へと向かわせることが問題ではない。宗教改革の福音主義教会と聖書原理に基づかない限りは、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的なローマ・カトリック教会およびその一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としてのローマ・カトリック神学だけでなく、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的なプロテスタント教会およびその一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としてのプロテスタント神学においても、例えば「『自然』神学」に根拠を与えるところの、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間も、生来的な自然的なわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神と人間との共働・協働、神人協力を目指すところの<目的格的>属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イス・キリスト<>信じる信仰」)という「ルターの翻訳の絶対化>」が起こることによって、「『自然』神学」の陥穽に陥るのであり、「『自然』神学」の<段階>で停滞と循環を繰り返す悪循環が起こるのである。

 

さて、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した信仰の類比を通したところでのわれわれ人間は、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』「第二版序言」)の下において、次のような人間である。

 

「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」(『教会教義学 神の言葉』)人間である。また、「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は自分が――つまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や力〔知力、感性力、悟性力、意志力、禅的な自然を内面の原理とする身体的修行等々〕によっては』――全く信じることができないことを知っておりそれを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じるとかれが言うのは、『主よわたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)ところの人間である。このような訳で、それが人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「われわれすべてに対して信者と不信者に対して身を落とされる方はただその恵みとあわれみの中にあり給う〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕実在の神だけである」、詳しく言えば「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「聖礼典的な実在」としての「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下、神の自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)――このイエスキリストの中にあり給う実在の神だけである。したがって、「信者は、〔あくまでもイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕そのことを知っている〔信仰している〕ということを通して、不信者から区別される」。「まさに……神がわれわれに対して身を落とされたということに基づいて生きられる生活から信仰は成り立っている」――「<このこと信仰であるとするならばしたがって信仰の知識は、<このことを知る知識であるとするならばその時まさに信者こそが不信仰を先ず第一にとりわけ自分自身の中に見出すであろう」、「先ず第一自分自身の中にただ不信仰だけを見出すであろう換言すれば〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕真理に対する敵意と真理を欠いている姿を見出すであろう(『教会教義学 神論』)。

 

そのような訳で、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている起源的な第一の形態の「神の言葉」は、あくまでもイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に基づいてわれわれのところに来る」のである。言い換えれば、その「神の言葉」は、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、「その啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」・「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示<認識>」・「啓示<信仰>」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」として、「われわれのところに来る」のである。「単なる知識」としてではなく、「認識」=「信仰」として「われわれのところに来る」のである。何故ならば、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている言葉を与える主は、同時に、信仰を与える主である」からである。したがって、ここで、時流である近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に「誠実と真実をささげ」、「責任応答をなすべきだ」と考えて、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」の中でのその一面であるところのただ「<死>の出来事」だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化し絶対化する時には、また生来的な自然的な人間のただ<理性的>存在という一面だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化し絶対化する時には、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「聖礼典的な実在」としての「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の自己卑下、神の自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)――このイエス・キリストは、例えばただ単なる生来的な自然的な人間の道徳的な倫理的な行為の範型としてだけに、「人の真実のあり方」・本来的な人間存在の範型としてだけに、人間の社会的な政治的な実践の範型としてだけに、「ゆがめられ、切りちぢめられてしまう」。しかし、イエス・キリストを、そのように余りに人間的な側面だけに、人間論的な側面だけに、人間学的な側面だけに形而上学的に抽象し固定化し全体化し絶対化する「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る彼らは、意識的に意志的にそうしようとしているにも拘らず、世界を<トータルに>把握する認識の方法についての問題、また現実的な社会の中で具体的に生き生活している人間は、ただ理性的に生きているだけではなく、文明が進歩・発達しても進歩・発達しないところの、情念の世界や喜怒哀楽の感情の世界や嫉妬の世界や嫌がらせの世界やいじめの世界も生きているという人間の総体性についての問題、また個―対(対の共同性としての家族)―共同性という人間存在の総体性についての問題、また革命の還相的な「最高綱領」としての個体的自己としての全人間の社会的な現実的な究極的包括的総体的永続的な解放<と>革命の往相的な「最低綱領」としての個体的自己としての全人間の法的政治的な観念的な過渡的部分的相対的緊急的な解放という革命思想の往還についての問題、また二元論的に分離し対立させない言葉と行為(理論と実践)についての問題等――これらの「問題を明確に提起する」ことをしないのである――否、それらの問題を明確に提起することができ得ていないのである。したがって、彼らは、例えば、説教(言葉)だけでなく行為も、社会的な政治的な実践もということで、声高に「平和を求める」・「平和を祈る」と主張するだけで、戦争の元凶である民族国家を死滅(無化)させる問題を明確に提起することをしないのである――否、彼らは、先ず以て、「平和を求める」ためには、経済の世界性<と>自国の利害を第一義的に最優先する一部国家支配上層の意思によって巨大で強力な国軍を動員することができる戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いているこの現存する世界の中で(それにも拘らず、このことも認識し自覚しないままに)、徹頭徹尾第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける究極的包括的総体的永遠的な「救済」に包括された「平和」に基づいて、「平和」の「問題を明確に提起する」ことが肝要であるにも拘らず、全く以て、その問題を明確に提起していないのである。したがって、彼らは、ただ「平和を求める」・「平和を祈る」と叫んでいるだけであるから、外皮的な皮相的な自己満足的な彼らの主張は、大多数の被支配としての<一般>大衆、<一般>市民、<一般>国民を、何ら本来的な解放と喜びと益へと向かわせることはないのである。このような訳で、バルトは、『バルト自伝』で、「は、福音宣教から独立し、それと接触しない、自己決定の権利を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた。現実の人間を考慮しない(神はすべてであって人間は無である!)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては私の頭に存在したものではなくて私の本を読んだ多くの人々の頭のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした〔「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者やそれに類する牧師やキリスト教的著述家の(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、あるいは「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語る」(吉本隆明『カール・マルクス』)〕人々の頭のなかにのみ存在していたのである」と述べているのであるが、そのことは客観的な正当性と妥当性とをもった指摘であって、それ故に逆にバルトの「『<非>自然』な神学」に対して、悪意ある曲解に基づいて、「<誤謬>に普遍性と組織性の後光をかぶせ」、バルトの神学は「現実の人間を考慮しない……抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会」について思惟し語っている神学だと批判した・批判する神学者や牧師やキリスト教的著述家たちこそが、「『自然』神学」そのものとしての「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「形而上学的な神学」に停滞して<学業的な>「単なる知識」の中で遊んでいるだけなのである。そのような神学者や牧師やキリスト教的著述家たちは、例えば科学<主義>は近代における<宗教的>形態の一つであるという規定をなすことができないのである、ちょうどただ歴史的<事実>だけを絶対化する歴史<主義>が絶対主義として<宗教的>形態の一つであるという規定をなすことができないように。また、「『自然神学段階における共同宗教としてのキリスト教の最後的形態はプロイセン国家における観念の共同性を本質とする共同宗教としてのキリスト教とユダヤ教の宗教的対立の問題>(すなわち、天上の問題・宗教の問題)<フランス立憲国家における観念の共同性を本質とする法的政治的な対立の問題>(すなわち、天上の問題・宗教の問題<と>法的な問題・政治的な問題が併存したところの、国法・憲法でキリスト教を国教としたキリスト教国家の問題、それ故に信教の自由を保障するという政教分離の国法・憲法の問題、換言すれば人間の観念的な法的政治的な部分的相対的過渡的解放の問題)を包括し止揚したところの、(白人・アングロサクソン・プロテスタント主義というWASP<と>生活自助の原則を根に持っていた)国法憲法において法的政治的に信教の自由を保証した政教分離の北アメリカ自由主義国家、近代主義国家、政治的近代国家であるそれ故にこの国家の段階において国家の問題は現実的な社会的な現世的問題(観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う、人間の現実的な社会的な究極的総体的永続的解放の問題)となる換言すれば観念の共同性を本質とする政治的近代国家自由主義国家近代主義国家に対する批判の問題となるという規定をなすことができないのである。

 

ルターは、『キリスト者の自由』で、律法と福音とを二元論的に分離し対立させて、まずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」、しかしそれだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」である、「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」、「さらばキリストを信じなさい」、「あなたが信じるならこれを得られるし、信じないなら得られない」というように、「律法→福音」へと往相的に上昇して行く生来的な自然的なわれわれ人間の側からする信仰を主張するのである。しかし、バルトは、そのようなルターの「『自然』神学」の<段階>における思惟と語りとは違って、『福音と律法』で、先ず以て、次のように述べている――第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕彼の死を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうかわれわれのうち誰一人としてそのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会うしかるにこの救いの答えを〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕われわれに代わって答え・〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ〕人間の自主性と無神性を放棄し人間は喪われたものであると告白し己に逆らって神を正しとしかくして神の恩寵を受け入れるということを、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が〔その内在的本質である「神性の受肉」ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な第二の存在の仕方における「言葉の受肉」において〕肉となり給うことによって肉において服従を確証し給うことによってまたこの服従において刑罰を受けかくて〔復活に包括された死において〕死に給うことによって引き受けたということ――これが恩寵本来の業であるこれこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。〔われわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に、信じ給うたのであるローマ三二二ガラテヤ二一六等のイエスキリストの信仰明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕主格的属格〔「イエス・キリスト信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」(このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である)。したがって、このことは、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間からは何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さずとも、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、〕神であることを廃めずに、何ら価値や力や資格もない罪によって暗くなり・破れた姿のわれわれ人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬように、しかも〔「『自然』神学」の<立場>における思惟と語りにおいて〕混淆〔・共働・協働、神人協力〕されぬように統一し給うたということを内容としている」。「自己自身である神」としての「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「神の永遠の御言葉」が、その内在的本質である「神性の受肉」ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な第二の存在の仕方における「言葉の受肉」において「肉となり給う」――このイエス・キリストにおいては、神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的なのであり、敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にあるのである」、「この世と神との和解、人間相互間の和解を直接その内に包含している和解」、「神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において、すでに完成され、死人からの復活においてすでに啓示されている和解」、それ故に「われわれ人間によって、はじめて完成されなければならないような和解ではなく」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」、「神ご自身によって確立された和解そのものであり」、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのものと同一である平和そのものである「イエス・キリストにおいて平和は、神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性である。この贈り物はただ、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、〕われわれがこれを受けとることを待っている」。したがって、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間が、この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨なのである」(寺園喜基『バルト神学の射程』「平和に関するバルトの書簡」)

 

 そのような訳で、われわれは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて贈り与えられるところの、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれ人間は、神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、「われわれのための神」としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「聖礼典的な実在」としての「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下、神の自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)――この「イエスキリスト信ずる信仰」(すなわち、<主格的>属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」)による「神の義、神の子の義、神自身の義」(『ローマ書新解』)そのもの、それ故に「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、それ故に成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(「この包括的な救済概念は平和の概念と同じである」)そのものである「ただイエスキリストのだけに感謝をもって信頼し固執し固着しなければならないのである。「平和に関するバルトの書簡」を書いたバルトは、『福音と律法』で、次のように述べている――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「目的格的属格」(「イエス・キリスト<>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいるしかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではないそのことが現実であるのはただわれわれのために人として生まれわれわれのために死にわれわれのために甦り給う主イエス・キリストが彼にとってもその主でありその避け所でありその城でありその神であるということにおいてのみである」。われわれの「召命」、「和解」、「義認」、「聖化」、「救済」、そして「更新」を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエスキリストにある復活の力だけである」――このことが、「福音と律法の現実性における勝利の福音の内容」である。したがって、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世」「以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。したがってまた、この「イエス・キリスト<を>信じる信仰」、言葉(理論)と行為(実践)を二元論的に分離し対立させて、説教(言葉)だけでなく行動(社会的な政治的なそれ)も必要であると声高に叫ばなくても、それが社会的な問題に対してであれ政治的な問題に対してであれ、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、その中での三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、終末論的限界の下でのその途上性で、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになす、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くところで、「ある状況下において、その状況に抗するそれとして」社会的なあるいは政治的な行動に、「おのずから」、必然的になって行くのである。「『<非>自然』な神学」の<立場>のバルトの場合は、そうようになるのである。

 

バルトは、『バルト自伝』で、次のように述べている――まさにそれは聖書のことであるが、第二の形態の神の言葉である使徒>・パウロのわたし神からいただいた恵みによって、〔第二の形態の神の言葉に属する<使徒>として〕熟練した建築家のように土台を据えましたそして〔第三の形態の神の言葉に属する〕他の人がその上に家を建てていますただ、〔「聖書こそが教会に宣教を義務づけている」その教会の宣教は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、その神の啓示、その神への信仰を対象としている限り、〕おのおのどのように建てるかに注意すべきです。〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストというすでに据えられている土台を無視して〔恣意的独断的に「わがまま勝手に」〕、だれもほかの土台を据えることはできません(Ⅰコリント310-11、およびエフェソ214-22参照)」という信仰の立場において私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じであるということであるいわゆる〔徹頭徹尾第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求めるのではなくて、理的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然としての人間の観念的生産物である人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」を尋ね求める〕『宗教が私の思惟の対象根源規準ではなく、……〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における〕神の言葉こそ私の思惟の対象であるという点では少しも変わってはいない。キリスト教会、その神学、その説教、その伝道を基礎づけ、維持し、支えてきた神の言葉、聖書において……あらゆる時代、あらゆる国、生のあらゆる段階と状況の人間に語りかける……神の言葉、神との関係における人間の秘義……ではなくて、……それこそ〔先行する神の側の真実としてのみある〕人間との関係における神の秘義である神の言葉が常に私の思惟の対象なのである」(『バルト自伝』)。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イエスキリスト信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「成就と執行、永遠的実在としてある」成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な「救済」そのもの、それ故に「平和に関するバルトの書簡」によれば包括的な救済概念と同じである「平和」そのもの、「神ご自身によって確立された和解、神と人間……また人間とその隣人との平和」そのもの)において、>と<不信>(不信仰の側の外在的な不信仰および信仰の側にも内在する内在的な不信仰)を架橋されたところのイエスキリスト自身、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエスキリスト自身――この一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派〔学派、教派、非キリスト教、思想傾向、時流、同時代の人たちの思考の前提」や「そこから形成された理解の規準」、類的機能を持つ生来的自然的な自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」としてのさまざまな主義や主張〕に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」。

 

翻訳者の井上良雄が「あとがき」で、この『福音と律法』は「決して平易とは言い得ない。しかし、この難解さは、ここに論じられている事柄そのものとこれを論じるバルトの洞察の深さから来ている。この難解さに堪えて読まれる人には、それに報いて余りある喜びが分かたれるに違いない」と述べているバルトの福音と律法について――

)「<福音と律法の真理性における福音の内容とは何か

 「<福音と律法の真理性>における福音の内容」は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者・言葉の語り手・創造者としての「イエス・キリストの父」、第二の存在の仕方である啓示・語り手の言葉――すなわち起源的な第一の形態の神の言葉・和解者としての「子としてのイエス・キリスト自身」、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「聖霊」なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)――すなわち、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下、自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)イエス・キリスト自身が、次のような出来事を「唯一回なし遂げ給うた」という点にある――第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕彼の死を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうかわれわれのうち誰一人としてそのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会うしかるにこの救いの答えを〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕われわれに代わって答え・〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ〕人間の自主性と無神性を放棄し人間は喪われたものであると告白し己に逆らって神を正しとしかくして神の恩寵を受け入れるということを、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が〔その内在的本質である「神性の受肉」ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な第二の存在の仕方における「言葉の受肉」において〕肉となり給うことによって肉において服従を確証し給うことによってまたこの服従において刑罰を受けかくて〔復活に包括された死において〕死に給うことによって引き受けたということ――これが恩寵本来の業であるこれこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。〔われわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に、信じ給うたのであるローマ三二二ガラテヤ二一六等のイエスキリストの信仰明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕主格的属格〔「イエス・キリスト信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」(このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である)。

 

「<福音と律法の真理性における福音を内容とする福音の形式としての律法とは何か

 「<福音と律法の真理性>における福音を内容とする福音の形式としての律法」は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(イエス・キリスト信ずる信仰)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、それ故に成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の極的包括的総体的永遠的な救済(包括的な救済概念と同一である平和)そのものであるイエス・キリストに感謝をもって「信頼」せよ・「固執」せよ・「固着」せよという神の「要求と強請であり、恩寵への召喚のことである」、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えのことである、換言すれば「神の恩寵が告知され証しされ宣教される時、私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、「イエス・キリストにのみ固着せよ」というキリストの「福音を内容とする福音の形式としての律法が建てられる」のであるが、その建てられた「律法」のことである。何故ならば、この福音を内容とする福音の形式としての律法がなければ、全世界としての教会自身と世のすべての人々、すなわちわれわれは、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができないからである。「この意味で、律法は、本来的には生命に導くべきもの、神の恩寵を証しするものという事実において、福音を内容とする福音の形式である」。したがって、この神の律法(神の人間に対する要求)は、「福音の中核であるイエス・キリストが、律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実から考えられなければならないから」、キリストの「福音に対する感謝の応答、告白、証し、宣べ伝えにある」のである。言い換えれば、それは、第一に、「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということであり、第二には、「われわれの生命がキリストと共に保管されていることを承認し受け入れる」ということである。したがって、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えは、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、〔第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な〕<教会>が〔全世界としての〕<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」。したがってまた、この「誡命をわれわれ人間に対して置くことによって」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみあるキリストの福音は、「福音と律法の真理性」の「現実化を目指しているのである。そのために、福音を内容とする福音の形式としての律法が、「真実の罪人の手に、にもかかわらず与えられたら、どのような状態になるのか」を明確に提起しなければならない。ここにおいては、バルトは、ルターと同様に、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての「律法」→徹頭徹尾神の側の真実としてのみある純粋な教えとしてのキリストの「福音」、「律法→福音」という順序で語るのである。

 

キリストにあっての神は、「福音と律法の真理性における賜物」、すなわち福音を内容とする福音の形式としての律法を、「罪人の人間の手ににもかかわらず与える」――このにもかかわらずの消極的な意味とは何か

「真実の罪」とは、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間の「自主性」・「恩寵に対するわれわれの拒否と神に対するわれわれの『自己主張』」のことであり、われわれの無神性〔・不信仰〕のことである」。先ず以て、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神が、「福音と律法の真理性における賜物」、すなわち「福音を内容とする福音の形式としての律法」を、こうした罪人であるわれわれ人間の手に「にもかかわらず与える消極的な意味」とは何か? それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間は、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求を持っていることからして、もっと包括的に言えばわれわれ人間は、個体的自己としての全人間の身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己<身体>、性としての他者<身体>、宇宙を含めた天然自然としての外界、さらには人間化された自然としての人間的自然)との相互規定的な対象的活動を行う(マルクス『経済学・哲学草稿』)ことからして、生来的な自然的なわれわれ人間は、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求を手放すことができないのである。したがって、われわれ人間は、「福音を内容とする福音の形式としての律法を聞く時」、「律法を悪用する罪の法則によって、善きものを反対物に変えるという人間的な巨大な欺瞞を惹き起すのである」。われわれ人間は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある義認の唯一の根拠である主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」を、すなわち「イエス・キリストが律法の終わりとなられた方であることを聞かず承認せず」、キリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという人間の側からする神との「混淆」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」を求め続けるのである。この時、われわれ人間は、「神の要求を、人間的な自分自身の要求に、自分で満足させ得る要求に変えて、神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて、人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』をつくり上げるのである」。このような「神に対する熱心さの無知」は、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(無神性、不信仰、真実の罪)に基づいており、「神の要求を、人間によって恣意的に曲解された十誡、預言者の言葉、ソロモンの処世上の知恵、山上の垂訓また使徒の報告に過ぎないものへと変える」のである。この時、われわれ人間のその存在・その思惟・その実践は、「罪に勝利を収めさせる熱心さ、不従順、虚偽となる」のである。何故ならば、その「無数の儀文は、偶像崇拝、神冒涜を生じさせる」からである。そして、「ある者は盲目的に仕事へと没頭し、ある者は人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する。また、ある者はその時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う。ある者は大規模な世界改良の偉大な計画に邁進する」。「ある者は大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進する」。

 

 前段で述べたようなわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(すなわち、無神性、不信仰、真実の罪)に基づく「律法の悪用」という事態の中で、「神の律法」、すなわち純粋な教えとしてのキリストの「福音を内容とする福音の形式としての律法」と共に、「神の福音の内容も破壊される」のである。したがって、この時、「イエス・キリストは、一種神話的な半身(付属物)、理念の人格化、偉大な貸方となる」。したがってまた、このような「偽りの姿における律法」は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであり、「律法の成就」・「律法の完成」そのものである「イエス・キリストを律法の目標としない」のであるから、その「律法の目標」は、「人間的な自然法や抽象的理性や民族法等という形に転倒されてしまう」のである。徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同一である)そのものであるイエス・キリスト自身が福音の内容そのものであるが、そしてその「福音の内容と共に、それが人間の手に渡される時には律法という形式を取る」のであるが、その時には、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法を守らないのであるから、福音の内容である「神の義」も得ることはできないということになるのである。ここに、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間の「真実の罪」とその「人間の状態」があるのである。したがって、この時、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間の状態は、徹頭徹尾「喪われた者であり、死と地獄に渡された者であり、何の助言も、何の慰めも、何の助けも存在しない」というそれである。このことが、「にもかかわらずから生ずる消極的な意味である」。

 

キリストにあっての神は、「福音と律法の真理性における賜物」、すなわち福音を内容とする福音の形式としての律法を、「罪人の人間の手ににもかかわらず与える」――このにもかかわらずの積極的な意味とは何か

 (ウ)の事柄からして、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神が、「福音と律法の真理性における賜物」、すなわち「福音を内容とする福音の形式としての律法」を、「真実の罪人」であるわれわれ人間の手に「にもかかわらず与える積極的な意味」は、「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたがゆえに、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」という点にあるのである。また、それは、「罪が死によって支配するに至ったように、恵もまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」という点にあるのである。すなわち、その「積極的な意味」は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」、主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同一である)に基づいたところにある。すなわち、その「積極的な意味」は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、われわれ人間のために・われわれ人間に代って、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法に対するわれわれ人間の「自主性」・「自己主張」・「自己義認」の欲求の試みを「無神性」・「不信仰」・「真実の罪」に対する「救いの答え」である「刑罰としての死」を、その第二の存在の仕方である「言葉の受肉」としてのイエス・キリストが「全く端的に、信じ給い」・「死に給うことによって引き受け」・そして「復活し給う」ことによって、「真実の罪」(われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求という「無神性」・「不信仰」)を包括し止揚し克服したということ、「福音が勝利した」ということ(「勝利の福音」)を意味している。ここに、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「福音」は、「初めて本当に、完全に福音本来の姿として、<完全な勝利の福音として真実の罪人に対する喜びの音信として」、<客観的に現実化した>のである。したがって、「われわれ人間の更新を可能とするのは今日に至るまで罪人の手に渡され十字架につけられ死んで甦られ給うたイエスキリストにある復活の力だけである」。われわれ個体的自己としての全人間・全世界・全人類の「真実の罪のために、イエス・キリストは人と成り、死んで甦り給うた」のである。したがって、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「福音の勝利恩寵の勝利第一に、「われわれ人間の真実の罪に対する神の勝利のこと」であり、第二に律法を悪用する罪に対する神の勝利のこと」であり、第三に、「不信仰の罪に対する神の勝利のこと」である。したがって、われわれは、そのことを、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事において自己認識させられ自己理解させられ自己規定させられるし、その信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した信仰の類比を通して、「赦罪」、「和解」、「救済」、「平和」、「更新」について、「われわれ人間から生ずる現実は何もない」ということを自己認識させられ自己理解させられ自己規定させられるのである。

 

われわれ人間の真実の罪に対する神の勝利>」、われわれ人間の律法を悪用する罪に対する神の勝利>」、われわれ人間の不信仰の罪に対する神の勝利>」について

それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間の「真実の罪に対する神の勝利とは、「福音と律法の現実性における本来的な勝利の福音の内容のこと」であって、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同一である)そのものであるイエスキリスト自身に対する真実の罪の故に、「地獄に追いやられたままの存在を律法によって殺しつつしかも福音によって生かし給う勝利の福音のこと」である。ここにおいては、「律法→福音」という順序は正当なものとなる。したがって、イエス・キリスト自身が「心においても業においても、罪人である」われわれ人間に対して、それにもかかわらず、「彼に対する信仰の生命へと、呼び覚まし給うのはイエス・キリスト自身である」ということを、「われわれは強調しなければならない」のである、ちょうど先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性であるところの、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者・言葉の語り手・創造者としての「イエス・キリストの父」、第二の存在の仕方である啓示・語り手の言葉・和解者としての「子としてのイエス・キリスト自身」、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「聖霊」なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)――すなわち、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下、自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)――このイエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在する」ということを強調しなければならないように、もっと包括的に言えば先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」という「人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」(『教会教義学 神論』)ということを強調しなければならないように。何故ならば、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は、「そのために必要なものを、自分の内には所有しないということが、確実である」からである。「律法―福音、罪―義という順序が、死―生命という順序と一致しているということ」は、内在的にも歴史的にも、高次の段階へと弁証法的に発展して、最終的には自己還帰するヘーゲルの絶対精神とは全く異なるものである(ヘーゲルにおいて疎外とは、高次の段階への疎外の止揚である)。すなわち、そのことは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事において、「イエス・キリストがわれわれに対してなし給うたことの約束として、信じられることが出来るだけである」。したがって、われわれは、その「信仰を授与されているという事実性において、事実的に信ずることができるだけである」。この「勝利の福音、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事において、「すべて信ずる者に救いを得させる神の力である」。

 

それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間の「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、まさに「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのものであるイエス・キリスト自身が、われわれを「罪と死との法則である律法から解放された出来事のことである」。何故ならば、われわれ人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされているが故に、律法は人間をその不従順・不信仰によって罪に定めることは出来ない」からである。このように、「神の律法が人間を真に罪に定めないのであるから、律法はもはや絶対に『罪と死との法則』ではない」のである。したがって、「ルターに強烈に存在したところの、人間が律法に対して全体的に不従順であるという事実における人間に生ずる生の不安」は、イエス・キリストにおける復活の出来事に包括された死の出来事において「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」。「救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである」、われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」、「この信仰の確実性は、希望の確実性である」、「新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る」、「ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての〔換言すれば、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての〕<いまだ>であり、〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」。徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同一である)そのものであるイエスキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法第一に、われわれ人間に対して、「罪と死の法則の律法」――すなわち、「汝斯く斯くなるべしという要求から」、「生命の御霊の法則の律法」――すなわち、「汝斯く斯くならんという約束へと回復せしめられる」ところのそれである、第二に、「遂行せよと求める要求から」、「信頼せよと求める要求へと回復せしめられる」ところのそれである。このような訳でわれわれ個体的自己としての全人間全世界全人類は、「『生命の御霊の法則である律法によってイエスキリストにあって解放されたのであるからわれわれが己の解放を与えられるためには彼に固着し得るだけである」。

 

それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間の「不信仰の罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるために、われわれ人間に力と愛と慎との霊を与え給う出来事である」。「力の霊」とは、「イエス・キリストにのみ固着させる霊である」。「愛の霊」とは、「イエス・キリストの御意に従わしめる霊」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同一である)そのものである「イエス・キリストに対する愛の霊のことである」。「慎みの霊」とは、「われわれ人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、われわれ人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である」。

 

これらの「神の勝利」を、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて贈り与えられた人は、「おのずから」、必然的に、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、その<総体的構造>の中での三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書(すなわち、イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)を、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての隣人愛(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くに違いないのである。

 

B.神の恵みの選びについて(『カール・バルト著作集3』)

予定説」は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、「イエスキリストにある救いの自由な表現そのものである」。それは、「真に罪なき、従順なお方イエス・キリスト自らが、われわれ人間に代わって、見捨てられた人間となり、その罰を引き受け給うたということである」。徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」(イエス・キリスト信ずる信仰」)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同一である)そのもの――「これが、神の最高の義である」。信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間の<自力>によってではなくて、生来的な自然的なわれわれ人間の意識的な意志的な<先行的>働きかけや業によってではなく、あくまでもイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられるものである――「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」。そして、そのようにして贈り与えられた信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した信仰の類比を通して、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということを、われわれは自己認識させられ自己理解させられ自己規定させられるのである。また、われわれは、そのようにして贈り与えられた信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した信仰の類比を通して、「神の選び>をイエスキリストの復活において認識〔・信仰〕し神の放棄>をイエスキリストの十字架〔の死〕において認識〔・信仰〕することができる」。また、そのようにして贈り与えられた信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事において、「われわれが本当に神の啓示を認識する時、われわれは初めて神に対する人間的反抗神の敵神に相対して自分の力を誇りまさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間としての自分自身をまたそのようなわれわれ人間の世を認識する」ことができる。

 

 「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者・言葉の語り手・創造者としての「イエス・キリストの父」、第二の存在の仕方である啓示・語り手の言葉――すなわち起源的な第一の形態の神の言葉・和解者としての「子としてのイエス・キリスト自身」、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「聖霊」なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)――すなわち、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下、自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)――この復活に包括された十字架のイエスキリストこそが神に選ばれたお方である。それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な「われわれ人間は、そのままでは恵みを受け取る状態にはないし、また自分でそのような状態にすることもできない〔意識的に意志的に自分の自力でそのような状態にすることもできない〕。したがって、もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みである」。したがってまた、私たちの召命義認聖化、生来的な自然的なわれわれ自身の業によって、生来的な自然的なわれわれ自身の何か直接的な人間的契機によって、われわれ人間の側から先行してなされる働きかけや業によって、「私たち自身の中に生起するのではなく」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「イエスキリストの御業として私たちのために私たち自身の中に生起する。そして、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示<と>信仰の出来事」に基づいて、詳しく言えば客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて、そのように「恵みの選びを認識〔・信仰〕する時、われわれに要求する洞察は『イエス・キリストを信ずる信仰の二重の洞察』、すなわちパウロの神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのであるという二重の洞察」は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同一である)そのものである「イエス・キリスト<を>信ずる信仰において明らかになる」。何故ならば、神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであり、「律法の成就」・「律法の完成」そのものであるイエス・キリストを「律法〔すなわち、神の命令・要求・要請〕の目標」とすべきであるから、そこでの律法は、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式――すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)に連帯し連続し、その秩序性におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、終末論的限界の下でのその途上で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(換言すれば、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(換言すれば、区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活けるヒトツノ聖ナル公同ノ教会共同性を目指しして行くこととしてあるのであるがそれが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間は、そのことに対して不従順であるからである。

 

そのような訳で、生来的な自然的なわれわれ人間は、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「福音と律法の現実性における本来的な勝利の福音の内容である真実の罪に対する神の勝利」、「律法を悪用する罪に対する神の勝利」、「不信仰の罪に対する神の勝利を必要とするのである。したがって、パウロの語る「すべての人」においては、「放棄される危険の全くない選ばれた者とか、選ばれる約束も一切ないほど放棄された者が存在するという考えは、はっきりと排除されている」。したがってまた、その言葉は、「イエスキリストにあるときにおける威嚇である」。しかし一方で、『福音と律法』の論稿において明らかなように、「それよりもはるかに確実にわれわれはイエスキリストにおいて与えられた約束によってこの威嚇から解放されている」。何故ならば、そこにおいては、「すべての人を救うために罪なきただ一人の選ばれたイエスキリストこの怒りを正しい怒りとして引き受けて下さったが故にわれわれはイエスキリストにあって死なないで生きるであろう」という徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「約束が与えられているからである。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、「すべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めた」ということについては、キリストにあっての神としての「神の自由な恵みの選びにおいてということであるから、罪の増し加わったところには、恵もますます満ちあふれた」というところのそれである。したがって、われわれが、われわれの主・頭として「イエス・キリスト<を>信じる」時、その信仰としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された恵みの出来事は、あくまでも神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(「賜物」)に基づいているのである。このような訳で、バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――「われわれは、心を頑固にし福音を認めない人間〔不信仰〕や異教徒〔他宗教〕に対して、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」、「すなわち、われわれがそうした人々に呼びかけることができるのは、私がその人をその中に置くことによってではなく、イエス・キリストが、すでにその人をその中に置いてい給うことによってである」、それ故に「われわれは、キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員であるわれわれは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続し、その秩序性における聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行かなければならないのである(Ⅰコリント310-11、エフェソ214-22)。また、バルトは、次のようにも述べている――マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」、「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」、「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」である、「そこには、ただ神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」。

 

 因みに、バルトは、『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/ 1』で、次のように述べている――「われわれは、啓示の主体的現実を〔すなわち、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を〕を、人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって〔イエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」としてとらえることによって〕、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解しなければならない」、「その上で、われわれは、「(聖霊と密接に関連して)記されている、真理の柱、真理の基礎とは、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕神の教団、表向きだけではない〔イエス・キリストをのみ主・頭とする〕イエス・キリストの教団使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同ノ教会〔教会共同性〕のことであって、そのイエス・キリストと個人的関係を持つその肢々としての一人一人のキリスト者、キリスト者個人のことではない」。<共同性>に価値を置くヘーゲルが、「神自身にとって最高に必要であり必然的であるのは教団であって、教団の精神であることによって初めて神は精神となり神となることができる」と述べていることに対して、バルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題ではあるが、イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べている。このことは、バルトが、確かに、個と教団(共同性)との関係において、神学的な共同性価値論に立っていることを意味している。このこともその真偽のほどは定かではないが、エーバーハルト・ブッシュは、『カール・バルトの生涯』において、バルトが、「私自身は、ヘーゲルが好きだという弱みを持っていますし、そしていつでもヘーゲル的に考えるのが好きです」と述べていたと記述していることに関して言えば、先ず以て「人間中心主義」の近代主義的な思惟と語りにおけるヘーゲルはまさに近代主義的な人間学的領域においてそのように思惟し語っているのであるが、それに対して、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての<教会>教義学(神学)に携わるバルトは、あくまでも第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に基づいて思惟し語っているのである。したがって、ヘーゲルの<立場>とバルトの<立場>は、全く次元が、全く位相が違うのである――この認識と自覚は重要である。もっと言えば、ヘーゲルがまさに「『自然』神学」の<段階>で思惟し語っているのに対して、バルトはその<段階>を自分の<立場>で包括し止揚したところの「『<非>自然』な神学」の<段階>において思惟し語っているのである。したがって、バルトの神学における<思想>としての<神学的な共同性価値論>の位相は、次の点にある――「神はご自身との共同性の中に生きてい給う〔換言すれば、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」を内在的本質とする「三位一体の神」の根源(・起源)としての「父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」、それ故に「その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊は、父と子が根源である」、「この神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」、またその内在的本質からして、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」という共同性の中に生きてい給う〕。そして神は人間との共同性の中に生きてい給う。そして人間は他人との共同性の中で生きている。共同性ということが、人間が神に似ていることの根拠だ。……〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会なきところではイエスはキリストであり給わない。教会は永遠よりえらばれたものだ。そして、キリストは、その頭としてありつづけ給う。……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたものだ」(『バルトとの対話』)。イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉、キリスト教使信の中心」は、教会共同性、教団共同性のような「狭い共同体からその事実をまだ知らぬすべての他の人々、広い共同体に向かっての運動において、〔個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して〕完全に開かれている」のである。

(文責:豊田忠義)