8.「『自然神学に対するカール・バルトの「『<自然な神学についてその3

 

 先ず以て、8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」についてその2)>の続編であるこの8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」についてその3)>は、<「『自然』神学」の段階で思惟し語る神学の諸形態について>――<3>.アウレリウス・アウグスティヌス、<4>.近代主義的(自由主義的)プロテスタント主義的神学者フリードリヒ・シュライエルマッハー、<5>.ルドルフ・ブルトマン、<6>.ユンゲル・モルトマン、エーバーハルト・ユンゲル、パンネンベルク、<7>.エミール・ブルンナー、<8>.ラインホルド・ニーバー、<9>.ルドルフ・ボーレン、ベルトールト・クラッパート、エーバーハルト・ブッシュ、<10>.滝沢克己、八木誠一、北森嘉蔵、<11>.1928年エルサレム会議、によって構成されている。

 

アウレリウス・アウグスティヌス

 アウグスティヌスは、「『神の国』では、神は時間ノ創造者マタ決定者と呼んでいる。しかし、『告白』では、過去、現在、未来は精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と述べている。もっと詳しく言えば、生来的な自然的な人間の個の現存性、その人間の個の時間性、その自己史、その個体史としての「過去、現在、未来は、精神の中にある」というそのアウグスティヌスの時間聖書においては、「まことの過去」(「旧約」――「神の裁きの啓示」・「律法」)<と>まことの未来」(「復活されたキリスト」の<再臨>、終末、「完成」としてのまことの未来)を包括したまことの現在(すなわち、「キリスト復活の四〇日使徒行伝一)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「イエスキリストにおける実在の成就された時間」、「新約」――「神の恵みの啓示」・「福音」。したがって、「キリスト復活」から「復活されたキリスト」の<再臨>、終末、「完成」までの「聖霊の時代」においては、「新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語るのである」、ここで「終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての<いまだ>であり〔すなわち、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり〕」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」。このような訳で、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であり、「聖礼典的な実在」としての「最初の起源的な支配的な<しるし>」である「イエスキリストがわれわれ人間に対して」、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉であり、「聖礼典的な実在」としてのその最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」である「聖書および」その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で宣教する第三の形態の神の言葉であり、「聖礼典的な実在」としての教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「啓示の<しるし>」の<しるし>である「教会の宣教を通して同時的となる時と所、『神われらと共にが神ご自身によってわれわれに語られるところにおいては」、すなわちイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」(「キリストの霊である」)「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて語られるところにおいては、われわれは神の支配のもとに入る、それ故にその時には、「世、歴史、社会」は、「その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会である」し、それ故にまたその時には、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定〔すなわち、裁き〕、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」し、それ故にまたその時には、われわれ人間の個と現存性(人間の個の時間性としての個体史、自己史)――われわれ人間の類と歴史性(人間の類の時間性としての人類史、世界史、歴史)のその生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」(『教会教義学 神の言葉』)し、また「『自然』神学」の段階で停滞して思惟し語る教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学の思惟と語りにおける「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした十字架象徴論へと、イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」(『ヨブ』)ことが見渡せるところの、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」――このイエス・キリストにおける神の自己啓示の時間であるところのまことの現在、『時間の主の時間』、『本来的な実在としてのイエスキリストの新しい時間〔、世〕』から、『失われた時間』・『否定された時間』・『否定的判決の時間として、『われわれ人間の失われた非本来的な古い時間〔、世〕』として攻撃』された時間である(『教会教義学 神の言葉』)アウグスティヌスは時間から」、本来的な実在としてのイエスキリストの新しい時間という対象性をはぎとってしまったのである。すなわち、アウグスティヌスは、時間を、個体的自己としての「人間の現実存在の存在様式としたのである」、換言すれば「自分で時間を創造することによって時間を持とうとした」のである。したがって、アウグスティヌスの『告白』における思惟と語りは、まさに「『自然』神学」の段階で停滞した思惟と語りなのである。また、ハイデッガーは、時間を、「自分自身を実現して行く」「被造物的――人間的現実存在の規定、被造物である人間存在の自己規定として理解する」ところの人間の個の現存性(人間の個の時間性、<投企性>・<企投性>)としての時間だけではなく、その後期の「転回」後の思惟と語りにおいて、人間の類の時間性(自分の意志とは全く無関係に、不可避的に、投げ出されたその歴史的現存性、<被投性>)の観点を導入したのであるが(因みに、前期ハイデッガーの哲学原理を称賛し、それに基づく「先行的理解と解釈学的原理」による聖書解釈を主張したルドルフ・ブルトマンは、必然的に、この後期ハイデッガーの「転回」後の観点を欠落させたのである)、アウグスティヌスと同じように、「時間から、〔「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」という〕対象性をはぎとってしまった」のである(『教会教義学 神の言葉』、『ルドルフ・ブルトマン』)。

 

 さて、確かに、身体論(身心相関論)からして、「わたしの身体」――すなわち、「知覚作用の座である」「その身体は、眼あるいは人間の歴史の<つみ重ね>」、知識や自己体験によって、「外部から客観的に観察することができる」し、また「自分が自分の身体をどう思っているかという意味で、内からも直接観察することができる、という二重の特異性を持つ自然物である〔自然の一部としての自己<身体>である〕」。それは、「もう一つの他の自然物に対して〔自然の一部としての性としての他者<身体>に対して〕、自分を区別することを知っている、関係づけられる自然物である〔自然の一部としての自己<身体>である〕」。「メルロウ=ポンティでは、対象的に関係づけられて存在するのが個体である」が、「それは個体性の哲学にとって本質的な誤謬であって、個体は個体として自己に関係づけられるから、はじめて対象的に関係づけられるという点に、個体性の哲学の本質がある」。何故ならば、例えば、それが自己対象であれ、自然対象であれ、対象を、「個体の知覚作用」に基づいて、「自体的な識知」(「生理過程の<変容>」、「空間化」)とその生理過程の外部に出て「その対象物を全体的に構成し了解する対象的識知」によって、「ここにほくろがある」とか「お腹が張っている」、「この対象は茶碗だ」とか「この対象は森だ」と「了解」(「時間化」)されるのであるが、「それに伴う歓びや悲しみや選択をともなう<感情>作用」は、その内在化された対象の空間化、すなわち「<内観>的作用に属している」。したがって、「<感情>作用は<知覚>そのものに伴うとしても<知覚>とはかかわりないものである」からである。すなわち、対象了解された対象(内在化された対象)を抽象(時間化)する時には概念構成(了解の抽象化度、時間化度)の問題として現われるのであるが、<感情>作用は対象了解された対象を再び空間化する過程において現われる。ところで、「個体」とは、その内部構造、意識構造、「存在の根本的な構造における人間存在の一様式のことである〔すなわち、個、対、共同性という人間存在の総体性における一つの様式のことである〕」。その「個体の内部構造、意識構造」は、「自己関係づけと自己抽象づけとの構造としてある」。「自己関係づけ」とは、「自己の身体がここ〔空間〕にあるという意識、自己を自己として関係づける意識である」。すなわち、それは、自己の自然的な生理的身体を内在的に関係づける意識、「空間的な自己意識である」。また、「自己抽象づけ」とは、「自分の身体が現〔時間〕にあるという意識であり、自己を自己として抽象する意識である」。すなわち、それは、自己の自然的な生理的身体を内在的に抽象化する意識、「時間的な自己意識である」。したがって、「対象的に関係づけられて存在するのが個体とする現象学や実存主義は本質直観における知覚や感覚に依拠した自己了解や自然了解を、すなわち自己対象了解……自然対象了解……を人間の存在本質の根本におくわけですけれども、わたくしどものかんがえではそうではないと吉本は根本的包括的に原理的に批判するのである。すなわち、その「自己関係づけと自己抽象づけの構造」において、個体は個体として自己に関係づけられるから、「対象〔自然の一部である自己<身体>、性としての他者<身体>、宇宙を含めて天然自然としての外界、さらには人間化された自然としての人間的自然〕を対象的に関係づけることができるのである」。ところで、「自己抽象づけの度合」は、「了解性によって測られ、了解性は時間性によって測られる」。したがって、「認識の了解性の度合、抽象の度合の差異は、時間化度の差異による」。また、「知覚の拡がりや延長という自己関係づけの度合」は、「空間化度によって測られる」。そしてまた、「了解性が時間性である根拠」は、次の点にある――「人間はさまざまな体験や感覚のみがき方をし、そうした時間累積によって現代的な感覚や現代的な知覚作用をもつにいたった」。すなわち、それは、「原始・未開から現代までの時間の累積〔歴史性〕にある」。したがって、「古代人と現代人において、感官に映る対象は同じであっても認識の度合に差異が生じるのは、時間化の度合、時間累積の度合の差異、すなわち了解性の度合の差異による」。「古代人が山の頂の巨大な岩石を霊的な信仰の対象として認識し、現代人はその岩石を単なる自然物であると認識する場合のその差異性の根拠は、古代から現代までの時間累積(歴史性)の度合、了解化の度合、時間化の度合の差異にある」。このように、人間の意識に対象としてやってくるすべてのものは根源的には空間および時間に分割されるほかはない」このような訳で、言葉の表現もまた、表現に固有な<時間>性と<空間>性を獲て成り立っている。自己関係づけを個体の内部構造、意識構造においてではなく、個体と対象との関係で言えば、「自己関係づけ」とは、「心的規範意識であり」、それは、「対象にたいする関係づけの意識」、「対象の受け入れの意識」、「対象の空間化の意識である」。言い換えれば、「心的規範」とは、自己関係づけの意識の空間化とその度合のことである。また、自己抽象づけを個体の内部構造、意識構造においてではなく、個体と対象との関係で言えば、「自己抽象づけ」とは、「心的概念を構成する意識」、「了解作用の意識」、「時間化の意識である」。言い換えれば、「心的概念」とは、自己抽象づけの意識の了解作用、時間化とその度合のことである。そして、「その個体と対象とのあいだを介在するのは言語である」。その「言語というものを基本的に成りたたせているのは、心的な規範および概念である」。個体の内部構造、意識構造における心的規範は、外化(表現)されて「心的規範」、「言語における文法構造」、「言語的規範、文法的規範、音韻の規範、韻律の規範等の外在的な共同的規範となる」。また、「心的概念」は、外化(表現)されて言語表現の水準を決定する「心的概念」、「言語における実体となる」。このような総体的構造において、言語は、人間の個とその現存性――人間の類とその歴史性の交点で、世界を分節化する。そして、その言語によって分節化された世界は、客観的な世界そのものではなく、言語によって抽象された世界、人間化された世界、ある抽象度やある意味づけやある物語性を付与された世界である(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」、『詩的乾坤』「行動の内部構造」、『詩的乾坤』「メルロオ=ポンティの哲学について」、『吉本隆明全著作集14』「自立思想の形成について」・「人間にとって思想とはなにか」・「個体・家族・共同性としての人間」・「幻想としての人間」、『知の岸辺へ』「言葉の根源について」)。これらの事柄は、アウグスティヌスに対する批判がなされた前段のバルトの『教会教義学 神の言葉』において述べられていたように、イエス・キリストにおける啓示の場所においてだけ、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の堅持の下で、あくまでも人間学の対象としての人間的領域における一般的真理、世俗的真理として正直に受け取ることができるものである、ちょうどそこにおいては、それが<良きもの>であれ<悪しきもの>であれ、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果である例えば万物に質量(重さ)を与える根元であるヒッグス粒子の発見とその概念も、またiPS細胞に関する科学や技術の進歩・発達およびその知識の増大も、経済社会構成の拡大・高度化も、生活の利便性の向上等々も正直に受け取ることができるように。人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかないものである」。したがって、「歴史的現存性」とは、それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ、「人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のことである」。したがって、「個体としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないのである」。したがってまた、「個人としての人間の意志、判断力、構想が通用するのはただ半分だけであって、いったんそうした現実に衝突してからは人は、何々させられる、何々せざるをえない、何々するほかないというように生きる以外にはない」のであるから、そのただ中で、個体的自己としての人間は、その個の現存性(個の時間性としての自己史、個体史)を刻んでいく。したがってまた、「人間の歴史は〔個体的自己の成果の世代的総和の「継起」としての歴史、人間の類の時間性、世界史、人類史は〕、すべての<個人としての人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではないのである」(『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」)。

 

さて、アウグスティヌスはまた、「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在に依拠して造ラレタモノヲトオシテ〔すなわち、「『自然』神学」の<段階>における「存在の類比」の<立場>に依拠して〕、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」と述べている。この「『自然』神学」の<段階>における思惟と語りに対して、バルトは、「『<非>自然』な神学」の<立場>から、根本的包括的な原理的な批判を加えている――すなわち、「そのような三位一体の跡は、世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」、「それは、ただ単なる〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使して〕内在的に理解された宇宙の諸規定、人間的な現実存在の諸規定、単なる宇宙論や人間論でしかないものである」、また「そのような三位一体論は、人間自身に基づく人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解、神話である」。「『自然』神学」の<段階>における思惟と語りがどうしてそのようなものとなるかと言えば、それは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しない」からである、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に信頼しないからである。「神学をただ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別〕啓示の中にのみ基礎づけるために、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書に依拠した〔第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての〕神学は、罪深い曲がった人間の究極的な限界性を自覚した人間の言語を前提として、三位一体を〔現存する一般的な〕世界から説明しようと欲しないで、むしろ逆に、世界を〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕三位一体から説明せんと欲する」、と。また、アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡である想起(記憶)、知解、愛としての人間の中での神の像を、最も身近な最も高貴な認識根拠とした」。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的、教会的、教義的前提であった」。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、しかし、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、徹頭徹尾「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「聖礼典的な実在」としての「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とするその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「聖礼典的な実在」としてのその最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書を、すなわちイエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備れた預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、「聖書に教えられつつ語るのであって〔すなわち、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で語るのであって〕、〔生来的な自然的な〕われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろうとはしなかった」。すなわち、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定したのである」。したがって、客観的な「存在的な<ラチオ性>」との関係性の下にある主観的な「認識的な<ラチオ性>」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性)は、「啓示、恵み、信仰を前提条件としていた」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」――すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件としていた(『教会教義学 神の言葉』、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。「『自然』神学」の<段階>における類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体された人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」における「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もって〔生来的な自然的な〕われわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で〔すなわち、もっと言えば、「ヘーゲルにおける神の彼岸性を克服した」、換言すれば「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し堅持しないところの、「神の内なる〔生来的な自然的な〕人間、〔生来的な自然的な〕人間の内なる神という神人一体の理念における「われわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識」という点で〕、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)。そのような「『自然神学段階における神の認識可能性は、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し堅持しないところの、〕まさに〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕この神とわれわれ人間を〔区別しないで〕包括する存在者の類比〔「存在の類比」〕から成り立っている」。しかし、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある先行する神の用意、包括的に言えば神とは異なる「実在全体」――すなわち宇宙を含めた天然自然としての外界、自然の一部としての人間の自己<身体>、性としての他者<身体>、個体的自己としての全人間の<身体>(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己<身体>、性としての他者<身体>、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動によって生み出されるところの人間化された自然としての人間的自然である人間の物質的および観念的な諸生産物(マルクス『経済学・哲学草稿』)としての「存在者」では決してなくて(それ故に、「神の認識可能性」は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神と〔生来的な自然的な〕われわれ人間を〔区別しないで〕包括する存在者の類比〔「存在の類比」〕から成り立つことはできない」)、「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉としての<「存在者」>〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「聖礼典的な実在」としての「最初の起源的な支配的な<しるし>」、すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としてのただイエスキリストのだけである徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれ人間は、ここにおいては、神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(その第二の存在の仕方における言葉の「受肉」、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)――このイエスキリストにおいて、「神の用意の中に含まれて人間にとって神に向かってのしたがって神認識に向かっての人間の用意が存在する〔すなわち、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に向かっての人間の用意が存在する〕」。

 

近代主義的(自由主義的)プロテスタント主義的神学者フリードリヒ・シュライエルマッハー

「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」近代主義的な、自由主義的な、プロテスタント主義的神学(近代主義的プロテスタント主義的神学)としてのシュライエルマッハーの神学はどのようなものであるのか? それは、客観的な正当性と妥当性とをもって、まさに次のようなものとして要約することができる――人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」、それ故に「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。〔何故ならば、〕理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」からである、それ故にその時「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」。まさに近代主義的自由主義的プロテスタント主義的神学者のシュライエルマッハーは、そこで思惟し語ったのである。したがって、シュライエルマッハーの神学における「(中略)神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した〔すなわち、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としてのその人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」から発生した〕……〔それ故に、その「存在者」レベルでのその神、その神の啓示、その神への信仰は、シュライエルマッハー自身の生来的な自然的な類的機能を持つ自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された彼の観念的生産物としての彼自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」である〕。(中略)こうして、この対象に即してもまた〔近代主義的自由主義的プロテスタント主義的なシュライエルマッハーの〕『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」ものである(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。詳しく言えば、シュライエルマッハーは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「啓示の<しるし>」)である「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)において存在している聖書(イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)――この「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、その<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す(Ⅰコリント3・10-11ことをしない、生来的な自然的な人間の自由な内面の無限性依拠する>、生来的な自然的な類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟依拠する<人間中心主義>における近代主義的自由主義的プロテスタント主義的神学者である。したがって、そのようなシュライエルマッハーの「神学における近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間が自分を相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く」が故に、「信仰も人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される」し、第三の形態の神の言葉に属する「教会もただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体であり、〔生来的な自然的な〕敬虔性〔「絶対依存感情」〕と関連した共同体』」として理解されるところの、まさに「『自然』神学」の<段階>において<人間学的な>神学を目指すのである(『教会教義学 神の言葉』)。このような訳で、近代主義的自由主義的プロテスタント主義的神学者は、まさに「人間は思惟する、すなわち……人間は自分自身と話をする。……人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる人間を第一義・価値・<主>としている神学者である。近代主義的自由主義的プロテスタント主義的神学者は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」――Ⅰコリント310-11)の関係と構造(秩序性)を認識し自覚し堅持しないところの、まさに神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間もというように「二人の<主>を持つ」というよりも、むしろ<人間中心主義>において人間を<主>とするところの「『自然』神学」の<段階>で停滞と循環を繰り返す神学者である。

 

ルドルフブルトマン

ブルトマンは、その前期と後期において思惟し語ったハイデッガー自身から、ブルトマン神学の方法における、彼の類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された彼の観念的生産物としての彼自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「……『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神を見失うことである』……」から、「それよりは、『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判され「揶揄」されてしまったのである(木田元『ハイデッガーの思想』)。このハイデッガー自身から批判され「揶揄」されたブルトマンは、その「人間学の後追い知識」としての神学において、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵を前期ハイデッガーの哲学原理に見出した」のである。バルトは、「『<非>自然』な神学」の<段階>における思惟と語りにおいて、「『自然』神学」の<段階>で思惟し語るブルトマンを、客観的な正当性と妥当性とをもって、根本的包括的に原理的に、次のように批判している――「(中略)〔第二の形態の神の言葉である〕この新約聖書の使信がまさに〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストについての使信として神と人間との間に起った出来事を内容としていることが確かでありまたこの使信がその形式においてこの出来事についての人間による証言であることも確かであるかぎりわれわれがこの使信の人間学的内容にも問いかけることは可能でありまたそうしなければならないことは明瞭である。(中略)〔しかし、「聖礼典的な実在」として<第一次的な>、「最初の起源的な支配的な<しるし>として、〕他のすべてのものを基礎づけ制約し支配する〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕キリストの出来事としてのキリストの出来事をこの証言から取り去って〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書証言から起源的な第一の形態の神言葉であるキリストの出来事としてのキリストの出来事を取り去って〕――〔それ故にその結果この証言を〔起源的な第一の形態の神言葉であるキリストの出来事としてのキリストの出来事を取り去った第二の形態の神の言葉である聖書証言を〕、そこでは第二次的なものに形式変換し転釈するという場合」、換言すれば人間学そのものである前期ハイデッガーの哲学原理に基づく「絶対的基準としての先行的理解と解釈学的原理」によって対象化され客体化されたブルトマンの観念的生産物である彼自身の意味世界・物語世界・神話世界、存在者、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示第一次的なものに形式変換し転釈するという場合それ故に第二次的なものに形式変換され転釈されたところの起源的な第一の形態の神言葉であるキリストの出来事としてのキリストの出来事を取り去った第二の形態の神の言葉である聖書証言をブルトマン自身の観念的生産物(すなわち、「存在者」)である「<第一次的なものに従事することにおいてのみ真であり重要であるものに形式変換し転釈するという場合その第二の形態の神の言葉である聖書の使信をゆがめ切りちぢめることにならざるをえない……」(『カール・バルト著作集3』「ルドルフ・ブルトマン」)、と。ブルトマンは、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を認識し自覚し堅持しなかったのである(まさに「『自然』神学」者として、ブルトマンは、Ⅰコリント3・10-11における言葉を認識し自覚し堅持しなかったのである。言い換えれば、彼は、第二の形態の神の言葉である「聖書は、先ず第一義的に優位に立つ原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕としての〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエス・キリストと共に、〔第三の形態の神の言葉に属する〕教会の宣教における原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕である」ということを全く無視したのである)。本来的には次のように思惟し語るべきである――第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学、<教会>教義学は、第二の形態の神の言葉である「『使徒と預言者たちに基づいて』、何をわれわれ自身が語るべきかを問わなければならない。その時だけ、キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され、命じられていることを知る」。第三の形態に属する教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学、「<教会>教義学そのもの、また神についての教会の語り」は、「信仰のない人間の、信仰にさからう理性を用いての語りである」が、神学、<教会>教義学そのものが、「神についての語りをはかる規準〔・原理・法廷・審判者・支配者・標準〕を、〔起源的な第一の形態の神言葉である〕イエス・キリストの中で受けとる限り〔それ故に、具体的には、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書の中で受けとる限り〕、<教会>教義学は真理の認識として可能となる」。その時、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学、「<教会>教義学は、人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語ることができる」(Ⅰコリント310-11)。しかし、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教およびその一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学、<教会>教義学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、〔最後的には〕神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」。したがって、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教およびその一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学、<教会>教義学における思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立しているのである」。バルトが述べているように、われわれは、「十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおけるわれわれの実存という場所において、われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗しても、われわれのために生きて、われわれを支配し、われわれを愛し給うイエス・キリストを、認識し、持つことができることを示すということ」に対して「誠実と真実をささげるべき」であり「責任的応答をなすべき」であるにも拘らず、ブルトマンは、その当時に現存した「教養人」(知識人)に対して、「同時代の人たちの思考の前提」と「そこから形成された理解の規準」に対して、「誠実と真実をささげ」、「責任的応答をなす」ことを目指して、それ故に第二の形態の神の言葉であるキリストにあっての神としての「神は、ただ神によってだけ認識されるという命題を否定した」ところで、また「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し堅持しないところで、またイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に信頼しないところで、次のように語ったのである――「神話的世界像と神話的人間像は時代の経過とともに、われわれの前から消え去ってしまうし、われわれの眼前存在〔、現前性〕は近代的な世界像、人間像にあるから、神話形式のままでは、新約聖書の言表、すなわち語られた内容の表現は理解できないから、それは非神話化されなければならない」、と(『教会教義学 神の言葉』、『ルドルフ・ブルトマン』)。

 

バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、「『<非>自然』な神学」の<段階>における思惟と語りにおいて、次のように述べている――「聖書の中で物語られているもろもろの歴史は、史実史や神話ではなく、ただ、(一人、あるいは何人かの)物語者が物語られた歴史に対して、多かれ少なかれ(主観を交えて脚色しており、そういう意味で)干渉し、関与するという歴史物語あるいは古譚の要素を持ったものである」。したがって、「中立的な観察者として聖書の中に証しされている啓示の『史実的な』確かさを問う問いは、聖書にとっては全く縁遠いものであり、聖書の証言の対象にとって異質なものである」が、しかし、その「聖書的証言に対して、それを聞くもの、見る者、信じる者である非中立的な観察者にとっては、〔それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における、「聖礼典的な実在」としての起源的な第一の形態の神の言葉である〕啓示・〔「聖礼典的な実在」としての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書・〔「聖礼典的な実在」としての聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉に属する〕教会の宣教の中に同時に啓示の秘義があったしあり続けた」。したがってまた、その「非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、史実的には全く何も確かめられないということ知らされたし、啓示の出来事にとって重要でないものだけ、啓示とは別の何かだけしか確認できないということを知らされた」。したがってまた、「聖書の中の歴史は歴史物語あるいは古譚であって、そのような神と人間との間に起こったもろもろの歴史(Geschichten)」は、「神的な側面」からは、常に、人間が人間的に所有する人間の一般的な歴史(Historie)の<彼岸・外>にあるもの」であり、第二の形態の神の言葉である「聖書証言の報知における歴史(Geschichte)、特殊な歴史〔的出来事〕については、いかなる『史実的な』判断もあり得ないものである」から、「史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、シリアの総督のクレニオと聖降誕の出来事、ポンテオ・ピラトと使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、出来事として起こったもろもろの歴史について語っている」という点にある。したがってまた、人間学的領域における「歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、啓示を問おうとしないで人間精神の自己理解を第一義として聖書の中でも神話を問うことをする」。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解と、神話の証言としての聖書の理解は、相互排除の関係にある」、それ故に「聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化することは、証言としての聖書の実体を攻撃しない」が、しかし、「聖書記事を神話として受けとることは、証言としての聖書の実体を攻撃する。何故ならば、イエス・キリストにおける「啓示は、人間学的な歴史の枠にはめ込まれてしまうような歴史的出来事ではないからである」、それ故に「聖書は、その歴史を、一般的な歴史性を含んではいるが史実史ではない歴史物語、古譚として受けとる」ことが肝要なことである。人間学的領域において吉本隆明は、次のように述べている――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、〔人間学的領域における〕神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」)。この認識と自覚は肝要なことである。

 

「<倫理>問題、換言すれば正しい行為を問う問題は、人間的な<実存>の問題である」。自分の意志とは全く無関係に、それ故にまさに不可避的に投げ出された歴史的現存性のただ中において、すなわちそれが<良きもの>であれ<悪しきもの>であれ、人類がそれらを人類的成果(個体的自己としての人間のつくる観念と現実の成果の世代的総和)として歴史的に蓄積させてきたものの現存性である歴史的現存性のただ中において、「われわれが意欲するように、そのようにわれわれはあるのであり〔現実的に現存するのであり〕、われわれがなすところのもの、そのものでわれわれはあるのである〔現実的に現存するのである〕」。自分の意志とは全く関係なくある歴史的現存性のただ中に投げ出されたわれわれは、個体的自己として、ある自己資質、体験、感情、職業、生活、信条、思想、意志、判断力、構想をもって、その生誕から死までの現実的現存性〔個の時間性としての自己史、個体史〕を生きるのである。

 

そのような訳で、バルトは、『バルト自伝』で、次のように述べている――「私と同時代の神学者たちが試みかつ遂行した神学的企てのなかで、最も私の注意をひいて来たのは、ルドフル・ブルトマンの新約聖書の『非神話化』である。と言っても、それが提示する具体的な問題のためではなく、それが、〔8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」についてその2で述べた〕ルターの宗教改革を出自とし、そしてシュライエルマッハーによって育成されたタイプの神学〔<人間中心主義>的な近代主義的自由主義的プロテスタント主義的神学〕の主題と方法〔すなわち、「自分自身の歴史と現在の解釈を表現しようとする自己表現としての宣教を企てる」主題と方法〕を再び採用している点で、非常に印象的であるからである。私はその特殊な主題について、ましてその原理的な方法について、ブルトマンに従うことはできなかった。〔何故ならば、〕そこでは、神学は……新しく特定の哲学〔人間学〕にとらわれて、エジプト捕囚ないしバビロン捕囚〔人間学捕囚〕の身になっているのを、私は見た」からである。バルトは、人間学としての「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」し、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」し、「また、その時には、哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」し、「キリスト教哲学は、それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」し、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」と根本的包括的に原理的に批判している。したがって、バルトは、次のように述べている――「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神を尋ね求める<教会的な>、<福音主義的な>〕神学は、哲学的試みが終わるところから始まる」、すなわちその神学も類的機能を持つ人間の自由な理性的思惟に基づく知的営為ではあるが、第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神を尋ね求める<教会的な>、<福音主義的な>神学は方法論的にはほかの学問のもとで何も学ぶことはないのである」、と(『教会教義学』および『バルトとの対話』)。何故ならば、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求するイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているからである。

 

.ユンゲル・モルトマン、エーバーハルト・ユンゲル、パンネンベルク

モルトマンは、世界史は自由の原理の実現過程であり、その頂点は西欧近代であるあるという進歩史観において歴史哲学を構想したヘーゲルの歴史哲学に依拠して、「律法・父の国・奴隷状態の歴史」(世界史的段階で言えば、狩猟採取を主たる経済的基盤とした自然にまみれた原始・未開の段階)、「恩寵・子の国・神の子供状態」(世界史的段階で言えば、主たる経済的基盤を農耕に置くことによって、自然から対象的になったけれども、さらにその対象的になった自然を、類的機能を持つ自由な自己意識・理性・思惟を駆使して対象化し、その自然から対象的になって完全に超出することによって、自由の原理を認識し自覚することができ得ていない、それ故に自由の原理を獲得でき得ていないアジア的段階)、「自由・霊の国・神の友の状態」(世界史的段階で言えば、資本主義的生産を主たる経済的基盤とし、自由の原理を認識し自覚し、それ故に自由の原理を獲得し、自然から完全に超出した西欧近代の段階)というモルトマンの直線的な「神学的な三段階的進歩史観」の主張は、観念論的な「総合の原理」に基づくそれなのである。このモルトマンの神学的な三段階的進歩史観は、まさしくその歴史哲学において自由を原理とする西欧近代を人類史の頂点とする進歩史観を展開したヘーゲルの思惟と語りの神学的適用である、まさに「『自然』神学」の<段階>における「人間学の後追い知識」としての人間学的神学である――「人間は本来、理性的であると言えば、人間は素質の形で、萌芽の形で理性を持つことを意味する。この意味において人間は理性、悟性、想像、意志を生れながらにもつ。(中略)しかし子供〔例えば、人類史的<段階>で言えば、自然を原理とするアジア的段階の人間〕は、このような理性の能力〔人間の自由な内面の無限性、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟〕、あるいはその可能性を単にもつというだけであるから、理性をもたないのと同じである。そしてそれ故に、自由でもないのである(ヘーゲル『哲学史序論―哲学と哲学史―』)。

 

人間存在の総体性における個、対、共同性の区別をしないで、それ故にそれらを均質化させて、「肉体のみならず、社会や、経済や、政治次元をも含む」メルロウ=ポンティの「身体性」(身体論、身心相関論)の概念を重視し(「メルロウ=ポンティをそのまま受け取ることはできないが」としながらも、その「身体性」の概念を重視し)『歴史を導く神――バルトとモルトマン』を著わした牧師であり大学神学者の喜田川信、モルマンは、知覚作用における身心相関領域、すなわち「身体性からバルトを批判した」と述べている。ここで、問題なのは、喜田川が、ただ人間学そのものであるメルロウ=ポンティの「身体性」の概念にだけ依拠して、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、Ⅰコリント310-11に根拠づけられたところの「聖礼典的な実在」としてのそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」)の関係と構造(秩序性)、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学に立脚するバルトの「『<非>自然』な神学」の<立場>を、あくまでもバルトがそうしたように第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学において神学的に、そして客観的な正当性と妥当性とをもって根本的に原理的に包括し止揚しないまま、まさに人間学的概念そのものであるメルロウ=ポンティの「身体性からバルトを批判した」と主張するところの「『自然』神学」の<段階>で停滞した彼のその思惟と語りにあるのである。このような「人間学の後追い知識」としての人間学的神学が全く駄目で役立たずな神学であることのその人間学的側面は、ハイデッガー自身から客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判された前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンのように、メルロウ=ポンティのその「身体性」の概念を、人間学そのものから客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判されることによって一巻の終わりとなってしまうという点にある。したがって、一巻の終わりとなったその後は、そのような人間学的神学は、まさに余りに人間的で役立たずの人間学的神学の宝庫である「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)として生きる以外にないのである、そしてただ「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとする」(吉本隆明『カール・マルクス』)以外にはないのである。

 

次元が異なり位相差のある個、対、共同性という人間存在の総体性を認識し自覚し、メルロウ=ポンティの個体性の哲学を批判したところの、人間学領域におけるただ単なる学者(知識人)や著述家ではないところの文芸批評家であり<思想家>である吉本隆明は、次のように述べている――「人間の身体を、精神の動きと肉体の動きとが集約される場所と見なすと」、一方で、類的機能を持つ人間の自由な、すなわち無限性を持つ人間の自由な「精神の動きは、肉体の内部に起源を持ち、外側に拡がっていって、環界自然にまで及んでゆく」、例えば現在の技術ではまだ見渡すことができない宇宙の果てまでをも科学的に想像することができる、革命の究極的総体的永続的な課題を構想することができる、さまざまな「問題を明確に提起する」構想をリアリティのある観念をもってなすことができる。他方で、「身体の動きの起源を肉体の表面の感官の動きに求めると、それは、社会の具体的な像にまで拡がってゆく」、例えば現在の高度情報技術を利用すれば、社会の具体的な像について、平面的にも立体的にも、身近な生活圏のそれだけでなく、それ以外のそれにまで、世界各地のそれにまで拡がって行くことができる。したがって、「人間にとって一番大切なのは、精神の動きと肉体の動きとが結びついてつくり出す姿や形や像がどんなものかという」総体的認識にある。しかし、「情報科学や情報技術の専門家たちは、人間の感覚部分に関わる外在的な心・精神というものと、人間の非感覚的部分〔喜怒哀楽の感情の世界、情念の世界、嫉妬の世界〕に関わる内在的な心・精神というものとは、同じものであると信じて疑わないことが問題である」。何故ならば、「情報科学や情報工学の発達は、人間の感覚部分に関わる心・精神を発達させ知識を増大させたけれども、人間の非感覚部分の心や精神を発達させることはできなかった」からである。「古代から人間の喜怒哀楽は変わらない」、「情念の世界はなくならない」、「嫉妬の世界はなくならない」。経済社会構成体の拡大・高度化、科学や技術の進歩・発達、その知識の細分化と増大、生活の利便性等が向上しても、人間の非感覚部分の心や精神は豊かにならなかった。このことは、戦後過程における資本主義の高度化が「私的利害の優先意識」を生み出し、自由主義国家の成熟が「恣意的自由の優先意識」を生み出し、そしてそうした意識が、価値意識(価値観)の多様化をもたらし、個、対(対の共同性としての家族)、共同性の領域における関係意識を衰退させ、また共同性統括力を衰退させ、また他者を現実的に侵害しないところに個人主義は成立するにも拘わらず他者を現実的に侵害する利己主義を蔓延させているのであるが、情報科学と情報技術の進歩・発達による高度情報化社会の出現が、そのような状況を、そのような状況下にある際限なき人間の欲望を、また現実的な社会の中で生き生活する具体的な私人としてのわれわれが「私利、私意」に基づく利己主義的な私的他者や利害共同性との対立や争いのただ中にあるということを裸形化させ露呈させており、自分の実感からだけでなく、毎日のようにさまざまなメディアから流される情報によっても、知ることができる(『超20世紀論』)。メルロウ=ポンティをそのまま受け取ることはできないが」としながらも、喜田川は、まさに「『自然』神学」の段階で停滞し、先ず以て人間学的概念そのものである「身体性」の概念を重視しつつ、一方ではイエス・キリストの十字架を持ち出して、「私たちは十字架を通し神が私たちを愛し、……切り開きつつあることを信じうる」ところで「権力の非神話化、民主化、弱きものへの思考等」を目指すということを述べている。しかし、権力とは何か、民主化とは何か、弱きものへの思考とは何かについては全く明確に示されてはいないのである。権力概念一つをとってみても、例えば、人間学領域におけるただ単なる学者(知識人)や著述家ではないところの哲学者であり<思想家>であるミシェル・フーコーのように、その問題を明確に提起してもらわないと困るのである――「権力は実体ではなく、個人間に存在するひとつの個的な関係タイプである」。すなわち、それは、「ある価値基準ある時ある場所において、聖なる者と俗なる者、教えるもの〔知識人〕と教えられるもの〔<非>知識人〕、正常なものと異常なもの、支配されるもの〔大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民〕と支配するもの〔支配上層〕等へと関係を規定する政治的合理性の形態である」。言い換えれば、それは、「権力的、強制的、弾圧的にではなく、司牧システム〔牧人システム〕が生み出す無意識の共同性によって、その権力的在り方に服属させられる関係性のことである」。したがって、国家、政治的権力からの解放とその無化のためには、「国民の個別化と生活の隅々までを監視する全体主義化という無意識の共同性を生み出す司牧システム〔牧人システム〕そのものへの攻撃が必要となるのである」というように、その問題を明確に提起してもらわないと困るのである。フーコーにとっては、「市民の生活と西欧の歴史の全体を覆っていて、現代社会にとっていまなお最高度に重要な問題は、国家の統一性の法的枠組みとして機能している政治的権力と、一方のすべての諸個人の生命に四六時中こころを配り、彼らに助けを与え、彼らの境遇を改良することを役割とする『牧人的』〔司牧的〕と呼ぶことのできる権力」の無化にあった(『全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて』)。また、例えばまさに「『自然』神学」の段階で停滞して思惟し語る喜田川の「弱きものへの思考」についても、喜田川は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」としての啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続し、その秩序性における第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)ということを明確に提起したバルトは違って、全く明確に提起していないのである。また、喜田川は、次元の異なる個、対、共同性という人間存在の総体性について認識し自覚してはおらず、それ故にメルロウ=ポンティがそうであったように、身心相関の場を、<均質な>行動空間に還元しているのである。しかし、次元の異なる個、対、共同性という人間存在の総体性からして、人間の行動空間は均質であるわけではない。すなわち、その行動空間には、個体が個体として存在する行動の場、個体が性・家族として存在する行動の場=他の個体と関係づけられて存在する行動の場、個体が観念の共同性(法、政治、制度)として存在する行動の場、という三つの位相があるのである。

 

ユンゲルは、次のように述べている――「アブラハム、イサク、ヤコブの神を、たといこの神が幾何学的方法によって論証可能なお方ではないにせよ、〔人間学的領域における〕哲学者にとっても、思惟可能な神として信じるにあたいするというふうに思惟することはよいことなのである。ただ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストの〕福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は、哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない〔しかし、私に言わせれば、逆に、「福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき」であれ、別に哲学者であることをやめる必要はないにも拘らず、このような頓珍漢なことを言うのかがよく分からない。何故ならば、バルトのように、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)を認識し自覚し堅持しさえすれば、別に哲学者をやめる必要はないし、Ⅰコリント310-11の言葉からして、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神を尋ね求める神学の方法を明確に提起しさえすれば、別に哲学者をやめる必要はないからである。要するに、いろいろと御託を並べているユンゲルは、結局のところは、類的機能を持つ彼の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」を対象とした研究を手放したくないだけなのである、換言すれば「『自然』神学」の<段階>で停滞し循環する「人間学の後追い知識」としての人間学的神学を、人間学そのものとして神学を、宗教哲学を目指したいのである。したがって、このことは<必然的に>ということであるが、このユンゲルは、「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を〔ヘーゲルの〕歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なこと>なのである」という主張をするのである。また、この彼は、近代の未完のプロジェクトの完成」を目指した社会学者ユンゲル・ハーバーマス(事実性と妥当性)におけるその近代の未完のプロジェクトの完成」を神学的領域に適用しようとして、「近代的な自由および自律の意識の加工処理」、「近代的自律の神学的加工処理」という主張をするのである(『神の存在 バルト神学研究』)。

 

『人類の知的遺産 バルト』を著わした東京神学大の大学神学者であった大木英夫は、そのユンゲルの本の「訳者あとがき」で、ユンゲルが自らの<立場>において、バルトの「『<非>自然』な神学」を根本的に原理的に包括し止揚してはいないにも拘らず、それ故にユンゲルは、まさに「『自然』神学」の<段階>で停滞したまま思惟し語っているにも拘わらず、「ユンゲルのバルト解釈は、バルト後を確定した」、「バルト後の誰もが無視できない一つの流れ、誰もがそこを回避出来ない一つの道を決定した」、「これは日本の知的読者の中にも新しい論議を発火させる焦点となるかも知れない」と出鱈目なことを吹聴しているのであるから、大木英夫自身、全く以て「『自然』神学」の<段階>で停滞した大学神学者であると言うことができるのである。このような「すべての大学社会の神学」を、バルトは、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』で、次のようの批判している――それは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学である」。

 

パンネンベルクは、「道端の石さえも語るのであるから、人間が神について語るというのはまったく自明のことなのである」と語り、「他の諸宗教をフォイエルバッハ流に説明し、キリスト教は例外だとするようなやり口の(バルトの)戦術」は、「結局のところキリスト教神学それ自身を台無しにしてしまう」と語っている(実際的には、逆に、「人間学の後追い知識」として人間学そのものである「『自然』神学」の段階で停滞し循環するパンネンベルク自身が、結局のところキリスト教神学それ自身を台無しにしてしまうのである)。また、パンネンベルクは、「無神論的宗教批判との対決は、人間論〔人間論的な自然的人間そのもの〕のレベルと〔人間学そのものである〕哲学的論証によってなされなければならない」と語っている。ここでは、先ず以て、パンネンベルクの虚偽性について指摘しなければならない。すなわち、「他の諸宗教をフォイエルバッハ流に説明し、キリスト教は例外だとするようなやり口の(バルトの)戦術」という発言は、ただ悪意をもってだけバルトを誤解し誤謬し曲解したところ、大学神学者としてあるまじき全く出鱈目な虚偽的発言である、ということを指摘しなければならない。何故ならば、バルト自身は、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』における根本的包括的な原理的な人間学そのものとしての「『自然』神学」の段階で停滞し循環するキリスト教に対する批判を、客観的な正当性と妥当性のあることとして語っていることは、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』を素直に正直に読み理解すれば明らかなことだからである。また、パンネンベルクの人間学そのものである「無神論的宗教批判との対決は、〔生来的な自然的な〕人間論のレベルと〔人間学そのものである〕哲学的論証によって〔換言すれば、人間学そのものとしての「『自然』神学」の<立場>で〕なされなければならない」という発言について言えば、その時には、人間学そのものである「『自然』神学」そのものを<立場>とするということになるのであるから、それ故に「『自然』神学」から対象的になって距離を取ることはできないということになるから、それ故にまた「『自然』神学」の「問題を明確に提起する」ことはできないということになるから、それ故にまた「『自然』神学」を根本的に原理的に包括し止揚することはできないということになるから、人間学そのものとしての「『自然』神学」の<段階>から、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての「『<非>自然』な神学」の<段階>へ移行することはできないのである。このような訳で、パンネンベルクの主観的な「人間論のレベルと哲学的論証」は、結局のところ、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」を対象とする人間学そのものとしての「『自然』神学」の段階で停滞したそれに過ぎないものなのである。したがって、パンネンベルクの主観的なそれも、客観的な正当性と妥当性とをもって、「……『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神を見失うことである』……」から、「それよりはむしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』……」、とハイデッガーから根本的包括的に原理的に批判され「揶揄」されてしまうものでしかないのである。このような訳で、ただ人間学そのものとしての「『自然』神学」の段階で停滞し循環しているだけのパンネンベルクは、「マルクスの敵たちのように」、「思想〔教説〕は物質ではなく外化された観念である」から、その「観念の運動は観念によってしか埋葬されず、甲の観念は〔すなわち、先に述べた意味で人間学そのものとしての「『自然』神学」を<立場>とする教説、思想は〕、乙の観念が〔すなわち、徹頭徹尾第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神を尋ね求める、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、その<総体的構造>の中での聖霊自身の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学を<立場>とするところの、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての「『<非>自然』な神学」の教説、思想がそれを包括し、止揚することによってしか……亡びない」ということを理解していないのである(吉本隆明『カール・マルクス』)。したがって、その最初から、まさに「『自然』神学」の段階で停滞している主観的な「〔生来的な自然的な〕人間論のレベルと〔人間学そのものである〕哲学的論証」によるパンネンベルクの「無神論的宗教批判との対決」における思惟と語りが、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的なキリスト教批判を、客観的な正当性と妥当性とをもって根本的に原理的に包括し止揚することなどできるはずがないのである。

 

.エミール・ブルンナー

バルトは、『ナイン!――エミール・ブルンナーに対する答え』および『教会教義学 神の言葉』において、「自らの神学をすこぶる宗教改革的であり、全くカルヴァンの思想に近い」、「神の像の形式的側面に関する思想と『ほとんど全く』同じである」と自負しながら「『自然』神学」の段階で停滞したまま思惟し語っているブルンナーに対して、次のような根本的包括的な原理的な批判を加えている――第一に、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し堅持しないところの、ブルンナー自身の類的機能を持つ自由な自己意識・理性・思惟が対象化し客体化した人間的自然(人間の観念的生産物)としての彼の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」としての「人間に固有な<結合点>」という概念は、「『自然』神学」の段階におけるそれとして、それ故に「聖書への絶対的信頼」に基づいて聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としないそれとして、「啓示神学に対して、それをも規定し得る独力で立った堅固な下部構造」としてあるから、その思惟と語りは首肯することができない水準のものである。第二に、カルヴァンは、「天地万物からする神認識とキリストの中での神認識との二つの神認識について語った」が、ブルンナーとは違って、「啓示に対する、またキリストの中での新生活に対する結合点を見出していない」。すなわち、「聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め、それらに独自性を与えて、後から追加的に『何らかの仕方で』……発言せしめることをしていない」。第三に、カルヴァンの神認識のベクトルは、ブルンナーとは違って、「天地万物の中における神認識は、キリストの中における神認識そのものにおいて可能である」という点にある。すなわち、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいてのみ可能である〕」という点にある。第四に、ブルンナーは、一方で、「内容的には神の像は全く失われてしまって、人間は徹底的に罪人であり、人間の中には罪で汚されてないものは何もないと語る」のであるが、他方で、「人間には、啓示なくしても人間自身が本来持っていて〔人間に内在していて〕、そして啓示の中で言わば甦って来る」ところの、生来的な自然的な「啓示能力、言語能力、言語受容能力、呼びかけられうる能力がある」として、「それは、人間の持っている『神の像』である」と主張するブルンナーは、「啓示の中で初めて甦って来るところのものであるとしても、啓示に先立つ『啓示能力』、結合点」という概念を主張し、その「人間に固有な結合点」は、「罪人からも喪失してしまっていない形式的な神の像である」と言い、それは、「具体的には、〔生来的な自然的な〕人間の人間性、〔生来的な自然的な〕理性や応答責任性や決断能力のことであり、神の啓示に対する客観的可能性となるものである」と言うのであるが、しかし、その「形式的な神の像」という概念は、まさに「『自然』神学」を目指す彼の人間的<欲求>によって対象化され客体化された彼の観念的生産物としての彼の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」としてのそれに過ぎないものである。したがって、それは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し堅持しないところの、神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間も、生来的な自然的なわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという、人間の側からする神と人間との、神学と人間学との共働・協働、神人協力を目指すものであって、まさに「『自然』神学」の段階で停滞と循環を繰り返すものであるから、首肯することはできない。第五に、この批判は、『教会教義学 神の言葉』におけるものであるが、ブルンナーの目指している「神学的課題が、理性的思惟の絶対化、理性万能の妄想と理性の孤立の中で、神的汝をあこがれ求めている〔生来的な自然的な人間〕理性を解放することにある」のだが、「近代的精神」を守りたい彼のその「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の<半減>された「近代的精神」は、それがあくまでも生来的な自然的な人間の「近代的精神」である限り、人間を第一義とした人間の側からする「新たな神との共働者」を目指すものに過ぎず、首肯することはできない。

 

.ラインホルド・ニーバー

ミシェル・フーコーは、宗教化・教条主義化・倫理化されたイデオロギーは、その啓蒙において他者に対して他律的な二者択一の倫理(善悪の判断)、「賛成」か「反対」かを強いるが、それは「啓蒙の〝恐喝〞」であると述べている。したがって、フーコーは、そうした啓蒙の在り方を無化するために、「単純で権威的で他律性を強いる二者択一の形式で提出されるようなすべて」を、自らのその存在、その思考、その実践において拒否し、「新たな主体や自由や価値」の構成をしようとしたのである(『思考集成X』「啓蒙とは何か」)。1957年当時の事実的政治の枠組みの中で、まさに「『自然』神学」の段階で停滞して思惟し語るところの、「幼稚な反共主義者であったキリスト教的政治屋ラインホルドニーバーによるバルトに対する<政治的強要>や<政治的陰謀>は、まさしく宗教化され倫理化された西側イデオロギーに依拠した「啓蒙の〝恐喝〞」でしかなかったのである。何故ならば、ニーバーは、バルトに対して「なぜ、カール・バルトはハンガリー問題について黙っているのか?」と語り、バルトを「反共主義の味方に引きずり込むか、さもなければ、実はひそかな容共派であるという」という仕方で、バルトの「神学者としての信用を失墜させようとした」からである。そのニーバーのまさしく宗教化され倫理化された西側イデオロギーに依拠した<政治的強要>や<政治的陰謀>と他律的な二者択一の倫理を強いる「啓蒙の〝恐喝〞」に対して、事実的な政治を好むニーバーとは違って、事実的な政治を好まないところの、すなわちただ<不可避的に>だけ政治に関わるところのバルトは、東西イデオロギー、東西権力のどちらにも加担せず、また「一言も答えず」、断固として拒否する在り方で対応したのである(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)。

 

バルトは、次のように述べている――「世界が必要としている革命的認識」は、「世界」は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」<主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(すなわち、「イエス・キリスト信じる信仰」による「神の義」ではなくて、「イエス・キリスト信ずる信仰」)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであり、それ故に「律法の成就」・「律法の完成」(「律法の終りとなられた方」)そのものであり、それ故に成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(「この包括的な救済概念は平和の概念と同じである」――「平和の関するバルトの書簡」)そのものである「イエス・キリストにおける神の愛によって〔すなわち、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉によって〕、すでに解放された世界である」(『福音と律法』、『ローマ書新解』、『平和に関するバルトの書簡』)ことに感謝をもって信頼し固執し固着して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な倫理的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、また「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、〔<主義>化されたエキュメニカル運動等〕国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考え」る考え方は放棄しなければならない、また第三の形態の神の言葉に属する教会の「宣教の規準を、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書と同時に、最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断あるいは〔人間学そのものである〕哲学、道徳、倫理、〔外在的に暴力装置を持っているとしても観念の共同性を本質とする国家〕政治等に置く」ことをしてはならない、また「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合おう」としてはならない、またそれが西側のそれであれ東側のそれであれ、ある「社会機構、あるいは経済機構の保持、廃止に貢献しよう」としてはならない、また「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」し、「国家は支配であり、文化は支配である」から、それが西側のそれであれ東側のそれであれ「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』と言」ってはならない(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』、『教会教義学 神の言葉』、『啓示・教会・神学』)。徹頭徹尾神の側の真実としてのみあるローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の<属格>に対する<主格的属格として理解された(すなわち、「イエス・キリスト<>信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」として理解された)信仰は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく、ルターのような生来的な自然的なわれわれ人間もという神と人間との共働・協働・協力関係を前提条件とさせたところの、生来的な自然的な<われわれ人間の直接的な契機>に基づいてはおらず、換言すればローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の<属格>を<目的格的属格として理解すること(すなわち、「イエス・キリスト<>信ずる信仰」による「神の義」として理解すること)には基づいておらず、また換言すればただ神の恵みの力に基づいて贈り与えられる信仰だけでなくそれだけでなく一方で人間の側の力による信仰自力信仰も前提され温存されたルターにおける新共同訳聖書における目的格的属格として理解されたイエスキリスト信じる信仰(すなわち、「イエス・キリスト<>信ずる信仰」による「神の義」として理解することには基づいておらず、それ故にバルトが論じているように第二の形態の神の言葉である聖書におけるイエスキリスト信じる信仰徹頭徹尾神の側の真実としてのみあるイエスキリストにおける啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)――すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの(すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、客観的な「存在的な<ラチオ性>」と主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて贈り与えられる媒介的なそれであり、<信仰>と<不信仰>(外在的な不信仰だけでなく、信仰の側にも内在する内在的な不信仰を含めて)が架橋されたところのまさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある信仰である。そこにおいて、「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」としても、「そのことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない」、何故ならば「すべての主義のように」「平和主義は一つの絶対主義」だからである。「われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、〔世界が経済の世界性と自国の利害を第一義的に最優先する一部国家支配上層の意思によって動員できる巨大で強力な国軍を持つ戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いている限り、〕戦争の可能性はあけておかなければならない」。したがってまた、あくまでもナチス国家との相対的評価において評価し得る<緩衝国>として自由および直接民主制と武装永世中立を掲げる「スイスをナチズムからまもるために、私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛するために、もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」(『バルトとの対話』)。このような訳で、「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)のである。これらのバルトの行為、実践は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すところでのキリストの福音の「説教言葉の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから必然的に実践に決断に行動になって行ったという点にある。言い換えれば、両者を二元論的に分離し対立させて、説教(言葉)だけでなく行為(実践)も必要であると声高に叫ばなくて、その説教言葉〕がおのずから必然的に実践に決断に行動の方につれて行ったという点にある(『カール・バルトの生涯』)。マルクスの場合も同じであった――「宗教、法、国家という幻想性〔観念性〕と幻想的な共同性についてかんがえつくし、ある意味でこの幻想性の起源でありながら、この幻想性と対立する〔現実的な〕市民社会の構造としての経済的なカテゴリーの骨組みを定め、そしてこれらの考察の根源にあるかれ自身の〔自然=人間の<立場>の〕<自然>哲学を三位一体」とした「マルクスの完結した体系は、当時も(そして今も)よく理解されていなかったが、理論〔言葉〕がかれを実践〔行為〕のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」(吉本隆明『カール・マルクス』)。

 

ただ単なる学者(知識人)やキリスト教的著述家ではないところの、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学における<思想家>であるバルトのそのような神学的実存に対して、ディートリヒボンヘッファーのそれは、次のようなものであった――バルトにとっては、ステパノの殉教の本質は、その苦難の「行為」にはなく、キリストの福音にのみ感謝をもって信頼し固執する「言葉」にあった、そしてその言葉が、彼を必然的に行動へとつれて行った(『教会――活け主の活ける教団』)。バルトの神学的実存も、言葉と行為は二元論的に分離し対立しておらず、キリストの福音についての繰り返しの説教の言葉が、「おのずから」、「必然的に」、「行為」につれて行くという点にある。それは、「誰も、他人の重荷を取り除くことも、また、その人が自分にするところの厄介も、取り除くことはできはしない」が、「他者の重荷を負う行為」である。詳しく言えば、それは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での「聖礼典的な実在」としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」)の関係と構造(秩序性)に基づいた「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活きた「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くことを通したところの、「誰も、他人の重荷を取り除くことも、また、その人が自分にするところの厄介も、取り除くことはできはしない」としても、「他者の重荷を負う行為」である(『カール・バルト著作集17 説教集<下>』「負いなさい! ガラテヤ六・二」)。それに対して、ヒトラー暗殺計画の陰謀を企てたボンヘッファーの神学的実存は、彼の『説教と牧会』に即して言えば、言葉と行為が二元論的に分離され対立させられたところでのそれであり、それ故に彼の「キリスト証言は、〔キリストの福音の説教の言葉自体が行為へと「おのずから」、必然的につれて行くというのではなくて、説教の言葉と行為が二元論的に分離され対立させられたところでの〕<言葉><行為>とをもってする説教者と聴衆とを要求する」(ボンヘッファー『説教と牧会』)というところにある。しかも、ボンヘッファーの神学的実存のベクトルは、バルトとは違って、この世における、キリストの許しのもとでの、神との「共働者」に基づいたキリストを範型とする「行為」、イエスへの従順と服従の「行為」、正義の体現行為にあったから、事実的にはヒトラー暗殺計画へと向かう権力闘争、政治的実践にあった。しかし、それは、果たしてほんとうに従順と服従の行為なのだろうか? 先ず以て権力を実体的に考えていたボンヘッファーの権力闘争が成功しないことは、その最初から明らかなことである。何故ならば、権力は、実体ではないからである。したがって、ボンヘッファーは、事実的な暴力装置としての国家権力の暴力と闘っただけであった。ボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画を企てたのであるが、しかし、革命を、人間の観念的な政治的な部分的解放の問題と人間の現実的な社会的な全体的解放の問題との総体性において構想しなかったから、すなわち過渡的問題(往相的問題)<と>究極的課題(還相的問題)との総体性において構想しなかったから、ボンヘッファーの事実的な暴力装置としての国家権力の暴力と闘った権力闘争は、たとえそれが成功したとしても、その新たな権力が、<非>権力(大多数の被支配として一般国民)の側に開かれた権力を目指しているそれであるのか、<非>権力の側に閉じられた権力を目指しているそれであるのか明確でない権力闘争として、最後的には、さらにもっと悪く酷い権力の構成でもって終わってしまうかもしれないそれであった。バルトの言い方に依拠して言えば、ボンヘッファーは、「革命後のヴィジョンを持っていなかった」のである。

 

革命の<究極的な>課題は、人間の現実的な社会的な全体的解放にある限り、究極的な革命像としては観念の共同性を本質とする国家の無化(死滅)にあるのであるが、またそれが西欧諸国等の自由主義国家であれ中国やロシア等の社会主義的国家であれ国家を第一義(価値)とする国家主義的なそれである限り、それ故にどの国のどの政治家もどの高級官僚もどの大学学者等も、国家を前提として思惟し語る限り、この課題の実現は困難であるのであるが、それに対して、革命の<過渡的な>課題は、大多数の被支配としての一般国民の生と生活に直接的に関わる法律を制定する時には、必ず、その是非を当該一般国民の国民投票に諮るということを憲法(国法)に規定するという仕方で、国家をどこまでも大多数の被支配としての一般国民の側に開いて行くというところにあるのである。しかし、この課題も、そのことについての認識と自覚がまだ欠如している現状からして、困難さを持っているのであるが……。

 

ルドルフボーレンベルトールトクラッパートエーバーハルトブッシュ

ボーレンの「聖霊論的説教論」の神学も、バルトのⅠコリント310-11に根拠づけられたバルトの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「神の言葉」(『教会教義学 神の言葉』)だけでは弱いから、「神の言葉」だけでなく<近代的な>人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍も尊重すべきだと主張した時、その経験的普遍も<主>としたところの、「『自然』神学」の段階へと舵を切ったそれである。

 

クラッパートと翻訳者の寺園喜基は、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、区別を包括した単一性において、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題を目指したバルトとは違って、両者を二元論的に分離し対立させて、それ故にまさに「『自然』神学」の段階で停滞して、「時代の現実との関連における神学」=「状況連関神学」を提唱し、それは「キリストと同じ形になることを目指す形成倫理学である」と主張する。また、それは、「神学的なものと政治的なもの」=「倫理―隣人愛―仕える教会―信徒―民主主義的社会主義―平和運動との必然的関係および正しい関係に仕えるものである」と主張する。例えば、「神によるイエスの復活」は、「限定された時と愛を贈与する」が故に、「第三帝国の死の偶像化という文脈の中で」、「それに対する抗議」を生み出すと主張するのである。また、「民主主義的社会主義」が理想的な政治形態である、「平和運動」も必要であると主張する。このクラッパートの思惟と語りは、還相的な観点を包括していないところの、ただ往相的な観点でだけ思惟し語っている非常に<一面的>な思惟と語りである。したがって、それは、抽象的であり、リアリティなき観念である。何故ならば、「平和運動」も必要だというだけで、平和の実現のための、世界をトータルに把握する方法の問題と戦争の元凶である民族国家の死滅の問題を明確に提起することをしていないからである。また、最低綱領としての緊急的相対的過渡的な観点(往相的な観点)における人間の観念的な政治的な部分的解放の問題において「民主主義的社会主義」が理想的な政治形態だと言うだけであるから、それは、結局は国家を第一義・価値とする国家主義的なそれであるだろうし、人間の現実的な社会的な全体的解放の問題、それ故に観念の共同性を本質とする国家の無化(死滅)の問題を明確に提起する最高綱領としての究極的総体的永続的な観点(還相的な観点)を包括していないそれである。さらに、個、対、共同性という人間存在の総体性を認識し自覚していない彼らは、共同性に関わる「政治的なもの」と、それとは位相の異なる個に関わる「倫理・隣人愛〔自己愛の外化〕」を直接的・無媒介的に地続きで結びつけてしまう誤謬をも犯しているからである、ちょうど結局は国家に包摂されて行くところの個、対、共同性(国家)を地続きにつなげた儒教思想の<修身斉家治国平天下>のように(『和解と希望 告白教会の伝統と現在における神学』、『バルト=ボンヘッファーの線で』)。

 

ブッシュは、『カール・バルトの生涯』を著わした秘書兼助手(秘書ロロ・キルシュバウムの後任)を務めた人物である。このブッシュは、バルト神学の根本的包括的な原理的な問題に関わる記事において、客観的な正当性と妥当性を持たない、また誰のものかどのような水準のものなのかもはっきりしない主観的な質の悪い資料に依拠して、さもバルトが「『自然』神学」を容認したかのような・「『自然』神学」を容認しているような記述を何回か何カ所かでしている。『バルト神学入門』においても、一貫性をもって「『<非>自然』な神学」の<段階>において思惟し語っているバルト神学の入門書であるにも拘らず、「『<非>自然』な神学」の<段階>で思惟し語るバルトのベクトルとは全く違う「『自然』神学」方へと誘導しようとしている記述が散見されるのである。しかし、神学における<思想家>としてバルトは、少なくとも『ローマ書』「第二版序言」以降から最晩年の著述に至るまで少しもブレることなく、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を、また徹頭徹尾神の側の真実としてのみあるローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格主格的属格理解(「イエス・キリスト<>信ずる信仰」――(『福音と律法』)を、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)を、その<総体的構造>の中でのそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11)の関係と構造(秩序性)を、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学に立脚するという<立場>を一貫性をもって貫徹している。さらに言えば、「〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の神性においてまた神の神性と共に、ただちにまた〔「われわれための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方において〕神の人間性もわれわれに出会う」と述べた『神の人間性』における「神の人間性の強調」(「第二の方向転換」、「主文章化」、それ故にここでは「神の神性」は区別を包括した単一性において「副文章化」されている)、「第一の方向転換」(『ローマ書』「第二版序言」、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>、「神の神性の強調」、「主文章化」、それ故にここでは「神の人間性」は区別を包括した単一性において「副文章化」されている)と二元論的に分離し対立しておらず、その「主文章化」と「副文章化」とのベクトル変容は、それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられたところでの言表なのである。したがって、バルトは、その著書で、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べたのである。このような訳で、この神学における<思想家>バルトが、「『自然』神学」を容認するということは全くあり得ないことである。したがって、ブッシュの記述が、翻訳通りであるとするならば、その記述は、全く以て眉唾物の記述でしかないものであることは確かなことである。したがって、さもバルトが「『自然』神学」を容認したかのような・「『自然』神学」を容認しているような記述を何回か何カ所かで載せているブッシュは、もしかすると<意識的に>、われわれを「『自然』神学」の方へと誘導しようとしているのはないかと思わせるのである、秘書兼助手であったことを利用して情報操作しようとしているのではないかと思わせるのである。この感じ方には根拠があるのである。何故ならば、そのさもバルトが「『自然』神学」を容認したかのような・「『自然』神学」を容認しているようなブッシュの記述の顕著な例は、次の点にあるからである――それは、ブッシュが、『カール・バルトの生涯』で、バルトは、「当時しばしば彼の所に訪ねて来た人との意見の交換において、〔その思惟と語りからして、明らかにまさに「『自然』神学」の<段階>で滞し循環している〕〔あのまさに「『自然』神学」そのものの<段階>で思惟し語るエーバーハルト・ユンゲル〕を高く評価した」という記述をしているからである。もしもその記述と翻訳が本当で間違っていないとしたら、それは、甘く見積もって、ちょうどバルトが滝沢克己の<学業的な>ギリシャ語習得度の早さを褒めたように、ユンゲルの<学業的な>ヘーゲル哲学の習熟度を高く評価しただけであるということに違いないのである。それ以上でもそれ以下でもないに違いないのである。私は、<全く以て>、そう確信する。何故ならば、ユンゲルの『神の存在 バルト神学研究』の内容は、バルトの著作の全くの<一部分>の<一部分>のさらにその<一部分>から、彼の「『自然』神学」の論述のために役立つ都合の良いころだけを抜き出し、しかも彼の「『自然』神学」の論述のために<恣意的独断的に>都合のよいように抜き出して、ヘーゲル哲学の思惟と語りとハーバーマスの『事実性と妥当性』における社会学のテーマとを神学的に脚色するような仕方で論じられたそれであるからである。したがって、それは、フォイエルバッハから、その時には、「(中略)神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、〔類的機能を持つ自由な〕人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、〔その〕『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)と客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判されてしまう水準のものでしかないからである。もしもブッシュが『ローマ書』「第二版序言」からの一貫性をもって書いた最晩年のシュライエルマッハー選集への後書』(邦訳『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし 1968」)におけるバルト思惟と語りを本当に理解し、本当に自分のものとしていたならば、そのようなことはしないし、そのようなことはできないはずなのである。何故ならば、たとえ何箇所かだけであるとはいえ、そのようなことをしたならば、人々にバルトを誤解させ、バルトに迷惑がかかるからである。このことを考えると、ブッシュもまた、「明らかに〔バルトの最晩年の書の〕その前後数頁だけしか読んでいない」(『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし 1968」蘇光正「訳者あとがき」)ところで、『カール・バルトの生涯』を記述していたと言うことができるのである。

 

10.滝沢克己八木誠一北森嘉蔵

滝沢克己、マルクスの自然=人間の<立場>の自然哲学<と>人類史のアジア的段階における自然を内面の原理とする只管打座による身心脱落や自己放下における自然との合一(「無機的自然に近い状態」)に悟りをみた道元禅<と>「草木・……・山河・大地・大海皆是れ……仏なり」、「草木国土悉皆仏性」、「草木国土悉皆成仏」、山川草木を説いた天台本覚論に依拠したと思われる、未だ区別や分節化がされていない未分化のまま一切が包摂された総合状態、「無」規定の状態、形や色もない「無性」状態であり、それ故に一切の区別や規定や分節化の源泉でもあるところの自然や宇宙の概念と同質のものである滝沢の「根本的事実」、「インマヌエルの事実」、「『神われらとともにという事実の概念は、彼の学問的欲求を出自としており、それは、彼の類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された観念的生産物としての彼の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神の水準にそれであるまさに人間学的な概念のそれである。したがって、そこにおける神は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神ではないところのまさに「『自然神学段階におけるそれである――「もはやいかなるキリスト者も〔もはや第三の形態の神の言葉に属する教会の成員も〕、〔その最初の直接的な第一の、「聖礼典的な実在」としての「啓示の<しるし>」、すなわち「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である〕『聖書〔「聖礼典的な実在」としての「最初の起源的な支配的な<しるし>」、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕『イエスキリストという名を記憶している人たちさえももはやこの地上のどこにも残っていないとしてもそれでもなお、〔類的機能を持つ滝沢自身の自由な人間的理性が対象化し客体化した観念的生産物である彼の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」としての〕『神われらとともにという事実にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、〔彼自身の観念的生産物である「存在者レベルでの神」(偶像)としての〕神において永遠に決定されていることなのだ」(『滝沢克己著作集第二巻 カール・バルト研究』)。それに対して「『<非>自然』な神学」の<段階>で思惟し語るバルトのインマヌエル論は、次のようなものである――「神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉〔「啓示ないし和解の実在」そのものである起源的な第一の形態の神の言葉〕は、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である」と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、〔イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の総体的構造に基づいた〕この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれが〔第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証しとして、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが〔その聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによってイエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない」(『教義学要綱』)。

 

八木誠一は、滝沢克己を師と仰いでいるに違いないし、滝沢と同様に「『自然』神学」の<段階>における思惟と語りにおいて著わした『イエス』で、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、「自己自身である神」としての「三位一体の神」、それから「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)――このイエス・キリストの「まことの人間性」までも恣意的独断的に剥奪してしまって、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けたただの人でありただの人として自らを自覚しただの人の真実のあり方を告げた」と述べている。したがって、このような「『自然』神学」の段階で停滞している八木のキリスト教信仰は、人間学領域の吉本隆明からも、次のように疑義を投げかけられている(『現代思想11 一九七五年』「<新約思想をどうとらえるか>吉本隆明/八木誠一」)――吉本が八木に対して、キリスト教を「信仰することによって信仰していない者には見えない何か新しい地平線が見えると思うけれども、……そこをうまく開陳してみてくれませんか」と尋ねたことに対して、八木は、「かつての自分には見えなかったものが見えてきたことが二つある」とし、一つには、「観念的なものに重点を置いて、そっちが真実だと思っていた」が、「それはほんとは虚しいものなんだ」ということが見えて来た(このことは、おそらく八木が観念のリアリティの獲得の問題を、科学<主義>的にか歴史<主義>的にかその実証可能性においていることを意味していると思われる)、二つには、「エゴイズムに依拠して自分を確かめて自分を知り、たしかめ、また立てようとしていたことが明らかになった」(このことは、人は、個とその時間性としての現存性だけで生きるのではなく、不可避的な人間の類とその時間性としての歴史性の交点で生きることを自覚したことを意味していると思われる、あるいは人間の存在様式が均質ではないことに気づいたということを意味していると思われる、換言すれば個、対、共同性という人間存在の総体性に気づいたということを意味していると思われる)と答えている。この八木の答え方に対して、吉本は、「だけど今の八木さんの説明では、……あらゆる認識が、もし自分自身の体験、それから自分自身の資質というか、そういうものを全部根こそぎ動員して、認識と言うものを追究していくと出てくる問題と、あまり違わない」と疑義を呈し、「それ宗教〔信仰〕と関係あるかな〔それ人間学そのものではないのかな〕、ということですね。やはり納得できるように思いません」、と。

 

 北森嘉蔵は、東京神学大の教授であった大学神学者であり、同じ大学神学者の寺園喜基(『バルト神学の射程』)によれば、彼は、徹底したバルト批判者である」ということである。彼の「『神の痛みの神学において、福音の心とは神の痛みのことである」、「この痛みは、日本の庶民の『つらさ』や『痛み』に通底しているそれである」、このつらさは、他者を愛して生かすために、自分を苦しめ死なしめ、もしくは自己の愛する子を苦しめ死なしめる』」ところのそれである、「そのつらさや痛みは、浄瑠璃『菅原伝授手習鑑 寺子屋』における〔支配共同体の〕主君の子供を救うために、自分の息子を身代りに殺させた松王丸が、息子の死を聞いたときにいった、女房喜べ、悴は御役に立ったぞという言葉で表現できる」それである。言い換えれば、北森の神の痛みの神学、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し堅持しないところの、まさに「『自然』神学」の段階における「存在の類比」を<立場>としたところの、農耕を主たる経済的基盤とし自然を原理とする人類史のアジア的段階の日本における「ナショナルなもの」――すなわち「滅私奉公」的な人間の在り方<と>類的機能を持つ彼の自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された観念的生産物としての彼自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」としての「神の痛み」とを折衷させただけの<土俗的神学であるということが分かるのである。 

 

11.1928年エルサレム会議

 バルトは、『教会教義学 神論』において、次のように述べている――自然神学によって規定されている」「教育的――牧会的な問いに対する注意深い答え、「そこで問題となってくる実践の対象としての人間を念頭に置いてもその際自然神学が全く用いられない方がその対象の人間に対してもっともよい奉仕がなされるという結論に導く……」。何故ならば、「自然神学」は、「神論の基礎づけ」および「神の認識可能性についての理解」ならびに「教育的――牧会的な可能性」にとって「不可避的なもの」ではないからである、「自然神学によって規定されている教育的――牧会的な実践は、その事柄的な目標に関しても、その際、人間によって進み行かれるべき道に関しても、ほとんど信頼に値しない実践でしかない……」からである。「近代における異教徒に対する伝道は、確かに……キリスト教の使信を異教的な現存する思想と結びつけるために、あらゆる種類の自然神学を用いるべきだと信じた長い期間を背後に持っているしかし、異教徒に対する伝道は、それと関連して、決してよい経験を<しなかった>エルサレムの伝道会議(一九二八年三月-四月)の結末となった完全な混乱は、そのことの証人である」。

 

 因みに、19283-4月の「エルサレムの伝道会議」については、佐々木謙一「20世紀プロテスタント教会における他宗教への取り組み:第1回IMCから第3回IMCの宣教理念」(東北大学『東北宗教学』、2019/12/31)によれば、その会議において次のような議論がなされたということである――(ア)第三の形態の神の言葉に属する教会の「今日の宣教の目的は、非キリスト教である他宗教において、その長所を見ること彼ら自身の伝統の中にあるすべての長所を発見することである。そして他宗教が持ち続ける伝統的な長所や価値観を否定したりするようなことはしない。なぜなら、その他宗教の中にも神の権威である真理があると考えるからである。また私たちは科学者や芸術家の努力の成果である世界の世俗化も認める。なぜならそれらすべてがキリストによる世界への貢献であると考えるからである。世俗化はこの世の迷信や無知に引き起こされる世界のよくない状態を打ち破ってくれると考えている」、(イ)「われわれはイエス・キリストの中に、すべての人を照らす光が、その完全な輝きにおいて、照り出でている故に、キリストの知られていないところ、あるいは拒否されているとこにも、同じ光が射し込んでいることを、見出して喜ぶものである。われわれは、クリスチャンでない〔生来的な自然的な〕人々や諸体系の中にあるすべての高貴な資質をその御子を世に送り出し給うた父なる神は、いかなる場所においても、ご自身を証示し給わないことはないということの証拠として歓迎するものである」。

 

その議論においては、第三の形態の神の言葉に属する今日の宣教の目的」が、まさに「『自然』神学」に基づいて定められている。したがって、第三の形態の神の言葉に属する「今日の宣教の目的を遂行するにあたって、先ず以て、まさにそれは聖書のことであるが、第二の形態の神の言葉である<使徒>・パウロのわたしは神からいただいた恵みによって、〔第二の形態の神の言葉に属する<使徒>として〕熟練した建築家のように土台を据えましたそして〔第三の形態の神の言葉に属する〕他の人がその上に家を建てていますただ、〔「聖書こそが教会に宣教を義務づけている」その教会の宣教は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、その神の啓示、その神への信仰を対象としている限り、〕おのおのどのように建てるかに注意すべきです。〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストというすでに据えられている土台を無視して〔恣意的独断的に「わがまま勝手に」〕、だれもほかの土台を据えることはできません(Ⅰコリント310-11、およびエフェソ2・14-22参照)」と語られているところに置かれていない。したがってまた、「教会の宣教の目的、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>からして、その<総体的構造>の中での、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在しているところの、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれ人間は、神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」――このイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、客観的な「存在的な<ラチオ性>」)の関係と構造(秩序性)に連帯し連続し、その秩序性におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えずく繰り返し、聖書の聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白証し宣べ伝えという連関と循環においてイエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活けるヒトツノ聖ナル公同ノ教会共同性を目指して行くというところに置かれていない。したがってまた、その議論においては、「『自然』神学」の<立場>から、「非キリスト教である他宗教に……その長所を見ること」、「彼ら自身の伝統の中にあるすべての長所を発見すること」、「そして他宗教が持ち続ける伝統的な長所や価値観を否定したり……しない」ということに重点が置かれている。言い換えれば、「『自然』神学」の<立場>から、「今日の宣教の対象を、神とは異なる「実在全体」――すなわち、宇宙を含めた天然自然としての外界、自然の一部としての人間の自己<身体>、性としての他者<身体>、個体的自己としての全人間の身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己<身体>、性としての他者<身体>、宇宙を含めた天然自然としての外界、さらに言えば人間化された自然としての人間的自然)との相互規定的な対象的活動によって生み出されるところの人間的自然である人間の物質的および観念的な諸生産物(マルクス『経済学・哲学草稿』)としての存在者に置いている逆に言えば第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストあっての神としての神その神の啓示その神への信仰に置いていない。このような訳で、「『自然神学立場から発言している彼らは、<信>と<不信>を二元論的に分離し対立させている。したがって、彼らは、その最初から、第三の形態の神の言葉である教会に属するわれわれは、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」イエスキリスト信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「成就と執行、永遠的実在としてある」成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な「救済」そのもの、それ故に「平和に関するバルトの書簡」によれば「平和」そのもの、「神ご自身によって確立された和解、神と人間……また人間とその隣人との平和」そのもの)において>と<不信(外在的な不信および信仰の側にも内在する内在的不信)を架橋されたところのイエスキリスト、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエスキリスト自身――この一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派〔学派、教派、非キリスト教、思想傾向、時流、「同時代の人たちの思考の前提」や「そこから形成された理解の規準」、類的機能を持つ生来的自然的な自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」としてのさまざまな主義や主張〕に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉』)ということをよく理解していない」。どのような領域であれ、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している中で、自らの立場において両者を包括し止揚しなければならないということが思想的な問題>である」(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)ということをよく理解していない」。

 

 また、その会議では、父なる神が「ご自分を証示し給う……証拠としての」「クリスチャンでない〔生来的な自然的な〕人々〔の例えば知識的な道徳的な倫理的な高貴な資質〕や諸体系〔の高貴な資質〕」を「歓迎する」し、「科学者や芸術家〔すなわち、自然科学系および人文科学系の知識人〕の努力の成果である世界の世俗化も認める」ことが議論されたということであるが、そのことは、キリスト教的主観やあるいはキリスト教的組織が「認める」という問題ではない。何故ならば、例えば「諸体系」や「科学者や芸術家の努力の成果」は、生来的な自然的な個体的自己としての人間の類的な活動や生活における、生来的な自然的な個体的自己としての人間の歴史的行為における、生来的な自然的な個体的自己としての全人間の身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己<身体>、性としての他者<身体>、宇宙を含めた天然自然としての外界、さらに言えば人間化された自然としての人間的自然)との相互規定的な対象的活動によって生み出されるところの人間的自然としての人間の物質的および観念的な諸生産物のことであり、その<全体>の中の一部分であるからである「歴史の継起」としての個体的自己の成果の世代的総和のことであり、その<全体>の中の一部分であるからである。倉松功は、『ルターとバルト』で、「われわれの結論」でもあるとして、次のように述べている――「『ルターによれば文明の建設と発展は理性・知能の課題であり、全人類の課題であり、特定の宗教の特権ではないルターの二つの統治の区別は、かれの文明論の恒常的基礎である。その区別が人間の責任と活動の分野を自由にしている。(中略)被造物的・生物的現実……の中にわれわれに直接出逢う当為の要求が自然に存在する。その要求こそ心に記された理性の基本的規範である。ルターによれば、こうした文明の体系は全体として、神律的側面と相対的に自律的な側面とを持っている。神律的というのは、文明を担う諸力は神の恒常的創造者としての活動であるという意味……相対的に自律的だというのは、神の創造者としての働きは人間理性によって把握されるからであり、理性に基づく、人間の神との<共働の行為>は自発的に形成されるからである』」。「ルターによれば文明の建設と発展は理性・知能の課題であり、全人類の課題であり、特定の宗教の特権ではない」と意味ありげに述べているが、そのことは当たり前のことであり、それ故にもっと客観的な正当性と妥当性をもって言えば、経済社会構成の拡大・高度化、科学や技術の進歩・発達、その知識の細分化と増大、生活の利便性の向上等という「文明の建設と発展」は、自己<身体>として、性としての他者<身体>として、人間は自然の一部であるように、人類史も自然史の一部であり、その自然史の一部としての人類史の自然史的過程における<自然史的必然>としての自然史的成果である。その自然史的成果は、さまざまな観念諸形態を生み出すし、そしていったん生み出された観念はそれ自体の展開過程を持つのである。現在危機のただ中にあるとは言え、人類史の頂点における現存する<主たる>経済社会構成は資本主義であり、人類史の頂点における現存する文化はその水準に規定された西欧文化である、すなわち現在危機のただ中にあるとは言え、世界普遍性を獲得した西欧<近代>である、というように言うべきである。要するに、そのような議論の方向性は、結局、「『自然』神学」へと向かうところにあるのである。そして、その「『自然』神学」は、自分にとって都合の悪いことは真剣に取り扱おうとしないのである、耳を塞ぐのである。例えば、「『自然』神学」の<段階>で停滞した思惟と語りにおける神、神の啓示、神への信仰は、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間的な観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」に過ぎない、という客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的にキリスト教批判を行ったフォイエルバッハのキリスト教批判を真剣に受け止めようとはしないのである、耳を塞ぐのである。何故ならば、「『自然』神学」の<立場>においては、その客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的なキリスト教批判を、客観的な正当性と妥当性とをもって根本的に原理的に包括し止揚することは全くできないからである――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」、それ故に「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。〔何故ならば、〕理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」からである、それ故にその時「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、それ故にその時「(中略)神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した〔すなわち、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としてのその人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」から発生した〕……〔それ故に、その「存在者」レベルでのその神、その神の啓示、その神への信仰は、類的機能を持つ生来的な自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された彼の観念的生産物としての彼自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」である〕。(中略)こうして、この対象に即してもまた〔近代主義的自由主義的プロテスタント主義的なシュライエルマッハーの〕『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」ものである(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。その時には、例えば、ハイデッガーから、「……『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神を見失うこと……』……」であるから、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」、と客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判され「揶揄」されてしまうほかはないのである。このことが、「『自然』神学」の<段階>で停滞した思惟と語りをする神学者(例えば、ルドルフ・ブルトマン等々がそうであった)、聖職者、牧師、キリスト教的著述家には「よく理解できない」のである。 (文責:豊田忠義)