11.)<処女作の概念の確定と概念的にその)<本来的な意味でのバルトの処女作の確定について

 

)<処女作の概念の確定

 詩人であり文芸批評家であり思想家である吉本隆明は、<真の意味での処女作の概念について、『カール・マルクス』で、次のように述べている――「マルクスの思想体系は、二十代の半ばすぎ、1843年から44年にかけて完成したすがたをとっている。これは、『ユダヤ人問題によせて』、『ヘーゲル法哲学批判』、『経済学と哲学とにかんする手稿』〔『経済学・哲学草稿』〕によって象徴させることができる。もしも個人の生涯の思想が、処女作にむかって成熟し、本質的にそこですべての芽がでそろうものとすれば、これらはマルクスの真の意味での処女作であり、かれは生涯これをこえることはなかったといっていい」、と。このマルクスは、「宗教、法、国家という幻想性と幻想的な共同性〔「観念的な共同的形態」、「共同的な観念的形態」〕について考えつくし、ある意味でこの幻想性の起源でありながら、この幻想性と対立する〔――何故ならば、「『自然』神学」の段階における共同宗教としてのキリスト教は、政治的共同体がまだ整備されていない段階では、自己を至上のもの、第一義性、価値性と考える人間の自由な自己意識の表象であるが、政治的共同体が整備された政治的近代国家、自由主義国家、近代主義国家の段階においては、その共同宗教は、観念の共同性を本質とする国家の<法>を至上物と考える人間の自己意識の表象となって現われるからである。この完成された政治的近代国家、自由主義国家、近代主義国家における国家の問題は、観念の共同性を本質とする法的政治的国家と個別的私的具体的な生活の場である現実的な市民社会との対立の問題として現われるからである――〕市民社会の構造としての経済的カテゴリーの骨組みを定め、そしてこれらの考察の根源である彼自身の<自然>哲学を三位一体として……ひとつの体系を完結した」――このマルクスの完結した体系、「当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが理論〔言葉〕が彼を実践〔行為〕のほうへ必然的に>〔おのずから、自然に〕つれてゆくようにできあがっていた」。同様に、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に信頼し、キリストにあっての神としての神の特別啓示、特別啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、「『<非>自然』な神学」としての啓示神学に立脚した第三の形態の神の言葉である教会に属するバルトにおいては、その宣教における説教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における「言葉」と「行為」(それが社会的なそれであれ、政治的なそれであれ、その実践)は二元論的に対立しておらず、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、ある時代、ある世紀、ある時代と現実に強いられたところにおいて、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題)――換言すれば、純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要求・要請)である全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指してなされた「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから〔必然的に、自然に〕実践に、決断に、行動になって行った」のである。もしも東北学院大学の神学者佐藤司郎のようにただ>「エキュメニカル」、「エキュメニズム」、「エキュメニカル運動という側面でだけバルトの神学を扱うとしてもまさにここにバルトの神学におけるエキュメニカル」、「エキュメニズム」、「エキュメニカル運動の主調音があるのでありそれ以外のところにあるのではないすなわち後述する佐藤のエキュメニカル」、「エキュメニズム」、「エキュメニカル運動にあるのではない。バルトは、「『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書の聖霊〔すなわち、聖書の中で証しされている客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を贈り与える聖霊〕は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、〔おのずから、必然的に、自然に〕それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかった、という状況においてであった」と述べている(『カール・バルトの生涯』)。

 

 さて、『カール・バルトの生涯』を著わしたエーバハルト・ブッシュは、一方で「はじめに」おいて、表出と表現あるいは創造と享受という言語表現の享受の側面に依拠して、「バルトの生涯のさまざまな段階の中でどの段階が決定的な、最も重要な段階であるかという問いは、……問う者の関心やそれぞれの時代の精神によって違った答えが与えられるであろう〔百人百様の受け取り方があるであろう〕」、それ故に「ある人たちは、……ドイツ教会闘争へのバルトの参加が彼の伝記を解く鍵である」、「ある人たちは……弁証法神学の『青春時代』がその鍵である」、「ある人たちは……ザーヘンヴィル時代の活動にその鍵がある」と受け取るであろう、と述べている。このような、真の意味での処女作の概念の確定がなされないところでのブッシュの言葉だけに目をとめると、換言すればその生誕から死までの時代と現実を生きたバルトのある時空の一面だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化し絶対化して、換言すればバルトのある一面だけを拡大鏡にかけて全体化してバルトを論じた場合には、バルトのその生涯と神学をトータルに把握をすることはできないことは明らかである。

 

神学者佐藤司郎が興味関心のあるらしい「カール・バルトの『エキュメニカル』、『エキュメニズム』」についてのWeb上の彼の記事におけるその内容は全くバルトを誤解し誤謬し曲解したところの、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり、啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)に基づいていないところの、それ故に「聖書への絶対的信頼」に基づいて聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としないところの、それ故に主観的に、恣意的独断的に直接的無媒介的に起源的な第一の形態の神の言葉であるキリストに聞きつつなされるところの、換言すれば「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続するという媒介性反復性という観点を持たないところの諸教会の一致」、「諸教派の一致」、「信仰告白における一致運動のことであるこの佐藤は、やはりR・ボーレン以後の説教学の動向」というWeb上の記事で、当然のことながら、自らの立場において、「『自然』神学」を根本的に原理的に包括し止揚し得ていないところの、それ故に「『自然』神学」の段階から超え出ていないところの、それ故に「『自然』神学」の段階において思惟し語るところの、ルドルフ・ボーレン自身の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して対象化され客体化された彼自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」に過ぎないところの「<聖霊>論的説教論」の概念に依拠して、それ故に徹頭徹尾それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)に連帯し連続し、その秩序性における「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて聖書を自らの思惟と語りにおける原理規準法廷審判者支配者標準とするのではなくて、それ故に最善最良の第三の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教およびその一つの補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学の構成を目指そうとするのではなくてむしろ最後的には人間学を主とした人間学との「混合神学」・「人間学的神学」を目指すところの自然科学系や人文科学系の自由な学問、研究の場である「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)を守るために、近代的「人間の経験の尊重」(換言すれば、近代的人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)もということの方を強調している。このルドルフ・ボーレンに依拠した佐藤の立場では、バルトの『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』における客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>を包括することはできないのである、それ故に『教会教義学 神の言葉』におけるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」という事柄を包括することはできないのである、それ故に第二の存在の仕方における起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動という事柄を包括することはできないのである、それ故に三位一体の唯一の啓示の類比としての第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)という事柄を包括することはできないのである。したがって、佐藤のそれは、「カール・バルトのエキュメニカル」論では全くなくて、まさしく大学社会の神学者・佐藤自身の主張であって、まさしく「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」、その閉じられた大学社会においてだけ流通可能な、それ故に「誤謬に〔その観念の共同性を本質とする大学社会の〕普遍性と組織性の後光をかぶせて語ろうとする」(吉本隆明『カール・マルクス』)「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)における「エキュメニカル」、「エキュメニズム」、「エキュメニカル運動」論でしかないものである。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求することからして、バルト自身は次のように述べているからである――先ず以てまさに〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われに差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方イエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそまさにイエスキリストの中でこそ隠れた神は〔すなわち、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する「三位一体の神」としての神は〕、ご自身を把握できるものとし給うた」。このような訳で、「そのことは決して直接的にではなく間接的にである」(ヘーゲル的に言えば媒介的に、キルケゴール的に言えば反復的にである)、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」の前提条件であるところの客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、客観的な「その死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」・「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰〔信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に対してであるその本質の中においてではなく、〔その存在の仕方における〕<しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」、と。「自己自身である神としての三位相互内在性>」における三位一体の神のその内在的本質である神性が肉となったのではなくわれわれのための神としてのその外に向かっての外在的な第二の存在の仕方における「<言葉が肉となった>」――「これがすべてのしるしの最初の起源的な支配的なしるしである換言すればそれ、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたに過ぎない人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」では決してなくて、もっと包括的に言えば神とは異なる「実在全体」――すなわち、宇宙を含めた天然自然としての外界、自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、個体的自己としての全人間の身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動によって生み出されるところの人間化された自然としての人間的自然である人間の物質的および観念的な諸生産物(マルクス『経済学・哲学草稿』)ではなくて徹頭徹尾神の側の真実としてある、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉としての<「存在者」>〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのただイエスキリストのだけ」〕である。したがって、その「<最初の、起源的な、支配的なしるし>に基づいて」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的な<しるし>が存在する」。先ず以て「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的なしるし>」)であるイエスキリスト自身を起源とするその最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在としての第二の形態の神の言葉である聖書が、「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)においてその最初の直接的な第一の啓示のしるし>」として客観的に存在している、それから「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とした教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である教会の宣教啓示のしるし>」しるしとして客観的可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」)――このイエスキリストと地上における可視的なみ国」が客観的に存在している。これこそ神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について語ることができる偉大な可能性である

 

また、エーバハルト・ブッシュは、他方で表出と表現あるいは創造と享受という創造の側面に依拠して、バルトのその生涯におけるそれぞれの段階は、それぞれの「固有の重要性をもち、……それぞれの固有の認識を伴っている」としても、それらは、「相関性と連続性をもつ」とも述べている。したがって、<真の意味での処女作の概念>と<カール・バルトの真の意味での処女作>の確定をしたところで、それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられたところで著わされた主要著作からバルトの生涯と神学をトータルに把握することが重要なのである。このような訳で、<真の意味での処女作の概念>と<カール・バルトの真の意味での処女作>の確定をしないところで、二元論的に対立させて前期バルトだけを、あるいは二元論的に対立させて後期バルトだけを、あるいはバルトの一面だけを、あるいはバルトの著作のある一部分だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化し絶対化したところのバルト論は、バルトの生涯と神学をトータルに把握することをその最初から放棄してしまったバルト論である。それがバルト主義者であれ、反バルト主義者のそれであれ、中立バルト主義者のそれであれ、折衷バルト主義者のそれであれ、無関心バルト主義者のそれであれ、誰のそれであれ、大学社会におけるバルト研究はそれである。人間学的領域における詩人であり文芸批評家であり思想家である吉本隆明は、次のように述べている――「わたしは……『源氏』は原文で読まなければ判らないなどという迷信の世界を……無化したいと思った。『頭をひねりながら判読』してみても、たった二、三行すら正確には判読できない。また『ある程度以上のスピードで読める(正確に)』ような源氏研究者が現存するなどということを、まったくしんじていない」(『源氏物語論』)、「万巻の書を読んだという人もいるけれど、僕は全然そんなことはない。(中略)主な作品〔すなわち、主要な諸著作〕を読んでいくだけでも、……こういう作家かとおもうわけで、それは間違いなくイメージは湧きます。(中略)専門家といわれる人でも、誰か一人でもいいから全部ちゃんと読んだかと聞かれたら、それはあんまりいないと思います」(『幸福論』)。

 

さて、ブッシュの『カール・バルトの生涯』を読んでいて、最も気になったことは、第一に、彼が、<真の意味での処女作の概念の確定とカール・バルトの真の意味での処女作の確定を行っていない、という点である。第二には、それは、ブッシュが、何カ所かで<客観的なバルト自身の主要な書簡や著作に即さないところですなわち<主観的な>誰々がこうメモしていた・誰々がこう言っていたという類の資料に基づいてそれ故にバルト自身の神学のその全体像からしてバルト自身はそのようには決して思惟し語っていないことが明らかであるにも拘らず、ブッシュは、恣意的独断的にいかにもバルトが変節したかのような仕方で記述している、という点である、しかも「『<非>自然』な神学」としての啓示神学か「『自然』神学」かの分岐の問題に関わることについて、換言すれば根本的包括的な原理的な事柄に関わることについて、バルト自身の神学のその全体像からしてバルト自身はそのようには決して思惟し語っていないにも拘らずいかにもバルトが後者の方へと変節したかのような仕方で記述しているという点である。このような訳で、吉本隆明が述べているように、神学者や牧師やキリスト教的著述家の知識や情報を「そのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしない方が良い」のである。バルト主義者でもなく、反バルト主義者でもなく、中立バルト主義者でもなく、折衷バルト主義者でもなく、無関心バルト主義者でもなく、同じただの人間として本当のバルト者を目指すならば、すなわちバルトの主要著作に即してバルトの生涯と神学をトータルに把握しようとする者ならば、それがバルト自身の神学のその全体像からして根本的包括的な原理的な主要な内容の問題に関わる事柄である時には、最善最良の教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学を構成したバルトを人々に誤解させないために、バルトに迷惑をかけないようにさせるために、それがブッシュの記事であろうと、どのような大学神学者や牧師やキリスト教的著述家たちの記事であろうと、客観的な正当性と妥当性とをもって、それ故に自分自身でバルトの主要著作に即して検証し考察して、彼らの誤解や誤謬や曲解に対して、根本的包括的な原理的な批判を行った方がよいのである。教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)。

 

 そのような訳で、われわれは、真の意味での処女作の概念、吉本が述べているように、「個人の生涯の思想が、処女作にむかって成熟し、本質的にそこですべての芽がでそろうものであり、それ故に「かれは生涯これをこえることはなかった」というところで理解する

 

)<本来的な意味でのカールバルトの処女作の確定

「個人の生涯の思想が、処女作にむかって成熟し、本質的にそこですべての芽がでそろうもの」であり、それ故に「かれは、生涯それをこえることはなかった」という<真の意味での処女作の概念>に即して言うならば、バルトの処女作は、『ローマ書』「第二版序言以降の著作であると言うことができる(19219バルト35歳の時)。何故ならば、『ローマ書』「第二版序言」において、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の問題が明確に提起されたからであり、そしてこの<方式>は、それ以降の著作――すなわち、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』、『教会教義学』、『福音と律法』、『教義学要綱』、『神の人間性』、『福音主義神学入門』、最晩年の『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし 1968年」)に至るまで、堅持され貫徹されているからである。例えば、晩年の『神の人間性』では、次のように述べられている――「神の神性において〔換言すれば、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「三位一体の神」の内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性において〕、また神の神性と共にただちにまた神の人間性もわれわれに出会う〔換言すれば、ただちにまた「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にして(「神の顕現」)まことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」もわれわれに出会う〕」、それ故に「<第二の方向転換としての神の人間性の主文章化」は、「<第一の方向転換としての神の神性の主文章化」と二元論的に対立しておらず、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、あくまでもそれぞれの時代状況、その時代と現実に強いられた言表であることからして、その区別を包括した単一性において、「神の神性の主文章化」のその背後には「神の人間性」が保存されており、また「神の人間性の主文章化」のその背後には「神の神性」が保存されているそれである。すなわち、それぞれの時代、その時代と現実に強いられたところで、その区別を包括した単一性において、「神の神性」あるいは「神の人間性」が「中心部から周辺へ、強調された主文章からさほど強調されない副文章へ」と退いたりするだけなのである、それ故にキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は〔換言すれば、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し、その<方式>を堅持していないような人は〕、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」。したがって、ある教会の牧師がWeb上でバルトの「『神の人間性に見る後期バルトの神観について論じ、「バルトが語る神の人間性とはたとえ人間が神を神とすることを止めて自らを神とし神の敵として歩み始めたとしても、神は人間と関わりを持つことを決して拒まれないで、あくまでも苦難の中にうめいている人間と苦しみを共にすることを選ばれたということである」と書いた時その思惟と語りはバルト自身の神の人間性に対する全く以て大いなる誤解誤謬曲解に基づいたものに過ぎないそれなのである。また、『教義学要綱』(1946年の講演)においては、「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」と述べており、『バルトとの対話』において述べられている神のその都度の自由な恵みの神的決断による聖霊によって更新された人間の理性性も徹頭徹尾聖霊と同一ではないのである。また、逝去した年の最晩年の『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし 1968」)においてバルトははっきりとわたしは事柄そのものにおいて、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し堅持しないところの、それ故に「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態にある」ところの人間中心主義において神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見した「ヘーゲルの強力な痕跡」を持ち、それ故に「『自然』神学」の段階で思惟し語った近代主義的プロテスタント主義的神学者(自由主義的プロテスタント主義的神学者シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した。(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り自分は彼のそれとは全く違った道〔「『<非>自然』な神学」、啓示神学〕に踏みこみそれをあゆんでいかなければならないと思ったし今もそう思っているのであると述べている。しかし、それにも拘らず、このバルトの思惟と語りを全く無視して、換言すれば自分自身で邦訳「シュライエルマッハーとわたし 1968年」を読むことをしないで、全くただ誤解し誤謬し曲解している神学者か誰かの意見に乗っかかって、その人物が誰かは知らないが、最善最良の教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学を構成した「バルトを〔わざわざ〕人々に誤解させ、バルトに迷惑をかける」無記名で無責任な書き方をする知ったかぶりの人物がカールバルト――ウィキペディアWikpedia)』、「晩年の書簡の以下のような表現」、「私がもしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」、「また彼は敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった」、「したがって、彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言えるのであると全く以て出鱈目なことを書いているのである。このような訳で、『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳「シュライエルマッハーとわたし 1968年」)の翻訳者の蘇が、「訳者あとがき」で、バルトの「第三項の神学〔聖霊の神学〕という発言について、これをバルトの『転向』と誤解する者」は、換言すれば「近代神学への回帰」、復古と「誤解」し誤謬し曲解する者は(例えば、それが神学者や誰であれ、ウィキペディアの無記名の執筆者のような者たちは)、「明らかにその前後数頁だけしか読んでいないのである」と述べていることは、客観的な正当性と妥当性があることなのである。このことからしてもバルトの真の意味での処女作、「聖書の主題であり同時に哲学の要旨である神と人間との無限の質的差異を固守するという方式の問題を明確に提起したローマ書』「第二版序言以降と言えるのである

 

 さて、1911、バルトは、牧師としてザーフェンヴィル教会に赴任し、そこで、1921まで生き・生活し・喜怒哀楽し・思惟し・意志し・実践し・牧会し・神学した。この時期において重要なことは、バルトが、このザーフェンヴィル時代に、時代と現実が強いる問題に立ち向かう中で紆余曲折を経ながら、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」「時間と永遠との『無限の質的差別』」(神と人間との無限の質的差異)を固守するという<方式>の問題を明確に提起したところの<真の意味での処女作>、『ローマ書』「第二版序言」に向かって成熟して行ったところにある。ここで、その経緯を、『カール・バルトの生涯』に即して時系列的に辿ってみることにする。

 

 1907に出会ったクリストフ・ブルームハルトを契機として、「独自の力で自由主義〔近代主義〕のよどみの中から脱出した」と述べている。

1908、バルトは、マールブルクに移った。そこで、バルトは、「カント主義者であり初期シュライエルマッハーに依拠していたヴィルヘルム・ヘルマンの講演『われわれに対する神の啓示』を聞くと共に、レオンハルト・ラガツの『神は今日、社会主義において人間と出会う』というテーゼを聞いた」。しかし、バルトは、「ヘルマンをうのみにすることなく、〔ヘルマンを否定的に媒介してその〕キリスト中心主義だけを受けとめた」。ヘルマンの「神学は、古い自由主義神学からも、しかしまたあらゆる正統主義とあらゆる積極主義からも、確かに区別されるものでした。われわれも、この両側の神学に深い軽蔑の念をいだいていました。左に対しても右に対しても、われわれは自由だと感じていましたし、この両者の対立を超えて」、「狭い道を歩み始めていたのです」。この実感と認識の萌芽を持ちつつも、バルトは、まだなお依然として「シュライエルマッハーとリッチュルの示唆を受けて、キリスト教とは一方で歴史批評的に研究されるべき歴史上の現象であると共に、他方では優れて道徳的な性格をもった内面的体験の事柄であると解釈していた」。したがって、バルトは、「近代学派のマルティン・ラーデが責任編集する『キリスト教世界』にもどっぷりとつかってその編集助手となって働いた」――「私の学生生活の最後の時期に、私は当時の近代神学を信頼に満ちて承認することで、私の同時代の者のだれにも劣らなかった」。バルトは、「宗教的個人主義と歴史的相対主義」ということを主調音としていた「近代神学の自覚的支持者であった」と同時に、「トレルチに対して、のちに気づくように、彼の信仰論は、果てしのない、とりとめのない無駄話に終わってしまいそうなものでしかない」という実感と認識と自覚をも併せ持っていた。「『キリスト教世界』誌にかかわった私の年月のおかげで、シュライエルマッハーの時代の末期の空気と精神を十分に呼吸し、それに対して若き日の全面的な信頼を捧げたからこそそれから7年後には、シュライエルマッハーの時代はほんとうに終わったのだという発見をなし得たのでした」。

1909、バルトは、ジュネーヴの州教会所属のドイツ語教会の副牧師に就任した。バルトは、このジュネーヴの人々にも、「宗教的個人主義と歴史的相対主義を啓蒙し押しつけていた」――「私がジュネーヴの人たちに……押しつけたあらゆる歴史主義と個人主義については、あとからはずかしい思いにとらわれずにはおれませんでした〔もしも消し去ることができるなら、その思い出は、すべて消し去ってしまいたいものだと思った〕」、「私は当時信仰と歴史に関するかなり大きな論文を発表したが、これは今にして思えば、印刷されなかった方がよかった〔今そのことができ得るならば、その大きな論文の印刷するのを取り止めた方がよかった。私自身も、正直に言って、全くの推敲不足および整理不足を否むことができない拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』を全面的に書き換えられるのであれば、今すぐにでも、せめて現在なしているバルトの神学の<総体像>を客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に納得でき得る水準にまで明確化することができたと考えられる現在<再推敲>し<再整理>して掲載しているJimdofreeの私のホームページ(「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」)にある論稿と差し替えたいと切に思う〕」。すなわち、その時期のバルトは、「神を認識し得るより先に、まず自分自身を認識しなければなりませんという説教も行った」。また、なお依然として「『自然』神学」の段階で停滞し循環していたその時期のバルトは、『キリスト教信仰と歴史』において、自由主義的な恣意的自由の中で、「わがまま勝手に」「カントとシュライエルマッハーをくりかえして引用し、ゲーテとシラーまで保証人として言及し、〔第二の形態の神の言葉に属する〕パウロと並んで〔第三の形態の神の言葉に属するただの人間である〕アジアのアシジのフランチェスコとボールデンシュヴィング、ミケランジェロとベートーベンに至るまで『啓示の源泉』だと主張した」。したがって、その時期のバルトにおける神やその啓示やその信仰は、まさしくただの人間バルトの自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して対象化され客体化された人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」でしかなかった。

1911、バルトに「ショックを与えた出来事」は、次のようなことであった――すなわち、その出来事は、自由主義国家、近代主義国家は信教の自由を保障した政教分離の国家であるからそのことは当然のことであったが、自由主義国家、近代主義国家における「無思想な国の指導者たちの宗教に敬意を抱いているが」、「宗教によってわずらわされるのは御免だ、という発言であった」。バルトはその出来事によって、「徹底的な否定によって神の国の現実性を明らかにすること、これが今教会が何よりも先ず為すべきことであるということを学んだ」。同年にバルトは、「形而上学は神学にとって実りのない、しかも危険な企てであると述べて、「『神学における形而上学の再登場と批判的に対決した」。しかし、バルトは、なお依然として、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語り(行動)における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする自らの立場において、それらの問題を明確に提起するという仕方でではなく、バルトは、「牧会活動への集中から」、「自分の教会の中で具体的に目撃した階級対立によって、初めて現実の生活の持つ現実の問題性に触れること」になり、彼の「主な勉強」は、「自由神学の線にそった本来の研究の続行ではなく」、「工場法立法とか保険制度とか労働組合論といったものに向かい」、彼の「心」は、「労働者の側に立つ態度をとったことから引き起こされた、地域の、州内部における、激しい闘争へと引きこまれて行った」。このバルトは、「労働組合を結成せず低賃金の劣悪な労働環境における労働者に対して、理論を教え、実際の支援によって援助し、組織的な行動に導こうとした」。

1912、「父の死の床での言葉」――「主イエスを愛することが主要な事柄である。学問でも、教養でも、文献批評でもない。神との生きた結びつきが必要である。それを与えられるように、われわれは主なる神に祈り求めなければならない」。しかし、バルトは、神学的にもその思想においても未熟であった。そのことは、次のようなバルト自身の言葉によっても、よく知ることができる――「正しい社会主義は、今の社会主義者がやっているようなものではなく、イエスが実践したようなものである」、「イエスの人格の本来の内容は、社会・運動という二つの言葉に集約される」、それ故に「神の前に通用する精神は、社会主義的精神である」、「社会主義の諸要素は福音の適用の重要な部分である」。バルトは、「これらの諸要求に答えるために、〔外部注入的に大衆を啓蒙するという仕方で、〕労働者たちを政治的に教育し、啓蒙することによって応援するという形で参加しようとした」。この時期のバルトは、革命の構想を、「革命の過渡的問題」と「革命の究極的問題」というその全体性において持っていなかった、換言すれば革命の問題を「革命の過渡的問題」と「革命の究極的問題」というその全体性において明確に提起することができていなかった。それに対して、『ローマ書』「第二版序言」以降における1934年の『教会――活ける主の生ける教団』「証人としてのキリスト者」においては、バルトは、次のように述べている――「人間そのものは、キリストなしの人間は、破滅したものだということ以外の何を、語り得るであろう」と述べている。ここで、「破滅したものとは、多少破滅したものということではなくて」、「全く破滅したものだということである」、それ故に「キリストは、われわれを、われわれのために死ぬということ以外の仕方では、救い得給わなかった。われわれは、そういうことによって救われるという以外の仕方では、救われ得ないのである」、と。われわれは、キリスト者でなくても、自分が現に身近に接している「食物の飢え」等で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって過渡的・緊急的・相対的に救済することはできる。「人の苦しんでいるのを、われわれが実際に見る場合には、当然われわれは、助けを待ち設ける」。しかし、この飢餓で困窮している人たちを目前にして食糧を提供することは、救済の思想にとっては過渡的・緊急的・相対的な救済に属している、換言すれば究極的包括的総体的永遠的な救済に属していない、それ故に救済の問題は過渡的・緊急的・相対的な救済と究極的包括的永遠的な救済というその全体性において明確に提起しなければならないのである。「私はかつては、宗教社会主義者であった。そして、それから離れたのである。それは、そこでは人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書〔すなわち、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」イエス・キリストにおいて成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、この包括的な救済概念は平和の概念と同じである――「平和に関するバルトの書簡」、マタイ266以下およびマルコ143以下、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農業芸術概論綱要』)、「全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならない」(『よだかの星』)という思惟と語りには客観的な正当性と妥当性があるのである〕が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されていないということを、見るように思ったからである」。

 19148第一次世界大戦が勃発した。そして、ザーフェンヴィルの住民たちも、「多数『国境警備』に召集された」。バルトも、「何回か、夜間に小銃で武装して『村の警備』」にあたった。この時、「ドイツにおける先生たちのほとんど全部」を含めて「九三人のドイツの知識人」は、皇帝ヴィルヘルム二世とその首相ベートマン=ホルヴェークの戦争政策への支持を表明した。この戦争イデオロギーへの倫理的屈伏によって、彼らの聖書釈義や教義学」、「倫理学」、「説教の世界全体が、根底から崩されることになった」。このことを契機に、「バルトの批判は、……十九世紀の神学全体にまで及ぶようになり、ついにシュライエルマッハーにまで達した。「ドイツ社会民主党」も、「戦争イデオロギーに屈服した」。しかし、バルトは、その「社会民主党に対する批判を行った」が、1915年入党する。何故ならば、その当時のバルトは「大戦勃発後、キリスト教と社会主義のどちらも、『改革』を必要としており、……『真のキリスト者は社会主義者にならなければならない』……真の社会主義者はキリスト者でなければならない」というように考えていたからである。

しかし、19151115、バルトは、「バーゼルで『戦争の時代と神の国』と題して講演を行った」――この講演は、「聖書の主題であり同時に哲学の要旨である神と人間との無限の質的差異を固守するという方式の問題を明確に提起した真の意味での処女作『ローマ書』「第二版序言」の完成へと向かって成熟していく萌芽と言うことができる。何故ならば、その講演は確信をもって人間的な改革の試みや世俗内の領域からは、なにも新しいものは期待し得ないということを認識し自覚したものだったからである――神とは全く異なる人間の「世界は〔全く以て人間の〕世界である」。しかし、この当時のバルトは、「『自然』神学」の段階における思惟と語り<と>「『<非>自然』な神学」の段階における思惟と語りが混在しており、一方で、「政治的牧師というものを、どのような形にせよ、たとい社会主義的なものであっても、誤りだと考えていた」が、他方では、まだ「社会主義を現に働いている神の国の……しるしの一つと考えていた」。この当時のバルトは、「人間として、また市民としては……社会主義の側に立っていた」。しかし、この「社会主義」という概念が、現実的な社会を第一義・価値とする社会主義であるならば、客観的な正当性と妥当性とをもった考え方であり首肯することができるとしても、もしもその社会主義という概念が、観念の共同性を本質とする国家に第一義性・価値性を置く<国家主義的>的な自由主義国家と同じように、例えばロシアや中国のような観念の共同性を本質とする国家に第一義性・価値性を置く<国家主義的>社会主義であるならば、首肯することはできないものである。したがって、『ローマ書』「第二版序言」以降の42歳から72歳までの期間について語られている『バルト自伝においてはバルトは、「われわれが最も激しく非難する全体的非人間的強制にしても遠い昔から西方の自称自由社会や自由国家にもほかの形で出没したことはなかったであろうか」と述べており、この時期のバルトは、自由主義社会や自由主義国家からも対象的になって距離を取っていることを知ることができる。また、『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』においては、「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的、倫理的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」と述べている。また、『啓示・教会・神学』においては、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている。国家は支配であり、文化は支配である。したがって、どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」と述べている。それからまた、『教会教義学 神の言葉』においては、「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革とか、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、〔社会的、政治的な実践とか〕、〔大学神学者・佐藤司郎のように、「エキュメニカル」、「エキュメニズ」、「エキュメニカル運動」等〕国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」時、「また宣教の規準を、聖書と同時に、最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断あるいは哲学、道徳、政治等に置く」時、「また特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合おうとする」時、「また正しい注釈を、最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」時、第三の形態の神の言葉に属する「教会の宣教をより危険なものにしてしまうと述べている〔例えば、大学神学者・佐藤司郎のように、「エキュメニカル」、「エキュメニズム」、「エキュメニカル運動」等「国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」時、「教会の宣教をより危険なものにしてしまう」のは、第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの補助的機能としての神学の問題はそこにはないからである。このことについては、この論稿の最初の段落にあるバルト自身の神学からする佐藤の主張に対する批判的な指摘を参照されたし。ここでの神学における思想の問題は、吉本隆明が、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している中で、自らの立場において、両者を包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である」と述べているように、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、特別啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、「『<非>自然』な神学」としての啓示神学に立脚するという、それ故に「聖書への絶対的信頼」に基づいて聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とするというまさに「<自らの立場>において、両者を包括し止揚しなければならない」という点にある〕。

1916、「一つの『宗教哲学』の形成という形で、さらに先に進まなければならないのではないかと自問していた」バルトは、ヘルマン・クッターと出会い、後になって彼を<否定的に>媒介することになるという意味で、彼に「決定的な影響を受けた」。バルトは、クッターを通して、「社会運動と平和運動に熱心なレオンハルト・ラガツのいたグループと接触する」。「このクッターとラガツが、1906年にスイスの宗教社会主義運動を発足させた人物である」。その機関誌は『新しい道』で、その体系は、「教会は社会主義が、神の国の先行現象であるとの態度決定すべきだという理論にあった」。この体系的思考に対しては、バルトもトゥルナイゼンも反対したが、しかし、一方で、バルトは、スイスにおける社会民主主義の実現の必要性も論じた。また、バルトは、『新しい道』誌に、「資本主義の『罪悪』は神なしの世界の指標である」という見解も載せている。しかし、このバルトの「資本主義の『罪悪』」という人間学的見解は、恣意的であると言うことができる。何故ならば、客観的には、それが<良きもの>であれ<悪しきもの>であれ、人類史の西欧近代の段階(西欧的段階)における資本主義(バルトの言う「罪悪」を持つ資本主義)の発生は、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果であるからである――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(『資本論』「第1版の序文」)。さらに言えば、ミシェル・フーコーは、次のように述べている――マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒んだ」。何故ならば、資本主義的生産は、「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである。すなわち、資本主義は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである(『ミシェル・フーコー』「セックスと権力」)。さらに言えば、吉本は、次のように述べている――人類史の尖端性としてある西欧近代の段階(西欧的段階)における「資本主義が悪や欠陥を持っていることは、制度的必然として原理的に自明なことである」。しかし、「資本主義は人類の歴史の無意識〔自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然〕の生んだ……最高の出来栄えの作品〔自然史的成果〕である〔それ故に、資本主義は、キリスト教的著述家の佐藤優が、『希望の資本論』で、知ったかぶりして語っていたような<偶然的な>産物では全くないのである〕」。したがって、「資本主義が産みだした文明も文化も人類の最高の作品である」。したがってまた、資本主義には「悪」と「欠陥」、搾取、貧困があるから(社会に貧困格差が現存する時、それは、国家支配上層の政府・政権の政策の失敗が原因であり彼らの責任の問題であるから、貧困格差の問題は、国家支配上層の政府・政権の問題としてあるものである)、資本主義が産みだした「文明や文化や商品も悪で欠陥があると資本主義を批判しその文化や文明や商品を批判しても、その最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない」。このような訳で、その根拠を揺るがし資本主義を超えるためには、資本主義そのものとその資本主義が生み出した文明や文化や商品を包括し止揚する以外にはないのである。したがって、第一に、還相的な究極的総体的永続的な課題として、資本主義を包括し止揚し克服するためには、資本制的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を構成しなければならないのである、新たな生産様式を明確に提起しなければならないのである。その可能性は、世界普遍性としてある人類史の原型・母型・母胎であるアフリカ的段階(例えば、日本で言えば縄文的段階等々)にまで時間を遡及して、その段階における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明に基づくその再構成にある。すなわち、「民族国家の枠組みを超えた世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制の構成、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論の構成にある」。それができれば、経済社会構成を資本主義におく西欧近代の段階を超え出て、次の段階へと超出することができる。また、往相的な過渡的緊急的相対的課題としては、資本主義的文化であっても、その優れた点については評価すべきであるから、創造的な批判は、それを包括し止揚してそれを超えた文化を創造する以外にはないのである(『マルクス―読みかえの方法』)。

同じ1916、この年の説教において、「神学する姿勢に対する根底的な転換を果たした」。それは、「神は神であることを承認すること」、「神について語ることの原理的な困難さの認識は、すでにそれだけで神についての正当な認識である」ということを認識し自覚した点にある。したがって、この根底的な転換と並行して、バルトは、「ますます宗教社会主義のグループから遠ざかって行った」。彼は、「神学のABCを改めて学び直す」試み、具体的には「旧・新約聖書を講読し、注解することからやり直す試みにより、見よ、聖書の各書がわれわれに向かって語り始めたのである――しかも、当時の近代神学学派〔自由主義神学学派、近代主義的プロテスタント主義的神学学派〕の中で聖書が語るのを聞かねばならないとわれわれが考えていたのとは、まったく違った形で語り始めたのである」。彼は、ローマ書と取り組み、読みに読み、書きに書いた」。それは、「博士論文としてでもなく、売る目的のためでもなく、ただ自分のために書いた」。近代主義的プロテスタント主義的キリスト教的な教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学の自縛から自分を解放するために、自己解放のために書いた。しかし、このことは、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教的な教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学におけるわれわれの敵対者たちから〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である使徒・〕パウロを奪いかえすために書くようにして書いた」ということを意味していた。その時、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である使徒パウロが……聖書の証言の真理性と明証性への導き手となったここで、バルトは、シュライエルマッハーからも、マールブルク時代の教師たちからも、ラガツ宗教社会主義からも、ようやく「離反することができた」。「初めて大声で」、「もはや〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を止揚し後景へと退けた人間中心主義的な「自己への信頼としての自信自恃の哲学」を構成したところの、すなわち神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見したところの「『自然』神学」の最高峰の「ヘーゲルの強力な痕跡」(『ヘーゲル』)を持った近代主義的プロテスタント主義的神学者の〕シュライエルマッハーを信頼することはできないと、……語った

 1917、この年の講演『聖書における新しい世界』では、バルトは、「聖書においては、『歴史』ではなく、道徳でもなく、宗教でもなく、一つのまったく新しい世界、神についての人間の正しい思想ではなく、人間についての神の正しい思想が姿を現わした」と述べた。そして、この年の末には、「宗教社会主義運動から脱退した。この年に勃発したロシア革命の問題点について、バルトは、第一に、プロレタリア独裁は階級制廃止と矛盾する(何故ならば、その概念は、制度としてのプロレタリア階級概念よりも規模の大きい社会的存在の自然基底としての時代と共に変容する<大衆の原像>の概念を包括することができないからである)、第二に、前衛・職業革命家による独裁・一党独裁は中央集権化を惹き起こす(何故ならば、それは、現実的な社会を第一義・価値とする社会主義の構成を目指すことをせず、観念の共同性を本質とする国家を第一義・価値とする<国家主義的>社会主義を目指すものに過ぎないからである。このことは観念の共同性を本質とする国家を第一義・価値とする自由主義国家、近代主義国家も同じである)、第三に、民主主義の持つ欠陥は民主主義の廃止によっては改善されないと述べている(何故ならば、革命の究極的問題は、観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う、個体的自己としての全人間の現実的社会的な全体的解放にあるのだが、人間の観念的政治的な部分的解放としてある革命の過渡的課題としては、<擬制>民主主義にしか過ぎない現存する議会制民主主義の欠陥を改善するために、先ず以て大多数の被支配としての一般国民の生と生活の維持・安全に直接関わる重要な政策の決定、その法案の採決に関しては、国家(具体的には、政府、政権)を、どこまでも大多数の被支配としての一般国民に開いていくために、<国民投票>に付しその過半数の賛成を必要とするという憲法規定が必要だからである)。

1918、この年の講演『社会におけるキリスト者』で、バルトは、「キリスト御自身つまり神の国は、あらゆる既成のものに先立つように、あらゆる革命にも先立つ革命である」と述べて、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるまことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリストを、宗教社会主義に、社会民主主義に、絶対平和主義に、教養ある人たちの自由主義等人間のお好み次第に世俗化することに対して、否定をつきつけた

1919、この年の講演『キリスト教的生活』においては、神の国の絶対他者性が明確化された――第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の国は神の国である。われわれは、〔「人間が人間自身の力によって認識し得る」、すなわち生来的な自然的な人間の感情、悟性、理性、想像力に応じて認識し得るところの「絶対的な存在のようなもの」、「絶対に自由な力の精髄」、「一切の事物を超越する精髄」――このような「絶対的な最高の存在」、「究極最深のもの」、「物自体」等々〕神的なもののアナロギアから人間的現実への移行というものをどれだけラディカルに考えても十分だとはいえない」、新しいエルサレルは、新しいスイスとか革命によって実現される未来国家などとは、なんの関係もない〔それ故に、自由を原理とする西欧近代を人類史の頂点とするヘーゲルの歴史哲学に依拠したモルトマンのような神学的な三段階的進歩史観はあり得ない〕。むしろ新しいエルサレムは、その時〔終末、復活されたキリストの再臨、「完成」〕が来ると、神の偉大な自由によって地上に到来するのである。言い換えれば、その時には、われわれ人間が構成したどのような国家形態であれ、すべての国家は、完全に徹底的に無化される。

 1920、バルトは、さらにまた『ローマ書』「第1版序言〔1918年〕において展開した考え方を、さまざまな観点から、集中的研究によって新しく批判的に再検討した」。何故ならば、当時バルトは、「コリント第Ⅱの連続説教において、『ローマ書』におけるユニバーサリスト的見解に反して」、「まだキルケゴール的な単独者の概念や啓示の弁証を展開していたからである」――「光は喜びを与えるとともに目をくらませる。風は、爽快にするとともに寒さにふるえ上がらせる」、「神関係は自由な関係である。それは、前もってすべての人にかかわるのではなく、先ず第一に単独者にのみかかわる」。確かにこの時には、バルトにとって、シュライエルマッハーはすでに破綻した役立たずの神学者でしかなかったハルナックもそうでしかなかった。そうした中で、バルトは、キルケゴールを否定的に媒介することによって、神と人間との無限の質的差異を固守するという方式を手に入れたのである。そして、その<方式>を手に入れて以降は、最後の最後までそれを堅持し続けたのである。すなわち、バルトは、キルケゴールが、信仰としても、文学としても、思想としても、軽薄な「あまりにも安っぽいキリスト教的性格と教会的性格に対して、福音の絶対的要求と、自分自身の決断において福音に従う必要性を主張し、単独者と個人救済主義」を前景へ押し出し強調したことに対しては、「神の自由な恵みの福音を述べ伝え、説き明かすことが問題であるとすれば、神の民、教団、教会、その奉仕と宣教の任務、その〔不可避的な〕政治的・社会的課題」を後景へ退けてしまうそのキルケゴールの思惟と語りをそのまま受け入れることはできなかったのである。したがって、バルトは、キルケゴールの単独者」や「個人救済主義の概念を払拭して行ったキルケゴールの「単独者」や「個人救済主義」については、ホームページ「カール・バルト(その生涯と神学の総体像)」の「カール・バルトの言説集」の「カール・バルトとキルケゴール」を参照されたし)。例えば、次のようにである――「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題ではある」が、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に〔第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である〕教団において、イエス・キリストの聖霊の業〔詳しく言えば、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」の前提条件であるところの、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)の中での「主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕として遂行される」、と述べている(『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/1』)。また、バルトは確信をもって、「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見していないだけである〔換言すれば、ただ、彼は、そのことを認識し信仰していないだけである〕」と述べている(『バルトとの対話』)。ただ、彼は、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、そのことを発見する時が来るに違いないのである。

 

バルトは、『ローマ書』「第一版根本的に新しく書き直す決心をし1920年の秋から1921年の夏までに、<真の意味での処女作、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、「聖書への絶対的信頼」に基づいて自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において〔純粋な教えとしての〕『教義そのもの』を尋ね求める」(『啓示・教会・神学』)ところの、キリストにあっての神の特別啓示特別啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、「『<自然な神学としての啓示神学の重要な構成要素である聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である神と人間との無限の質的差異を固守するという方式の問題を明確に提起したローマ書』「第二版を完成させたのである(このことからして、晩年の『神の人間性』における「<第一の方向転換>としての神の神性の主文章化」は、『ローマ書』「第二版」における方向転換のことであることは明らかである)。トゥルナイゼンは、「日ましに出来上がって行く原稿の初めから終わりまで深くかかわり協力した。それは、共同作業といってもよかった」。トゥルナイゼンは、「内容を深め、説明をより明快にし、意味を鮮明にする数多くの書き込みをした」。バルトは、その「ほとんどすべてを、そのまま受け入れた」。このようにして、聖書の主題であり同時に哲学の要旨である神と人間との無限の質的差異を固守する方式の問題を明確に提起したローマ書』「第二版序言」(『ローマ書』「第二版」)以降はバルトの神学から、「汎神論的色彩は消えた〔包括的に言えば、「『自然』神学」の色彩は消えた〕」。この『ローマ書』「第二版」は、「十九世紀とその世紀末の神学より優れた神学を導入するという試みであり、前世紀の自由主義神学〔近代主義神学〕と積極主義神学が、神をもはや神として承認していないことに対する徹底的批判であった」。「聖書の主題は、われわれが学んできた文献批評的釈義や信仰的釈義に反して、人間の宗教や宗教的道徳ではなく」、またへーゲルの言う人間に内在する神的本質というような「人間自身の隠れた神性でもなく」、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての神の神性であった――「神! われわれは、この言葉によってなにを言っているのか知らない。信仰者は、われわれがそれを知らないことを知っている」。すなわち、聖書の主題、自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙をふくめた天然自然としての外界――この自然の世界に対立するだけでなく、〔人間の自由な内面の無限性、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能、われわれ人間の〕精神の世界にも対立する神の自主性と独自性〔換言すれば、「神の独立性」としての「外的条件づけからの神の自由に相対しても自由である」ところの、すなわち「すべての外的被制約性からの神の自由に相対しても自由である」ところの「神の自存性としての神の自由」・「自存性としての神の自由」<と>「神の独立性」としての「外的条件づけからの神の自由」・「すべての外的被制約性からの神の自由」〕、つまり、特に人間に対する関係における神のまったく独自な存在と力と主導権である

 <真の意味での処女作であるローマ書』「第二版」の「あとにはなにがくるのか? 現実と時代とがかれに強いたものが、ひとつの思想の展開としてやってくる」(吉本『カール・マルクス』)。バルトにおいては、それは、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』の展開として、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』の展開として、『福音と律法』の展開として、『教会教義学』の展開として、『神の人間性』の展開として、最晩年の『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし 1968年」)等としてやってくる。したがって、バルト自身、「このザーフェンヴィル時代に……〔処女作にむかって成熟し、本質的にそこですべての芽がでそろい、そして生涯これをこえることはなかった真の意味での処女作>と言うことができる『ローマ書』「第二版の完成において、〕私の道の決定的な本質的転換〔『神の人間性』によれば、区別を包括した単一性において、「第二の方向転換」としての「神の人間性の主文章化」を包括した「第一の方向転換」としての「神の神性の主文章化」〕が起こったこの方向転換によって私のその後の外面的な経過も決定されることになったと述べている。

 バルトは、192110、ザーフェンヴィル教会で「退任説教」をし、ゲッティンゲンへ向けて出発するのであるが、そのことは、バルトにとって、神学者として、また神学における思想家として、キリスト教に固有な起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における「『自然』神学」の問題、その一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における「『自然』神学」の問題を明確に提起することによって、その問題を根本的包括的に原理的に止揚し克服して行く道へと踏み込むことを意味していた。何故ならば、バルトは、次のように述べているからである――「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し堅持しないところの世俗化された教会においては、「われわれは、神を『信じ』つつ、実はわれわれ自身を義とし、享楽し、崇拝している。……われわれの敬虔は、あらゆる仕方で謙虚と感動を表しながら、実は神御自身に逆らうことをその本質とする。われわれは時間を永遠と混同する。それがわれわれの不逞である。そしてそれが、キリストを除外した場合の、すなわち復活の此岸における、ないしはわれわれが糾正されない先の、われわれの対神関係である。この場合、神自身は〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神と認められず、神と称するものは、実際には人間自身なのである〔何故ならば、この場合、神自身は神と認められず、神と称するものは、実際には類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」であり、それ故に「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」からである〕」、と(『ローマ書』)。

 

 あの時代、あの時代と現実に強いられた「パウロは、その時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は〔Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下からして、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である使徒として、すなわち〕神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」、「理解を志すかぎり、私は文書自体に関する謎はもはやほとんど解消して、ただ主題的内容に関する謎だけが問題になる、というような境域にまで突進しなければならない」、「パウロはローマ書の中で本当にイエス・キリストのことを語ったのであり、それ以外の何かについて語ったのではない……」、「パウロ」が、人間自身に巣食う、その世に巣食う、そして特に近代以降のそれに巣食う、もっと言えば神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見した「『自然』神学」の最高峰のヘーゲル以降のそれに巣食う「時間と永遠との恒常的危機」以外の何かについて語っているなら、「本当にパウロが時間と永遠との恒常的危機以外の何かについて語っているなら」、「パウロのテキスト自体が進展してゆくうちに、私はみずから不条理に陥ることであろう」、「また……もし人々がパウロの名のもとに、表面はイエス・キリストを説きながら、実は〔類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やに由った対象化され客体化された人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」としての〕絶対的な相対物や相対的な絶対物から成る全くの人智学的混沌〔包括的に言えば、「『自然』神学」的混乱〕を説くとすれば、それこそパウロを歪めるというものである……」、「人々はテキストに対する私のこの態度を聖書主義と呼んだ。(中略)私について指摘しうる『聖書主義』なるものは、『聖書は良書であり、聖書の思想を少なくとも自分自身の思想と同じほど真剣に取り扱う人はそれだけの利益を受ける』という先入見を私がもっているということに帰する、と言ってよかろう」、と述べている(『ローマ書』)。このことは、本当のことである。何故ならば、人間学領域における言葉の専門家である太宰治や吉本隆明も、次のように述べているからである――「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも聖書の言葉だけは胸にひびく本当にたいしたものだ」(『正義と微笑』)、「……<奇跡>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流の言葉〔詩、文芸批評、思想の言葉〕でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけですしかし言葉としての聖書というのは信仰の書として読んでも文学書として読んでもあるいは思想の書として読んでもどんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすればこれは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉がそのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければやっぱり感ずるということはないとおもうんです」(『<非知>――<信>の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」)、「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということはいまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。〔したがって、〕じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(『敗北の構造』「南島論」)。(文責:豊田忠義)