4.キリストにあっての<神の愛>について

 

「三位一体の根本命題に即して理解すれば」、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする聖霊(聖霊なる神)は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中で三度目に、「神的愛に基づく父と子の交わりから生じる一つの存在の仕方である」、すなわち神的愛に基づく起源的な第一の存在の仕方である<父>――すなわち「啓示者」・言葉の語り手・創造者<と>第二の存在の仕方である<子>――すなわち「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者の交わりから生じる第三の存在の仕方、換言すれば聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――すなわち「啓示されてあること」・「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「聖礼典的な実在」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者である。したがって、この第三の存在の仕方である聖霊は、「父と子の啓示に対する特別な第二の啓示ではない」。すなわち、聖霊は、父なる神と子なる神の愛の霊である」。ここに、「聖霊の起源がある」。この「聖霊において、父と子は、神的愛に基づく完全な共存的な交わりの中にある」。すなわち、「聖霊は、神的愛に基づく完全な共存的な交わりの中で、父は子の父、言葉の語り手〔「啓示者」〕であり、子は父の子、語り手の言葉〔「啓示」、起源的な第一の形態の神の言葉〕であるところの行為〔・働き・業・行動・性質、「啓示されてあること」〕である」。ここに、「神は愛、愛は神であることの起源」がある。愛は神にとって、最高の法則であり、聖霊は、〔神的愛に基づく起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」としての<父>と第二の存在の仕方である「啓示」としての<子>の交わりとしての第三の存在の仕方、「啓示されてあること」として〕最後的な実在である」。「愛は、自由、主権がそうであるように、神ご自身においてのみ実在であり真理である」。「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする聖霊(聖霊なる神)は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度目」の最後的な第三の存在の仕方として、「神にとって最高の法則〔父なる神と子なる神の愛の霊、神的な愛〕であって、神的愛に基づく父と子の交わりであり、神と人間との交わりの根拠である」。このような訳で、われわれは、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)を前提条件としたところの、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて持つことができる。したがって、われわれは、その時、その「啓示の事実を、ただ承認し確認できるだけである」。父と子より出ずる御霊」――これは、「聖霊の神性の定義である」。この「聖霊は、復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」。この客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての聖霊は、客観的な啓示への個人的な参与を保証するパウロにおいて霊にあってとは救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊」、「知恵と啓示の霊による神の啓示への参与、すなわち「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいた「人間の思惟、行為、語ることを、<主観的に表示している概念である」。またキリストにあってとは、客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」と全く同じ事柄を、<客観的に表示している概念である」。神は愛である愛は神である」、この神は愛し給う――これが、「自己自身である神」としての「三位一体の神の存在の特別な現実性」、「われわれのための神」としての「神の行為あるいは神の生〔父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体〕……の内容である」、換言すれば神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在の内容である、父、子、聖霊という「三位一体の神の名の啓示の中で明らかにされている神の本性神の本質である」。

 

われわれは、「神の存在」を、換言すれば神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在、「自分自身から生きる存在〔自存的な存在〕として理解した」。したがって、神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在を、すなわち「神が愛し給うことをそれ自身の故に愛する愛〔自存的な愛〕として」、「無条件的な自分で自分の根拠と目的を措定する徹頭徹尾主権的な愛することとして理解した」。自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な自存的な愛として理解した。「この精密規定なしには」、すなわちキリストにあっての神としての神は「生き、愛し給うという<独一無比性>についての表示なしには」、われわれは、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において神が生き愛し給うということではなく」、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としてその人間の意味世界・物語世界について、「一般的に生きることと愛することについて語っているのであって」第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神については語っていないことになる」。まさに「この精密規定は、……自由という概念によって与えられている」。「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)において「生きる方愛する方としての神の存在は自由の中での神の存在である」。そのように「自由に、神は生き愛し給う。神は、自由の中で生き、愛し給うという仕方で、またそのことの中で、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする〕三位一体の神でありご自身をそのほかの生ける者愛する者から区別し給うそのような仕方で、〔「われわれのための神」として〕自由な人格〔「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」〕」として、「自己自身である神」としての「三相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」――すなわち<われ――存在>として、「神はご自身をその他の人格から区別し給う」。

 

「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の根源(・起源)としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として〔すなわち、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する神として〕自分自身が根源であり、〔それ故に〕その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊は、父と子が根源である」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、「自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神として、「ご自身の中で〔自己自身の中で〕聖霊であることによってご自身の中で〔自己自身の中で〕生き給う方愛し給う方」、それ故に「ただ一人の方である」――したがってわれわれは、「常にこの神を聖霊として認識することによってこの神を、〔「われわれのための神としてのその外に向かっての外在的な失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)においてわれわれを愛する方として」、換言すれば父聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体としてそれ故にわれわれに出会いわれわれに対して汝と呼びかけ働きかけ給うところの一人の方〔「自己自身である神」としての「三位一体の神」〕として認識するのである」。

 

 「人が、〔聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「自己自身である神」としての「三位一体の神」の〕「隠サレタ神の崇高さ、主権、尊厳性、神聖さ、栄光」、「神の『超越性』と呼ぶもの」――「それらすべて」は、「まさに顕ワサレタ神のこの自己規定〔・自己認識・自己理解〕、神が生きることと愛することの、神の人格の〔換言すれば、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」――すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体の〕、この自由以外の何であろうか」。したがって、われわれは、「神の愛の性質のすべての精密規定を、神の愛の神性、すなわちその崇高さを考慮しないでは遂行することができない」ように、「逆に、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における〕そのすべての性質の中での神ご自身の神性を〔そのすべての性質の中での「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の神性を〕この神の自由の総内容として理解しなければならない〔「自己自身である神としての三位一体の神の自由、「われわれのための神の自由としての神の自由の総内容として理解しなければならない〕」。

 

第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神においてのみ「実在であり真理である」「神の愛」を認識するために、2.自己自身である神(ご自身の中での神)としての、それからまたわれわれのための神としての<三位一体の神>」および「3.キリストにあっての<神の自由>について」を参照されたし。

(文責:豊田忠義)