8.「『自然神学に対するカール・バルトの「『<自然な神学について(その1)

 

 

 

先ずは、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における一つの補助的機能(<教会的な>補助的奉仕)としての神学における「『自然神学の問題を扱う時の原則について書いて置きたい。なお、この論稿は、新しいホームページ:「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」における1.から7.までの論稿を前提として書いている。また、<8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その2)および(その3)>においては、<「『自然』神学」の段階で思惟し語る神学の諸形態について>書くことになっている。

 

 

先ず以て、次の認識(信仰)、承認、確認が重要である――まさにそれは聖書のことであるが、第二の形態の神の言葉である<使徒>・パウロのわたしは神からいただいた恵みによって、〔第二の形態の神の言葉に属する<使徒>として〕熟練した建築家のように土台を据えましたそして〔第三の形態の神の言葉に属する〕他の人がその上に家を建てていますただ、〔「聖書こそが教会に宣教を義務づけている」その教会の宣教は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、その神の啓示、その神への信仰を対象としている限り、〕おのおのどのように建てるかに注意すべきです。〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストというすでに据えられている土台を無視して〔恣意的独断的に、「わがまま勝手に」〕、だれもほかの土台を据えることはできません(Ⅰコリント310-11、およびエフェソ2・14-22)」(『教会教義学 神の言葉』および『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』に依拠して言えば、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っている)。このような訳で、「『自然神学の問題は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在しているところの、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれ人間は、神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」――このイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、客観的な「存在的な<ラチオ性>」の関係と構造秩序性に連帯し連続することをしないでその関係と構造秩序性から逸脱して行くところに発生して来る問題としてあると言うことができる。

 

 教会の宣教における一つの補助的機能(<教会的な>補助的奉仕)としての神学領域にあるところの、既存のそれを含めて、それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代において登場して来る「『自然』神学」の問題は、現存する教会自身が<明確に提起すべき>問題としてあると考える。何故ならば、教会自身がその作業を怠るならば、自らが「『自然』神学」の段階の中で停滞し循環してしまうことなるからである。神学領域においても、同じように、「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」(カール・マルクス『ユダヤ人問題によせて』)。したがって、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における一つの補助的機能(<教会的な>補助的奉仕)としての神学領域においては、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、その神の啓示、その神への信仰が対象であるから、「『自然』神学」の「問題を明確に提起する」ということは、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準として、「『自然』神学」を根本的に原理的に包括し止揚するという仕方で、「『自然』神学」の<段階>から「<非>『自然』な神学」の<段階>へと超え出て行くということを意味するはずである。「なぜなら、〔「『自然』神学」の<段階>で停滞し循環して思惟し語るところの様々な神学は、「そのことを理解しなかったが」、類的機能を持つ自由な人間の自己意識・理性・思惟を駆使し直観と概念を用いて生み出される人間的自然としての人間の観念的生産物、すなわち人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」としての〕思想は物質ではなく外化された観念であるから、〔その〕観念の運動は観念によってしか埋葬されず甲の観念〔甲の思想、その甲の思想にある根本的包括的な原理的な問題〕乙の観念〔乙の思想〕がそれを〔根本的に原理的に〕包括し止揚することによってしか……亡びないからである死滅させることができないからである〕」(吉本隆明『カール・マルクス』)言葉としての思想は、この過程を経なければ時代を超えて未来に生きる言葉とはならない。したがって、吉本は、対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している中で自らの立場において両者を包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である」、と述べている(どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって)。このことは、神学の領域においても妥当する

 

 さて、キリスト教<神学>が教会の宣教における一つの補助的機能(<教会的な>補助的奉仕)(『教会教義学 神の言葉』)であることからして、教会の宣教にとって最善最良の神学の構成を目指したカール・バルトは、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書への絶対的信頼に基づいて――何故ならばまさにそれは聖書のことであるが、第二の形態の神の言葉である<使徒>・パウロのわたしは神からいただいた恵みによって、〔第二の形態の神の言葉に属する<使徒>として〕熟練した建築家のように土台を据えましたそして〔第三の形態の神の言葉に属する〕他の人がその上に家を建てていますただ、〔「聖書こそが教会に宣教を義務づけている」その教会の宣教は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、その神の啓示、その神への信仰を対象としている限り、〕おのおのどのように建てるかに注意すべきです。〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストというすでに据えられている土台を無視して〔恣意的独断的に「わがまま勝手に」〕、だれもほかの土台を据えることはできません(Ⅰコリント310-11)」と言われているから、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続して――、その関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準として第三の形態の神の言葉に属する教会に巣食う「神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外の何ものにも役立ちはしなかった」し・役立ちはしないところの「『自然』神学」の段階で停滞し循環する思惟と語りにおける「問題を、明確に提起した」のである、また第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」し・役立ちはしないところの「『自然』神学」の段階で停滞し循環する思惟と語りにおける「問題を、明確に提起した」のである(『教会教義学 神の言葉』)。教会の宣教における「『自然』神学」の問題は、それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられたところで存在し思惟し行動する第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教のただ中に常に存在していることからして(現在においても、その問題は厳として存在している)、この「『自然』神学」の問題は、教会の宣教における一つの補助的機能(<教会的な>補助的奉仕)としての神学にとって、<最後的な問題>としてあるのである。「『自然』神学」の問題は、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準として、根本的に原理的に包括され止揚されなければならない問題としてある。この意味で、アウグスティヌスの思惟と語りやルターの思惟と語りやその他の神学者たち等々の思惟と語りにも存在したところの「『自然』神学」の「問題を明確に提起した」カール・バルトは、<最後的な宗教改革者>なのである。何故ならば、ただカール・バルトだけが、「『自然』神学」の段階で停滞し循環する思惟と語りにおける問題を明確に提起して、それ故に「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準とした神学(思想)によって、換言すれば「<非>『自然』な神学」の<段階>へと超出した神学(思想)によって、「『自然』神学」の<段階>で停滞し循環する神学(思想)を、根本的に原理的に包括し止揚したからである。したがって、このバルトの言葉としての神学(思想)は、未来に生きる言葉であると言えるのである。確かに、その是非の<最終的な>判決は、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであるから、われわれは、復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)を待たなければならない。そして、その時にはじめて、その是非の<最終的な>判決が下される。

 

 

さてここからは、「自然神学に対するカールバルトの闘いの拠点換言すればカールバルトの「『<自然な神学立場について書くことにする。なお、<8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その2)>では、「『自然』神学」の段階において思惟し語る神学の典型的な事例について書きたいと考えている。 

 

1.聖書の主題であり同時に哲学の要旨である神と人間との無限の質的差異を固守するという方式>(『ローマ書』)の堅持である――「私が『方式』なるものをもっているとすれば、……時間と永遠との『無限の質的差別』〔神と人間との無限の質的差異〕……、をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(『カール・バルト著作集14』「ローマ書」「第2版序言」)。この立場、単なる大学神学者や単なるキリスト教的著述家ではないところの、まさに神学における思想家であるバルトにおいては、『ローマ書』「第2版序言」から、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』、『福音と律法』、『神の人間性』、最晩年の『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし 1968年」)に至るまで一度もブレずに一貫性をもって貫徹されている

 

 農耕を主たる経済的基盤とし自然を原理とした人類史のアジア的段階にあった日本(鎌倉時代)において世界普遍性を獲得していた浄土思想の僧であった親鸞(浄土真宗の祖・親鸞も、「自然法爾」を説いて自然を内面の原理とした)は、<浄土教理の問題>(知識の問題)を、往相回向・縦超・非俗・往相浄土・聖道の慈悲・衆生の緊急的相対的過渡的救済の問題・知識の意味的世界・知識の自然的過程(知識の往相的過程)<と>還相回向・横超・非僧・還相浄土・浄土の慈悲・衆生の究極的総体的永続的救済の問題・知識の価値的世界・知識の意識的過程(知識の還相的過程)との総体において扱った。したがって、親鸞は、歴史的現存性のただ中に生誕し、その時代と現実に強いられて自己資質、生活、職業、感情、思想、信条、意志、構想をもって生きる人間存在をその総体性においてではなく、その一面だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化し絶対化するところの、<一面的な>自己欺瞞に満ちた市民的常識、市民的観点(すなわち、往相的観点)における「隣人愛」が、宗教者、学者、知識人、善人、法律関係者、警察関係者、教育関係者、医療関係者、慈善団体関係者等、誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避的な機縁」(契機)さえあれば、最悪の悪行もなし得るし、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るという究極的観点(すなわち、還相的観点)を持っていないという「問題を明確に提起した」。すなわち、親鸞は、その「問題を明確に提起する」ことによって、<一面的な>自己欺瞞に満ちた市民的常識、市民的観点(すなわち、往相的観点)における「隣人愛」から超出したのである。言い換えれば、往相過程における「往相浄土」としての聖道の慈悲は、「困窮する者を不憫におもい、悲しみ、助けてやることである」が、しかし、その往相的過程においては、「思うように助けおおせることは、きわめて稀なことである」から、親鸞は、還相過程における「還相浄土」としての「浄土の慈悲」において、知よりも愚」の方が、「南無阿弥陀仏の称名念仏」の方が、阿弥陀仏による衆生の究極的総体的永続的救済に近づき易い、と思想したのである(『歎異抄』および吉本隆明『吉本隆明全仏教論集成』「親鸞について」・親鸞の教理ついて、『未来の親鸞』、『今に生きる親鸞』、『最後の親鸞』、『親鸞復興』)。

 

われわれ人間は、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的に自然的に類的機能を持つ自由な自己意識・理性・思惟を駆使して生きている。しかし、時代と現実に強いられて現存するわれわれ人間は、ただ理性的にだけ生きているわけではない。時代と現実に強いられて現存するわれわれ人間は、喜怒哀楽の世界も、情念の世界も、嫉妬の世界も生きている(太宰治『駆込み訴え』がそれをテーマとしている、また<友情>物語だと評価されている『走れメロス』は、最後の二段落において、その作品を少女の<嫉妬>と勇者の恥じらいで終わらせている)、<個、対、共同性>の関係と構造という人間存在の総体性を生きている。したがって、われわれは、ただ<一面的な>観点からだけする平和や正義や愛や人権や自由や平等等々の第一義化され<綺麗事>化された発言や主張に対しては、それを、「そのまま鵜呑みにしたり模倣したり信用したりしない方が良い」のである。

 

さて、現在危機に陥っているとは言え、人類史の<西欧近代>の段階において世界普遍性を獲得した資本主義を主たる経済的基盤とし自由を原理とするその西欧近代のただ中で、第三の形態の神の言葉であるキリスト教会の宣教における一つの補助的機能(<教会的な>補助的奉仕)としての神学に携わったバルトは、次のように思惟し語った――イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、すなわち神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である〔「キリストの霊」である〕」「聖霊の注ぎによる信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠して、「本当に神の啓示を認識する時」、その時には、その贈り与えられた啓示認識(啓示信仰)に依拠した「信仰の類比」を通して、「われわれは、初めて、神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間としての自分自身を、またそのような人間の世」を、換言すればキリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性、自己主張、自己義認の欲求もという無神性、不信仰、真実の罪」のただ中にある「罪深い堕落した人間としての自分自身を、またそのような人間の世」を自己認識し自己理解し自己規定することができる、また「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ということを自己認識し自己理解し自己規定することができる、また「自分が――つまり〔生来的な自然的な〕自分の理性や力〔知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面とする禅的修行等〕によっては』――全く信じることができない」ということを自己認識し自己理解し自己規定することができるそしてその時には、イエス・キリストにおける「啓示ないし和解の出来事の内容」は、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であったということをわれわれ人間に自己認識〔・自己理解・自己規定〕させる」、それ故にその時には、神の側の真実としてのみある「<神の選びを<イエス・キリストの復活>において認識し〔信仰し〕、<神の放棄>を<イエス・キリストの十字架>において認識する〔信仰する〕ことができる」(カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」、『福音と律法』、『福音主義神学入門』、『教会教義学 神の言葉』)。このような訳で、われわれ人間は、生来的な自然的な人間の側から直接的に無媒介的に、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神に、キリストの福音に出会い関わることはできないのである。すなわち、われわれが、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神に、キリストの福音に出会い関わり、そしてローマ322,ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」の属格を、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格(「イエス・キリスト信ずる信仰」)として理解されたところでの「イエス・キリストを信じる」という時には、あくまでも神のその都度の自由な恵みの神的決断によるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での「啓示と信仰の出来事」に基づいてだけ、そのことは出来事となって起こるのである。その時には、「イエス・キリストを信じる」ということは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たないところの「『自然神学の段階におけるローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」の属格「神と人間との共働・協働・共労」、「神人協力」のベクトルを持たせた(換言すれば、キリストにあっての神としての神だけでなく、生来的な自然的なわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという、生来的な自然的な人間の契機も温存させたルターのような)目的格的属格(「イエス・キリスト信ずる信仰」)として理解されたところでの「イエス・キリストを信じる」信仰ということではなくて、あくまでも神のその都度の自由な恵みの神的決断によるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格(「イエス・キリスト信ずる信仰」)として理解されたところでの、まさに神の側の真実としてのみある「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同じである――「平和に関するバルトの書簡」)そのものである「イエス・キリストを信ずる」信仰ということである

 

 

2.ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典イエスキリスト信仰属格を、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格(「イエスキリスト信ずる信仰」)として理解する(『福音と律法』)。

  

 このことは、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(すなわち、「イエス・キリスト信ずる信仰」)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義神の子の義神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済この包括的な救済概念は平和の概念と同じである)そのものは、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」――ただこのイエスキリストだけである、ということを意味している。したがって、われわれは、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、ただこのイエス・キリストにだけ感謝をもって信頼し固執し固着する以外にはない、ということを意味している。

 

そのような訳で、バルトは、『説教の本質と実際』および『教会教義学 神の言葉』において、次のように述べている――「説教の無条件的な出発点と目的は、新約聖書において聞く啓示、和解、その内容であるインマルエル、神われらと共にいますである」、それ故に「われわれは、キリストからすべてのことを期待しなければならない」。「このことが、終末論である」、このことが徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在としての「実在の成就された時間」、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」――このキリスト復活から復活されたキリストの再臨終末完成までの中間時」、「聖霊の時代を生きる終末論である。何故ならば、われわれが、「救済」を、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰の中で持つことは、約束として持つことである」、われわれは、われわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」――「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」、「この信仰の確実性は、希望の確実性である」。「新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る」、「ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての〔換言すれば、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての〕<いまだ>であり、〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」。したがってまた、キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」、「ここで説教は、感謝と確信と共に期待の態度と行動である」、第一の来臨〔誕生、死と復活〕と第二の来臨〔終末、「完成」としての復活されたキリストの再臨〕との間〔「中間時」、「聖霊の時代」〕に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体とがある」。説教の言葉は、説教者の自由事項、裁量事項、決定事項ではないのであるから、「自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、<聖書への絶対的信頼>に基づく、聖書講解であることの義務を負っている〔換言すれば、Ⅰコリント310-11の言葉からして、第三の形態の神の言葉である「教会に宣教を義務づけている」ところの、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」を根拠とした説教を行うことの義務を負っている〕」。したがって、説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない〔近代に生きる人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、近代的な情報が不足している〕、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生きようとしていないのである」。「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である「キリストの福音は、われわれの思考や心情の中にあるのではなく、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書の中にあるからわれわれは、思想、最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさいを聖書に聴従することの前で、放棄しなければならない」。イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」としての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書は、〔その起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動に基づいて〕神の言葉となるところで、聖書は神の言葉なのである。したがって、「聖書に聴従するために」、その神の言葉自身の出来事の自己運動に基づいて、「聖書によって導かれなければならないのである」。「説教者にとって、彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理は、神がすでになした、わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた――神、罪深きわれらと共に、ということである」、それ故に「そこにおいて、説教」は、それぞれの時代、それぞれの世紀において、その時代と現実に強いられた「現在の人間の生活、彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つことを語ることである」。したがって、われわれは、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派〔教派、学派、ある特定の社会構成と支配構成、文化的傾向、思想傾向、形而上学的にその一面だけを抽象し固定化し全体化し絶対化したところの、平和主義、その極限に天然自然主義が想定されるエコロジー、そのような様々な主義と主張、時勢や時流等々〕に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」のである(教会教義学 神の言葉

 

 

3.聖霊は人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され持つことが許される場合、(中略)そのことによって決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が生じてはならない」し、客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」として「聖霊の注ぎ」によって「信仰の出来事」は起こるのであるが、その時、神のその都度の自由な恵みの神的決断による聖霊によって更新された人間の理性性(主観的な「認識的な<ラチオ性>」)も徹頭徹尾聖霊と同一ではないし、あくまでもその人間の理性性は人間の理性性として、常に人間の理性性であり続ける(『教義学要綱』)。

  

そのような訳で、東京神学大の実践神学者の小泉健が、まさに「『自然』神学」の段階における思惟と語りにおいて、類的機能を持つルドルフ・ボーレンの自由な人間的理性なり際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された彼の観念的な生産物――すなわち「存在者レベルでの神」としての神律的相互関係の概念に依拠して、そしてそのことは「神ご自身の決定事項である」にも拘らず、「われわれ人間の決定事項」にまで引き下ろして、「わがまま勝手に」、聖霊自身と聖霊の言葉を実体化させ、聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と主張した時、その主張は、その最初から「誤謬は必然となる」主張なのである。バルトは、『説教の本質と実際』および『教会教義学 神の言葉』において、「聖霊の注ぎ」はあくまでも神のその都度の自由な恵みの神的決断による神の側からの賜物であるし、また説教の思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであるから、説教者は、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」と述べている、また「説教は語ることであるが、……〔具体的には、「主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください」という祈りの中で、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」を根拠として〕一語一語準備し、書き記しておいたもののことである」、と述べている。

 

 

4.われわれ人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事イエスキリストにおける神の自己啓示からしてそのイエス・キリストにおける啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)の中での神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその死と復活の出来事におけるイエスキリストの啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<その啓示の出来事の中での主観的側面としての復活され高挙されたイエスキリストから降下し注がれる霊である〔「キリストの霊である」〕」「聖霊の注ぎによる信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて、すなわち啓示と信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で贈り与えられるものである。

  

教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであるから、教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さいというこの人間的態度〔人間の側の「祈り」の態度〕に対し神が応じて下さる〔神のその都度の自由な恵みの神的決断における神の側の「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立している」。何故ならば、そうでないならとすれば、その時には、その神、その神の啓示、その神への信仰は、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としてのその人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」でしかないからである。そしてその時には、その神、その神の啓示、その神への信仰は、まさに「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「(中略)神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された〔すなわち、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物である「存在者」としての〕神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(L・フォイエルバッハキリスト教の本質)ところのそれでしかないものある。

 

そのような訳で、「危険なことは、われわれがある哲学を学んで、それから神学の勉強を始め、そしてわれわれの頭にある哲学の法則に従わせようとすることだ。われわれは哲学を一つの道具として用いることはできる。しかし、もしヘーゲルやハイデッガーあるいはアリストテレスを絶対化するならば〔あるいは、その本の志向性からしてモルトマンに偏向し人間存在の総体性を認識し自覚していないメルロ=ポンティの「身体論」(身心相関論)に興味を抱いて『歴史を導く神――バルトとモルトマン』を著わした大学神学者・喜多川信のようにメルロ=ポンティ等々を絶対化するならば〕、聖書を聞き損なうことになる」、「人は、また全く別なもろもろの啓示概念、おそらくは普遍的な啓示概念(キリストにあっての特別啓示のそれではなく、一般的な啓示概念)、を問うことができるが、その時には、人は〔教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての〕教義学の課題を、手をつけずに放置しておくことになる」、それ故にわれわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」し、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学は、方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」のであるバルトとの対話』、『教会教義学 神の言葉)。

  

 

5.徹頭徹尾神の側の真実としてのみある区別を包括した単一性において先ず以て、「第二の問題である神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した第一の問題である神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求するイエスキリストにおける神の自己啓示からしてそのイエスキリストの啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力総体的構造>――すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な存在的な必然性>」)<>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である〔「キリストの霊である」〕」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な認識的な必然性>」を前提条件としたところの、客観的な存在的なラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)<主観的な認識的なラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊自身と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性に立脚するそれ故に聖書への絶対的信頼に基づいて第二の形態の神言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての特別啓示啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学に立脚する

  

 「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとした〔「『自然』神学」の段階において思惟し語る〕カントは、本源的であるゆえに、すでに前もって〔生来的な自然的な〕われわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で〔すなわち、「『自然』神学」の段階における神認識という点で〕、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)。ここにおいては、「神の認識可能性はまさにこの神とわれわれ人間を〔区別しないで〕包括する存在者の類比から成り立っている〔まさに「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持しないところの、それ故に神とわれわれ人間を区別しないで包括する存在者の類比から成り立っている〕」。ローマ・カトリックが、「もしも……その業と行為の中での<神>に対して、そして……もっとも無限に遠い、質的な距離を隔てている……人間に対しても、<存在>を帰するならば、その時」、ローマ・カトリックは、「神と人間との間の<一つの>類比を、したがって〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕啓示の<外>にもある〔「『自然』神学」の段階における〕神の認識可能性の<一つの>点を承認した」ことになるのである。言い換えれば、その時、ローマ・カトリックは、「『自然』神学」の段階において、「存在するものの類比存在ノ類比、もっともその場合存在に対する神と人間の関係はそれぞれ全く違ったものであり、神と人間は存在に対して全く違った仕方で参与するのであるが、いずれにしても〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持しないところの「『自然』神学」の段階において〕神と人間が一緒に把握される存在理念を承認した」ことになるのである、ちょうど「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持しないところで、存在するものそのもの、その純然たる造られた存在」に依拠し、造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアルと思惟し語ったアウグスティヌスのようにである、しかしそのような「三位一体の跡は、世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」のであって、それは、類的機能を持つ自由な人間の自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間的自然としての人間の観念的生産物、すなわち人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」レベルでのそれ、「人間自身の内在的に理解された宇宙の諸規定、人間的な現実存在の諸規定、単なる宇宙論や人間論でしかない」ものである。したがって、そのような「三位一体論は、人間自身に基づく人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解、神話に過ぎないものである」。イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しない」ところの、それ故にその<総体的構造>に信頼しないところの、「<存在するもの>の類比、存在ノ類比」は、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)とは違って、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身からの命令を完全に一義的に厳守することはできないから」、「二人の主に兼ね仕える」ことになるのである。その時には、例えば「『自然』神学」の段階において「内被造世界での……父」から「神の<内>三位一体的父の名」を類比することになる。しかし、それに対して、「『<非>自然』な神学」の段階で思惟し語るバルトは、「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実であるが、非本来的なものであり、『神の<内>三位一体的父の名』の力と威厳に依存しているものとして理解されなければならない」(『教会教義学 神の言葉』)と述べている。

 

アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の<必然性>を理性的に理解シヨウ理性的に論証シヨウとした」――このことを、「人は合理主義だと批判した」。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」。すなわち、アンセルムスは、啓示認識の可能性について、「一般的真理」から考えないで、啓示の真理、「啓示から得られた認識としてのイエス・キリストの実在から考えた〔その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)の中で証しされているイエス・キリストの実在から考えた〕」のである。言い換えれば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」としての「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)に基づいて考えたのである。アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡である想起(記憶)、知解、愛としての人間の中での神の像を、最も身近な最も高貴な認識根拠とした」。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的、教会的、教義的前提であった」。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、しかし、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、徹頭徹尾「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とするその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書を、すなわちイエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備れた預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準として、「聖書に教えられつつ語るのであって〔聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で語るのであって〕、われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろうとはしなかった」、それ故に主観的な「認識的な<ラチオ性>」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性)は、「啓示、恵み、信仰を前提条件としていた」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」――客観的な「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件としていた(『教会教義学 神の言葉』、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。

 

バルトは、『教会教義学 神の言葉』および『教会教義学 神論』において、次のように述べている――われわれは神の認識可能性を確かめるためにはしたがってわれわれの神認識の確実性を確かめるためには」、先行する「神の用意」に包摂された後続してその後に従う「人間の用意」ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に「神の認識可能性である」「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」)――このイエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔すなわち、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、「ただ神によって遂行されたその介入の実在を堅くとって離さないでいるしかないのであって」、「われわれはただ神の認識可能性に対して感謝することができるだけであり」、それ故にわれわれは存在するものそのもの、その純然たる造られた存在、造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル「存在の類比」に依拠して思惟し語るアウグスティヌスのように、「神の認識可能性を、……何らかの仕方ですでに持っており自分で取る得あろうところでは見出すことできずすでに存在している類比〔「存在の類比」〕の中で見出すことはできず、「ただ神の恵みを通して造り出されることができる類比の中でだけ〔すなわち、「恵ミノ類比の中でだけ――信仰の類比、関係の類比、啓示の類比の中でだけ〕、それに対してわれわれが理解を絶した実在の中でわれわれにとって近づき得るものと<された>近づき得ないものとして、然りを言うところの恵みと信仰の類比の中でだけ〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した「信仰の類比」の中でだけ〕、見出すことができる……」。このような訳で、われわれは、「神の認識可能性、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、先ず第一義的に優位に立つ原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕としての〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストと共に、〔第三の形態の神の言葉に属する〕教会の宣教における原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕である第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理規準法廷審判者支配者標準基準として終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神を尋ね求める神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会教義学の問題、<福音主義的な教義学の問題)<そのような神への愛を根拠とした神の讃美としての隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、全世界としての教会自身と世のすべての人々が第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有する>こととができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、すなわち区別を包括した単一性において、<教会教義学に包括された正しい行為を問う特別的な神学的倫理学の問題という連関と循環においてイエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活きたヒトツノ聖ナル公同ノ教会」共同性を目指して行く中で言うことができる

 

そのような訳で、われわれは、そうして行く中で、「神の恵みとは違うしたがって信仰とは違う神の認識可能性の保証を探し求める神学あるいはそのようなものが存在し得ると考え約束する神学」――すなわち「<『自然神学はすべて教会の領域では不可能でありしかも根本においては議論の余地なく不可能であるという洞察をなすことができるのである。「何故ならば<『自然神学ローマカトリックの教説〔すなわち、形而上学的にその一面だけを抽象し固定化し全体化し絶対化して、それ故に抽象的ニ「神の一つの面だけを……考える」分割、「主および創造者なる神だけを考える」分割、このことを「念頭に置いた神の認識可能性」のローマ・カトリックの教説とわれわれの対決が示したようにただキリスト教的な神概念に対する暗殺計画に基づいてだけ可能となり得るからでありキリスト教的神論がそれと共に教義学がしたがって純粋な教えを問う問いがこの暗殺計画でもってはじまるということはそもそも全く問題とならないことだかである」。

 

まさに〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われに差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方〕イエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそまさにイエスキリストの中でこそ隠れた神は〔換言すれば、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれ人間は、神の不把握性の下にある)「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する「三位一体の神」は〕、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかしそのことは、「決して直接的にではなく間接的にである。イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界(Ⅰコリント138以下)の下で与えられる信仰に対してである、「その本質の中においてではなくしるしの中においてである。このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である神性が肉となったのではなく、「われわれのための神」としてのその外に向かっての外在的な失われない差異性の中での第二の存在の仕方における「<言葉が肉となった>」――「これがすべてのしるしの最初の起源的な支配的なしるしである」、換言すれば<それ>は、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」では決してなもっと包括的に言えば神とは異なる「実在全体」――すなわち宇宙を含めた天然自然としての外界、自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、個体的自己としての全人間の身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動によって生み出されるところの人間化された自然としての人間的自然である人間の物質的および観念的な諸生産物(マルクス『経済学・哲学草稿』)としての「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉としての<「存在者」>〔「神の隠蔽」としての「神の自己卑下と自己疎外化」、すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としてのただイエスキリストのだけである。このような訳で、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身――この「<最初の起源的な支配的なしるし>に基づいて」、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)――その「最初の直接的な第一の啓示のしるし>」が存在する、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるし〔すなわち、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準としたところの、「啓示のしるし>」しるしとして、教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての第三の形態の神の言葉である教会の宣教〕が存在する」。包括的に言えば、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、客観的な「存在的な<ラチオ性>」)の関係と構造(秩序性)が存在する(Ⅰコリント310-11)。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのただイエスキリストのだけ」――このイエスキリストと地上における可視的なみ国が客観的に存在している」――「これこそ神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について語ることができる偉大な可能性である」。このことについて、形而上学的にその一面だけを抽象し固定化し全体化し絶対化した、それ故に抽象的ニ「神の一つの面だけを……考える」分割、「主および創造者なる神だけを考える」分割、このことを「念頭に置いた神の認識可能性」を主張するローマ・カトリックの教説は、認識し自覚していないのである。すなわち、ローマ・カトリックは、「『自然』神学」の段階で停滞しているのである。

  

 

6.先ず以て「律法と福音」を二元論的に分離し対立させて「律法→福音」へということを強調している『キリスト者の自由』におけるルターとは違って、イエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に分離し対立してはいない(『福音と律法』)。詳しく言えば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明の力」の<総体的構造>に基づいた福音と律法における神への愛を根拠とした神の讃美としての隣人愛(区別を包括した単一性において、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題)としての「律法」(神の命令・要求・要請)、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な存在的なラチオ性>」――すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエスキリスト自身を起源とする神の言葉の三形態の関係と構造秩序性における第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書を自らの思惟と語りにおける原理規準法廷審判者支配者標準基準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストの福音を尋ね求める神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)におけるキリストの福音を内容とする福音の形式であるこの事柄と同じように、「『<自然な神学の段階における説教(言葉)と行為(社会的なあるいは政治的な実践)>二元論的に分離し対立しておらずかつて語った〔「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」における〕説教〔言葉〕の一貫した繰り返しが、(ある状況下においてその状況に抗するそれとしておのずから>〔必然的に〕実践に決断に行動になって行ったというその全体性において構成されている

  

「『今日の神学的実存誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書の聖霊〔客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である〔「キリストの霊である」〕」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」としての聖霊〕は、〔第三の形態の神言葉に属する〕教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは〔私が語ったまさにその言葉は〕、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、〔<おのずから>、必然的に、〕それ〔その言葉〕が〔行為へと呼びかけ要求戦いの標語信仰告白にならざるをえなかった、という状況においてであった」というその全体性において構成されている(『カール・バルトの生涯』)、ちょうど「宗教、法、国家という幻想性と幻想的な共同性について考えつくし」、「ある意味でこの幻想性の起源でありながら、この幻想性と対立する市民社会の構造としての経済的なカテゴリーの骨組みを定め」、「そしてこれらの考察の根源にあるかれ自身の<自然>哲学を三位一体」とした「マルクスの完結した体系は、当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが、〔マルクスにおいても、理論と実践は二元論的に分離し対立しておらず、〕理論言葉〕がかれを実践行為〕のほうへ必然的に〔おのずから〕つれてゆくようにできあがっていた」ように(吉本隆明『カール・マルクス』)。思惟し語る領域は異なるとはいえ、優れた思想家としての両者の思惟と語りにおける言葉は、言葉と行為を二元論的に分離し対立させて、言葉だけでなく実践も必要である、また例えば説教(言葉)だけでなく社会的および政治的な実践(行為)も必要であると声高に叫ばなくてもよいようにできあがっているのである。

 

「神の命令は、われわれを『汝は……すべし』〔という律法、要求・要請〕の前におく」。しかし、二元論的に分離し対立させられていない純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法の中には――すなわち「『汝は……すべし』(Du sollst!)〔という神の律法、神の命令・要求・要請〕の中」には「福音の『汝は……するであろう』(Du wirst!)という神の約束が含まれている」のである。何故ならば、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、その「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示ないし和解の出来事」による「律法を悪用する罪に対する神の勝利>」とは、「神ご自身が「律法の成就」・「律法の完成」そのものであるイエス・キリストが〕、われわれ人間を罪と死との法則である律法から解放した出来事のこと」であり、それ故にわれわれ人間の不従順不信仰に抗してイエスキリストにあって義とされているが故に」、「律法はわれわれ人間をその不従順不信仰によって罪に定めることは出来ない」からである。このように、「神の律法が人間を真に罪に定めない」のであるから、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は、「もはや絶対に罪と死との法則ではない。したがって、そこにおいては、律法と福音を二元論的に分離し対立させ、「律法→福音」という一方通行的な順序を主張した「ルターに強烈に存在したところの、われわれ人間が律法に対して全体的に不従順であるという事実におけるわれわれ人間に生ずる生の不安」は、「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」のである。このように、イエス・キリストにおいては「福音と律法」は二元論的に分離し対立していないのであるから、その「福音と律法」における「福音の汝は……するであろう』(Du wirst!)という約束が含まれている」純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての「『汝は……すべし』(Du sollst!)〔という律法、神の命令・要求・要請〕」、「必然的」、「自明的」、「自発的に」、「ひとつの服従の行為へと向かわしめる」。すなわち、それは、「必然的」、「自明的」、「自発的に」、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、客観的な「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件としたところの、主観的な「認識的な<ラチオ性>」<と>客観的な「存在的な<ラチオ性>」における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストの福音を尋ね求める「神への愛」<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す「ひとつの服従の行為へと向かわしめる」。また、それは、「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関と循環における「命令の成就」、「服従」、「服従の行為であり得るだけである」。したがって、「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関と循環における全世界としての教会自身と世の全ての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えは、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が〔全世界としての〕教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」(『教会教義学 神の言葉』、『福音と律法』)。ここに、区別を包括した単一性において、「純粋な教えを問う」<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」「特別的な神学的倫理学……の原理がある」、「あるいは内容的にキリスト教的人間の生活の原理がある」。このように教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての教会教義学が、「特別的な神学的倫理学の問題」あるいは「内容的にキリスト教的人間の生活の問題、「すでにその基本的な考察の対象として承認し取り扱い、……自分の中に取り上げているのであるから、区別を包括した単一性において<教会教義学に包括されないところの、すなわち<教会教義学から分離された独立的な他の特別な神学的倫理学を必要としない」のである。

 

それに対して、「福音と律法」を二元論的に分離し対立させ、その一面だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化し絶対化して<一面化された>律法は、際限なき人間的欲求によって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての様々な<曲解された律法>を生み出すのである。すなわち、「律法を悪用する罪の法則によって善きものを反対物に変えるという人間的な巨大な欺瞞を生じさせる」のである。このようになる根拠は、まさに「『自然』神学」の段階において、人間が、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「律法の成就」・「律法の完成」そのものである「イエス・キリストが律法の終わりとなられた方であることを聞かず承認せず」、キリストにあっての神としての神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間も、生来的な自然的なわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神との共働者であることを求め続けるところにある。その時、人間は、神の要求を、人間的な自分自身の要求に、自分で満足させ得る要求に変えて、神的な汝は斯くなすであろうを変じて、人間的な余りに人間的な汝は斯くなすべしをつくり上げる」のである。このような「神に対する熱心さの無知は、神だけでなく生来的な自然的なわれわれ人間も、生来的な自然的なわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求という無神性・不信仰・真実の罪に基づいており、神の要求を、人間によって曲解された十誡、預言者の言葉、ソロモンの処世上の知恵、山上の垂訓また使徒の報告に過ぎないものへと変える」のである。その時、人間のその存在、その思惟、その実践は、罪に勝利を収めさせる熱心さ」、不従順」、「虚偽となる。何故ならば、その無数の儀文は、偶像崇拝、神冒涜を生じさせる」からである。したがって、その時には、恣意的独断的に「わがまま勝手に」、「ある者は盲目的に仕事へと没頭し、ある者は人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、「ある者はその時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」、「ある者は大規模な世界改良の偉大な計画に邁進する」、「ある者は大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進する」、ある者は時勢に流され時流に没頭する。

 

そのような「『自然』神学」を許す根拠は、ルターが、『キリスト者の自由』において、「律法と福音」を二元論的に分離し対立させた点にあると言うことができるし、もっと根本的包括的な原理的な問題に引き寄せて言えば、ルターがローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の<属格、まさにそれは「『自然』神学」段階における思惟と語りであるのだが、「神人共働・協働・共労」、「神人協力」のベクトルを持たせたところの換言すれば神の側の真実だけでなく、すなわちキリストにあっての神だけでなく、生来的な自然的なわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという、生来的な自然的な人間の契機も温存させたところの目的格的属格(「イエス・キリスト<>信じる信仰」)として理解した点にあると言うことができる(現存する「新共同訳聖書」も、なお依然として、時代と現実から対象的なってそれから距離を取るという仕方においてではなく、時代と現実に強いられそれに埋没させられたところで、目的格的属格として理解している、それ故に「『自然』神学」が常に存続して行くことができる契機を与えている)。それに対して、その「『自然』神学」の段階における思惟と語りを、自らの<立場>において根本的に原理的に包括し止揚したところの「『<非>自然な』神学」の段階で思惟し語るバルトは、イエス・キリストにおいては「福音と律法」は二元論的に分離し対立していないのであるから、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の<属格>を徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格(「イエス・キリスト<>信ずる信仰」)として理解することによって区別を包括した単一性において律法は純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式であると規定した。その時、律法(神の命令・要求・要請)は、人間に対して、罪と死の法則の律法、汝斯く斯くなるべしという要求から生命の御霊の法則の律法、汝斯く斯くならんという約束へと回復せしめられる」、遂行せよと求める要求から、信頼せよと求める要求へと回復せしめられる」。したがって、われわれ個体的自己としての全人間・全世界・全人類は、「生命の御霊の法則である律法によってイエス・キリストにあって解放されたのであるから、われわれが己の解放を与えられるためには、ただ彼に固着し得るだけである」、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「目的格的属格」(「イエス・キリスト<>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト<>信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいるしかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのはただわれわれのために人として生まれわれわれのために死にわれわれのために甦り給う主イエスキリストが彼にとってもその主でありその避け所でありその城でありその神であるということにおいてのみである(このことが、「『福音と律法』の<現実性>における勝利の福音の内容」である)「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世」「以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)、「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」(カール・バルト著作集15』「ローマ書新解)。

  

 

7.三位一体の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的なしるし>」)であるイエスキリスト自身を起源とする神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、客観的な「存在的な<ラチオ性>」、Ⅰコリント310-11の関係と構造秩序性の堅持である

  

そのような訳で、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、この「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続して、その秩序性におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「啓示との<間接的同一性>」、啓示との区別を包括した同一性において存在している、その最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準として、絶えず繰り返し、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた〔教会の宣教における一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての〕教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」、と述べている。何故ならば、第三の形態の神の言葉である「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神言葉である「聖書は、先ず第一義的に優位に立つ原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準としての〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエス・キリストと共に、〔第三の形態の神の言葉である〕教会の宣教における原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準〕である」からである。したがって、バルトは、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、絶えず繰り返し、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準・基準として、聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において教義そのものを尋ね求めた」のである(『啓示・教会・神学』)。

 なお神の言葉の三形態の関係と構造秩序性の詳しい内容については新しいホームページ:「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」の<6.「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)について>を参照されたし。(文責・豊田忠義)