10.知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明についてその4

 

 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「一 神の」(その3

 バルトは、「われわれは、アンセルムスの神証明にとって標準となる神の名についてのさらなる引き続いての解明を、ガウニロの二つの誤解……の論議と結びつける」と述べている。

 

ガウニロの誤解その1

 ガウニロは、『プロスロギオン』の「特に彼の反対書の四-五章において、神の名を聞くに際して、人間は、すべての直観を欠いているので、すなわち有用な一般的概念を欠いているので、単なる言葉(vox)以上のものを、換言すれば実在ノ真理を、……聞くことができないという考えを展開させている」。「それが、Deus〔神〕という単語であろうと、アンセルムス的な定式〔「ソレヨリモ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」、「ドイツ語では……それより偉大なものが考えられ得ない何か』」〕であろうと」、「ただ言葉だけでは、彼に対して、ほかのところで与えられているよりよい存在なしには、言葉が表示するはずのことの、神についてのいかなる知解を手に入れさせることはできないであろう」という考えを展開させている。ここには、ガウニロがアンセルムスを無視して語られている四つの点がある」

 

「教義学的な合理主義を明確に否定している」アンセルムスによって主張された第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示に依拠する<啓示>神学における、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づく「神の知解の可能性に対する〔ガウニロの〕懐疑において」、詳しく言えば客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」・「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(すなわち、神の自由な恵みの神的決断による「〔客観的な〕言葉を与える主は同時に〔主観的な〕信仰〔主観的な信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕を与える主である」)を前提条件とするところの、「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性というイエスキリストにおける啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力総体的構造に基づく神の知解の可能性に対する〔ガウニロの〕懐疑において」、それ故にその区別と単一性において先ず以て「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求するイエス・キリストにける神の自己啓示を認識し自覚していないガウニロは、「自分が、<神の不把握性>の概念の偉大な崇拝者であることを認め」つつ、また「実際に神に関して知解させる力のある言葉があるであろうかとアンセルムスに対して問わなければならないと考えている」。このように思惟し語るガウニロは、『プロスロギオン』「一章で『私ノ理解ハ決シテソレト比較デキナイカラデス』ということを、一五章で『ソレユエ、主ヨ、アナタハ、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイモノデアルダケデナク、考エラレ得ルヨリモ偉大ナ何カデス』ということを、そして一六章-一七章において、まさに信仰の中で神を知解する者にとっての神の全面的な隠れ〔すなわち、「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の全面的な隠れと神の不把握性〕についての一連の最も印象深いアンセルムスの説明を読み飛ばしたのである

 

 アンセルムスの「神の隠れと不把握性」についての思惟と語りは、「どのような因果律的なあるいは目的論的な構造へも解消されることのできない、それ自体において理性的な、必然的な(啓示の)事実性を思い出させるものである〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を思い出させるものである〕」。それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続するアンセルムスにとっては、「神の名を手段とした神の不把握性〔「神の隠れ」〕についての命題も、……正しい正規の仕方で証明した信仰命題であった」――「コノ類ノ何カ(スナワチ、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ル何カ)ガ存在スルコトハ考エラレ得ルコトデスカラ、モシアナタガコノモノデナイナラバ、アナタヨリモ偉大ナ何カガ考エラレ得ルコトニナリマス。シカシ、コレハアリ得ナイコトデス」。

 

 それでは、われわれは、「どこからして、……神の不把握性〔「神の隠れ」、「神の隠蔽性」〕について知るのであるか」、「一体、どのようにして……人間によって形造られたすべての神概念の不適切さを主張するようになるのであろうか」。それはアンセルムスによれば、「われわれが神の本質について知っているすべてのことと同様、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」(すなわち、その「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」)<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」(すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界(Ⅰコリント138以下)の下で贈り与えられる〕信仰からしてまた信仰の中でである」。したがって、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」、それ故にそれは「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈り」の態度〕に対し神が応じて下さる〔「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立しているのである」(『教会教義学 神の言葉』)。したがってまた、この「遂行された必然的な考え証明そのものは、それからもちろんそれ自体、神の不把握性〔「神の隠れ」、「神の隠蔽性」〕の影の中に立っている」。したがってまた、「それ自体、上から、〔キリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理そのものからして、内容が満たされることを、いつも必要としている空虚な形式であるという留保のもとに〔「比喩ヲ通シテ考えられたものでしかないという留保のもとに」〕立っている」。「この留保は、信仰からしての、信仰の中での神の不把握性〔「神の隠れ」、「神の隠蔽性」〕の考え、証明を守るであろう」。「信仰からしての、信仰の中での神の不把握性〔「神の隠れ」、「神の隠蔽性」〕の考え、証明は、まことであり、その考え、証明に犯すべからざる有効妥当性が帰せられる」。「それに対して、ガウニロの神の不把握性の命題は、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」(すなわち、客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」<と>その「啓示の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる〕信仰に基づいていないが故に、神についてのいかなる知解も基礎づけることができず、それは、批判的な選り分ける力を結局持つことができないひどく世俗的な知識(グノーシス)の命題以外の何物でもないものである〔換言すれば、徹頭徹尾類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」の不把握性の命題でしかないものである〕」。

 

アンセルムスは、「上から、〔すなわち、キリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理そのものから、内容が満たされることを、いつも必要としている空虚な形式としての神の名を手段として、(まことの無カラノ創造)神の本質と存在の知解を生み出そうと考えたのではない」。アンセルムスにおいては、キリストにあっての神としての神の特別啓示の「真理そのものから、内容が満たされる」ことからして、「『プロスロギオン』の内容が異論の余地のないように示しているように、ほかのところで得られた知解の要素が、……神の存在と本質にかかわる信仰命題の中で前提されている」。言い換えれば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としてのCredoへの連帯性と連続性において得られた知解の要素が、神の存在と本質にかかわる信仰命題の中で前提されているということ、「ただそれらは、今は、それらの<知解>の内容に関して(それらの<真理>の内容に関してではなく)未知なものとして、それ故にまことの、しかしまだ理解されない命題として取り扱われるだけである」ということ――このことを、「ガウニロは認めなかった」。ガウニロが、「アル疑問ノ余地ノナイ論証を要求する時、すなわち神概念を手段にして、神の存在を知解するために、コノヨリ偉大ナモノガドコカニ実在トシテ存在スルコトについて確信しようと欲する時、マコトニ疑イモナク存在スル実在の証明を、スベテヨリモ偉大デ、善イあのモノノ存在の証明を呼び求める時」、ガウニロは、「明らかに、ほかのところで得られた、神概念を満たし、その神概念を手段にして証明されるべき信仰命題の存在のことを言おうとしておらず〔換言すれば、神の名の<外での>ほかのところで得られた知解の要素のことを考えずに〕」、それ故にそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)に連帯し連続している「信仰命題の存在のことを言おうとしておらず」、「むしろ全く浅はかにも、それに相応する〔生来的な自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」としての様々な〕見解(Anschauung)の存在のことを言おうとしていた」。何故ならば、ガウニロは、「人が彼に『神の』知解について語る時、ちょうど人が彼に対して、特定の彼に知られていない人間について語る時」、「ほかの人間たちとの彼の旧知の間柄に基づいて、少なくとも一般的に人間そのものについて知っている程度に」、「『神』について……知ろうと欲した」からである。したがって、ガウニロは、キリストにあっての神としての「神の未知な存在を、遠くの大海にある一つの〔「これまで未知な島の存在を証明するのを常としているような具合に、証明させようと欲する」〕未知な島〔換言すれば、まだ知られていないが、しかし遠くの大海にある客観的に存在している自然としての未知の島〕の存在と比較した」からである。このような訳で、ガウニロにとって「神の不把握性〔「神の隠れ」、「神の隠蔽性」〕についての命題、それほどまでに真剣なものではなかったのである」。それに対して、アンセルムスは「神の名の<外での>ほかのところで得られた知解の要素のことを考えていた」。すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)に連帯し連続している「信仰命題の存在のこと」を考えていた。

 

ガウニロにとっては、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノは、何かある一つの概念である、あるいは直観なしに形成されることができるような一つの概念である」。したがって、ガウニロは、「アンセルムス的な定式〔「ソレヨリモ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」、「ドイツ語では……それより偉大なものが考えられ得ない何か』」〕が知解させる力があることに反対する」、それ故にガウニロは、その「定式が知解させる力があるものとなるために、〔人間の〕直観を通しての補充を必要としているということを要請した」。ガウニロにとっては、「言葉それ自体というようなもの」は、「相応する直観が存在する場合にだけ、その空しさから解放されることができる空虚な言葉、そこで目指されている内容としての神を念頭においては、いつまでもその空しさの中に留まらなければならない空虚な言葉でしかないのである」。したがって、ガウニロにとっては、アンセルムスの「知解させる力がある神の存在の信仰命題」も空虚な言葉でしかなかった。したがってまた、ガウニロは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しない」、その<総体的構造>に、その起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事に自己運動に信頼しない。したがってまた、「教義学的な合理主義を明確に否定している」アンセルムスにおけるような、「既に、それ自身で『ただ単に』言葉であるだけでなく」、「人間的な頭脳によって、人間的な論理にしたがって『考えられ』、人間的なラテン語で語られ、表現された概念の<衣>〔「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」〕を身に着けて、神的な啓示されてあるところの言葉が存在し得るであろうということ」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の<客観的な>信仰告白および教義としてのCredoが「存在し得るであろうということ」は、「ガウニロにとっては全く疎遠な考えであった」。

 

ガウニロは、「アンセルムスの定式の特別な内容をもっと正確に考察することなしにソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノの中に、神(Deus)においてと同様、単なる言葉(vox)として、神の完全な本質の無力な定義を見た」。このガウロニは、区別を包括した単一性において先ず以て「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)、すなわち「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、換言すれば起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊(『教会教義学 神の言葉』によれば、「聖霊は、神的愛に基づく交わりの中で、父は子の父、言葉の語り手、啓示者であり、子は父の、語り手の言葉、啓示であるところの行為〔性質・働き・業・行動〕である」、「ここに、神は愛、愛は神であることの根拠がある」)――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>の問題を要求するイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「アンセルムスの定式の『ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ』というこの言葉(vox)は、『神』という言葉と違って、イクラカデモ理解シ得ルモノであり、しかもその理由は、まさにその内容はただ認識的なものであって、存在的な内容では全くないからであるということを看過していた」。アンセルムスは、「主ヨ、私ハアナタノ高ミヲキワメルコトヲ望ミマセン。……シカシ、……アナタノ真理ヲ、イクラカデモ理解スルコトヲ望ミマス」、「サテ、コレラノコトガソレニツイテ理解サレルガ、貴君ハソレガアル程度考エラレ、理解サレ、アルイハ思考ノウチニマタ理解ノウチニ存在シ得ルト考エナイノダロウカ」、「アルイハ、アル程度理解サレテイルモノガ、時ニ否定サレ、シカモソレハ全然理解サレテイナイモノト同ジデアルナラ、全ク誰ノ理解ノウチニモナイモノニ関スル疑イヨリハ、誰カノ理解ノウチニアルモノニ関スル疑イノホウガ、ヨリ容易ニ論証サレルノデハナイダロウカ。ソレ故、ソレヨリイダイナモノガ考エラレ得ナイモノ、トイウ表現ヲ聞イテアル程度理解シテイル人ガ、神ノ意味ヲ全ク考エズ、神ヲ否定シテイルタメニ、ソレヲモ否定スルトハ信ジラレナイ。アルイハ、ソレハマタ完全ニハ理解サレナイコトヲ理由ニ否定サレルノダトシテモ、アル程度理解サレテイルモノノホウガ全ク理解サレテイナイモノヨリハ容易ニ立証サレルノデハナイカ」と述べている。「神の名には存在的な内容は……欠けているから」、この「イクラカデモは、今やまさに『プロスロギオン』の神概念を念頭において、神の本質〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその本質〕を見てとる人間的な洞察の到達範囲の量的な制限を意味することはできない」のであって、その「イクラカデモは、神の名の認識的な制限された姿を表示することができるだけである」。この「認識的な制限された姿を表示することができるだけである神の名」は、「神を、その中で、神が把握されることができる領域で把握するのであって」、すなわちイエス・キリストにおける神の自己啓示が要求していることからして、「神ノ高サニオイテではなく」、「きわめて冷静にまた控え目に、それが、神がいずれにしても考えられることがゆるされない仕方を把握することによって把握する」のである――「神ガ存在スルコトヲ愚カ者ニ立証スルタメニ、私ガ、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイモノヲ提議シタノハ、彼ニシテモコレハアル程度理解スルダロウガ、神ハ全ク理解シナイデアロウタメデアルカラ……」。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」において、「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(信仰の認識としての神認識、<啓示>認識・<啓示>信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を要求する啓示だからである(『教会教義学 神の啓示』)。したがって、われわれの信仰の認識としての神認識、啓示認識(すなわち、啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の可能性は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>にある。したがってまた、「この可能性」は、「神の上部に、より偉大な何かが考えられるという仕方で、あるいはまた、ただ考えられ得るものとしてだけでも考えられるという仕方で、考えられてはならない」のである。したがってまた、その「道に足を踏み入れようとする思想家に対して、ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイと称する主の啓示された名は、禁止しつつ出会う」――「最高ノ本性ノ実体ハ、ソレデナイホウガ、何ラカノ形デ、ヨリヨイヨウナ何モノカデアルト考エルノハ冒涜デアリ……」。第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての「神学がこの戒めを堅くとってはなさないでいることによって、〔主観的な〕信仰の認識的な根拠ラチオ)>〔すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性〕、〔客観的な〕信仰の対象の<根拠(ラチオ)>〔それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〕に従うことによって」、それ故に「神学があの〔「認識的な制限された姿を表示することができるだけである」〕神の名を信仰命題として肯定しさらに引き続いてのすべてのことのために前提することによって神学に対して、〔客観的な〕存在的なラチオ性から切り離し得ないところの〔すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)から切り離し得ないところの〕、存在的な必然性>〔すなわち、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」〕という回り道を通って信仰の認識的な必然性>〔すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」〕換言すればあの名を通して表示された神の存在と完全な本質を否定することの不可能性が明らかになることができる」。したがって、神学は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた「回り道を通って信じられたものを知解する、すなわち証明することができる」。したがってまた、「この先に解明された意味で、『プロスロギオン』の神概念は、まさにその制限された姿においてこそ、知解させる力を持っているのである」。その制限された姿「イクラカデモを決シテ……ナイというように見做そうと欲する者」は、換言すれば「神の名に対して知解の力を、それが……神がご自分についてもつ概念と同一でないという理由で否定しようとする者」は、「アンセルムスによれば、その者の目が、日光が出て来る太陽の光を事実見ることができないという理由で日光を見ることができないと主張する者に等しいのである」――「モシ完全ニ理解サレテイナイモノハ理解サレテオラズ、マタ理解ノウチニ存在シナイト貴君ガ言ウナラ、太陽ノ最モ純粋ナ光ヲ直視出来ナイ人ハ太陽ノ光ノホカノ何モノデモナイ日ノ光ヲ見ナイト貴君ハ言ワナケレバナラナイ」。したがって、「この『いくらかあるものEtwas)』を無Nichtsへと人騒がせ的に曲解することはアンセルムに属する事柄ではないのである」。

 

ガウニロの誤解その2

 ガウニロは、「アンセルムスの定式認識的な「ソレヨリモ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」、「ドイツ語では……それより偉大なものが考えられ得ない何か』」〕、アンセルムスがあたかも……『プロスロギオン』において、〔存在的な〕スベテノモノヨリモ偉大ナ何カと記述しているかのように〔「絶えず」誤解して〕理解し、また数多くの箇所でそのように〔誤解したまま〕引用した」。アンセルムスは、次のように述べている――「私ノ語ッタ言葉ノドコニモソノヨウナ論証ハ見イダセナイ。……私ガ言ッテイナイコトヲ言ッタトシテ非難スルノハ誤リデアル」(誤解、誤謬である)。ガウニロは、「この不注意さをもって」、「『プロスロギオンの中で用いられているアンセルムスの定式〔認識的な「ソレヨリモ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」、「ドイツ語では……それより偉大なものが考えられ得ない何か』」〕が、「『モノロギオン』において〔「存在の類比」の立場で思惟し語る〕アウグスティヌスに組みしつつ用いた定義と比べて、明確な内容を持っていると同時に別の内容を持っているということを見損なったのである」ガウニロにとって、「『モノロギオン』の神概念は、最大、あるいは最高、あるいは最善のものと呼ばれた、『最大ニシテ最善ナアルモノ……、ソレハ存在スルスベテノモノノウチデ最高デナケレバナラナイ』、『最高ノ本性ノ実体ハ、……ソレガ何デアロウト、必然的ニ、ソレデナイヨリモソレデアルホウガ絶対的ニ善イモノデアル』、『神ハ、神デナイスベテノ本性ヲ超越シ、……人間ニ崇メラレ……ルベキ、アル実体』である」――「それは、文字通りにではないが、内容的には、ガウニロの〔存在的な〕スベテノモノヨリ偉大ナモノデアル」。アウグスティヌスも、次のように述べている――「アノ思惟ガ、ソレヨリヨキモノ、マタソレヨリ高貴ナモノガナイ何カヲ得ヨウトスル時ニ、神ニツイテ考エラレテイルノデアル」、それ故に「神は、考えられ得る最大のものである」。したがって、「『自然』神学」の段階における「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)。しかし、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神についての聖書的な証言」は、「神とは異なるすべてのものに対して持つ神の優位性」を、「神とは異なるものによってなされるすべての条件づけ〔外的条件づけ〕からの神の自由〔「すべての外的被制約性からの自由」〕、「神の独立性」として、神とは異なるものとのその「神の相違性そのものの中でだけ見ているだけでなく」、「神の自存性」、「自存性としての神の自由」として、「自己自身である神〔「ご自身の中での神」〕が、それらを〔イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕実証することによって」、その「外的条件づけからの神の自由〔神の独立性〕に相対しても自由であることの中で見ている」。すなわち、「神についての聖書的な証言」は、「神の優位性を神の独立性と自存性との全体性における完全な自由の中で見ている」。

 

 前段で述べた「箇所は、……アウグスティヌス的な定式とも特徴的に異なっている後の定式へと到達した出発点を形造っていた」。「マタ、ソレヨリスグレタモノガ存在スル何カガ神デアルト信ジルイカナル者モ見出サレ得ナイ」――このアウグスティヌスの第二の命題において」も、「教義学的な合理主義を明確に否定している」「『<非>自然』な神学」の段階において思惟し語るアンセルムスの探究のベクトルが、「『自然』神学」の段階において思惟し語るアウグスティヌスの探究のベクトルから「遠ざかって行くかに、人は注意せよ」。「また、これに関する第二の箇所、『ソレヨリ高キニ位スルモノガナイコノ神ヲ、私ハハッキリト告白スルデアロウ』において」も、「『<非>自然』な神学」の段階において思惟し語るアンセルムスの探究のベクトルが、「『自然』神学」の段階において思惟し語るアウグスティヌスの探究のベクトルと「遠ざかって行くかに、人は注意せよ」。「ソモソモ、私タチハ、神的実体ニツイテ、(ソレデ)ナイヨリハ(ソレデ)アルホウガヨイト絶対的ニ考エラレ得ルモノハスベテ信ジテイル。(アンセルムスは、このところまで、アウグスティヌスと共に進んでいる)」、「シカシコノヨウナモノノウチノ何一ツトシテソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイアルモノデナイモノハナイソレ故ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイモノハ神的本質ニツイテ信ジラレルベキスベテデナケレバナラナイ(ここで、われわれは、アンセルムスの、アウグスティヌスに対して独立した考えと取り組まなければならない)」

 

 「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在」という「存在の類比」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という「『自然』神学」の段階における思惟と語り方に対して、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のような根本的包括的な原理的な批判を加えている――すなわち、そのような「三位一体の跡は、世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」。それは、ただ単なる人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して対象化され客体化された人間自身の「内在的に理解された宇宙の諸規定、人間的な現実存在の諸規定、単なる宇宙論や人間論でしかない」ものである。また、そのような「三位一体論は、人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解、神話でしかないない」ものである。言い換えれば、それは、生来的な自然的な類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」でしかないものである。また、アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡である想起(記憶)、知解、愛としての人間の中での神の像を、最も身近な最も高貴な認識根拠とした」。それは、「アウグスティヌスにとって、聖書的・教会的・教義的前提であった」。このことは、「アンセルムスにとってもそうであった」が、アンセルムスは、アウグスティヌスとは違って、第一に、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としてのCredoに連帯し連続して「教えられつつ語るのであって、〔生来的な自然的な〕われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろうとはしなかった」し、第二に、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊とは同一ではないが聖霊によって更新された人間も理性性は、「啓示、恵み、信仰を前提条件としていた」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」を前提条件としていた。

 

 「『モノロギオン』の序によれば、新しい論証を探究した際の不安……と喜び」における「尋ね求められた新しい論証」は、「ただ一ツノ論証として、神の存在本質を証明するのに十分でなければならない」。「しかも、……それは、その構造において〔すなわち、前段で述べた<総体的構造>において〕、神の信じられた本質に相応し、それ故に神としての神に適した仕方で、神を証明するのに役立ち得る仕方で、証明する力を持つべきである」。「その際、神の本質」は、「ホカノドノヨウナモノヲモ必要トシナイガ、スベテノモノガソノ存在ト幸福ノタメニハ必要トシテイル至高ノ善であることは、神に特有なことである」と記述される(下記のを参照)。このことは、「その名を手段としたその神の存在と本質が証明されるべき神の名が、尋ね求められている証明をなしてゆくために、信じられた、しかし証明されていない神の存在を、あるいは信じられた、しかし証明されていない神の本質を念頭において、その名を考えあるいは語ることでもって十分であるといった具合でなければならないということを意味している」。何故ならば、その証明は、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としてのCredoに連帯し連続した終末論的限界の下でのその途上性にあるそれであるからである(Ⅰコリント138以下)。「タダ一ツノ真理デ、シカモソノ論証自身ノ証明ニホカノ論証ヲ必要トシナイ論証」、「前者ニハ、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイトイウ表現以外ニ何モノモ必要でない。……ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノガ、ソレ自体ニツイテ、ソレ自体ヲ通シテ証明シテイル」。このことは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を指し示している。

 

「ホカノドノヨウナモノヲモ必要トシナイガ」とは、キリストにあっての神としての神は、「自存性の概念」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「自己自身である神の自由」<と>「神とは異なるものによってなされるすべての条件づけからの神の自由」、「独立性の概念」との<全体性>において完全に自由であるということであり、また「スベテノモノガソノ存在ト幸福ノタメニハ必要トシテイル至高ノ善であること」とは、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>のことであり、それらのことは第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神に特有なことである」と記述される。

 

 アンセルムスの認識的なソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ〔「ドイツ語では……それより偉大なものが考えられ得ない何か』」〕という定式」は、「神の信じられた<存在>の証明に対しても、神の信じられた<本質>の証明に対しても、不十分である」。アンセルムスは、「『モノロギオン』において、神の信じられた存在のことを、いろいろな箇所で〔「顕示的ニ」また「暗示的ニ」〕主張している」。しかし、「証明しようと試みてはいないということは偶然ではない」。「後の成果であるモノロギオン』において前提された神概念に基づいては〔証明は〕不可能であるという洞察」は、「ガウニロに対する解答の中で正式に語られるようになる」。そして、ガウニロの「スベテノモノヨリ偉大デアルモノは、また存在<しない>として<考え>られ<得る>であろう。しかし、前提された概念が、この可能性をそれ自身を通して排除しない限り」、それ故に「神が存在しないこと(非存在)が、前提された神概念を除去することなしに考えられ得る限り、この神概念は証明にとっては役に立たない。なぜならば、神の存在の証明は神の存在が考えるべく必然的であるとして(すなわち、考えないでいることは不可能であるとして)示された時に〔換言すれば、神の存在の客観的な「存在的な<必然性>」が示された時に〕、はじめてあるからである」。アンセルムスは、「今や『モノロギオンに対する明らかな自己訂正の中で、ガウニロの「スベテノモノヨリ偉大ナ何かは、再び、<ソレヨリ偉ナ>何カが(タトエ存在シナイトシテモ)少なくとも考えられ得るであろうということを排除しないから」、ガウニロの「あの概念〔スベテノモノヨリ偉大デアルモノ〕は、神の信じられた本質を証明するのに十分でないということ……を明らかにする」――「モシ存在スルスベテノモノヨリ偉大ナ何カガ〔客観的に〕存在スルガ、ソレハ〔主観的に〕存在シナイト考エラレ得ルシ、マタソレヨリ偉大ナ何カハ、タトエ〔客観的に〕存在シナイトシテモ〔主観的に〕存在スルト考エラレ得ル、ト人ガ言ッタナラドウダロウカ。……同ジヨウニ、コノ場合モ、ソレガ存在シテイルスベテノモノヨリモ偉大ナモノデハナイ、トイウコトヲ明白ニ結論ヅケルコトガ出来ルダロウカ」、それ故「『真理ニツイテ』の中でも、われわれは、アンセルムスが首尾一貫した仕方で、『……デアルト考エルコトハ不可能デアルをもって作業をしているのを見る」。したがって、「この考えの可能性を排除することこそが神の根源的な完全な本質の実際の証明を通して遂行されなければならないであろう」。したがって、ガウニロは、アンセルムスに対して、『プロスロギオン』における新しい内容を持ったアンセルムスの思惟と語りを誤解し誤謬し、あたかもアンセルムスの概念であるかのように「無思慮に曲解しつつ、存在的なものへと逆戻りさせしまうスベテノモノヨリ偉大ナ何カというこの概念を手段として用いたのでは証明は不可能であるということを教えなければならないと考えた時、無駄骨を折っていたのである」。「アンセルムスの証明が、十三世紀においてさらに広く神学的な領域にわたって知られるようになった知られ方は、決して好意ある、有利なしるしの下に立っていなかった」。そこにおいては、「アンセルムス自身は、全部ひっくるめて、ことごとく、曖昧なものだと見做したところの、純粋に<存在的な>前提の上に基礎づけられた神証明と同じ系列〔「『自然』神学」の系列〕に入れられ話題にのせられることによって、〔第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての〕神学を危険にさらした」。

 

 ガウニロのスベテノモノヨリ偉大ナ何カを証明するに際しての無力さは、スベテノモノヨリ偉大ナ何カにとって、神の>名として、あの<自足性>(その対象の本質に相応し適っている自足性)が欠けている」という点にあった。したがって、「スベテノモノヨリ偉大ナ何カ」が、「証明する力を持つようになるためには、そのもの自身と共に与えられていない特定の諸前提を必要としている」。「スベテノモノヨリ偉大ナ何カ」は、「『最高のもの』であるために」、<第一に>、「スベテノモノの存在と本質の中で、自分たち自身を超えて『最高のもの』を指し示しつつ、『最高のもの』の中に自分たちの頂点を持つところの諸事物の存在と本質を前提としている」。すなわち、それは、「自余のピラミッドなしには、頂点は頂点ではあり得ない……」。「ヨリ劣ッタ善キモノカラヨリ偉大ナモノヘト上昇シツツ……人はスベテノモノノウチノ最上ニシテ最大ノモノの概念に到達する」。このように、「人は、低いものの存在と本質から、そのような最高のものの本質へと推論スルコトが、推測しつつ結論づけることができる」。「不信者は、人は、〔「『自然』神学」の段階で、生来的な自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して〕そのことが<できる>ということを思い出させられなければならないであろう」――この時には、その神は、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神ではない、その神は人間の意味世界・物語世界・神話世界としての「存在者レベルでの神」である。それに対して、「『<非>自然』な神学」の段階で思惟し語る「信者は、ローマ一・二〇から、この『できること』は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の〕特別の啓示の真理であることを思い出させられなければならない……」。「しかし、<そのことでもって>、『最高のもの』そのものの存在」は、「また本質も、知解され証明されたのではない」。アンセルムスは、「鋭い仕方で、コノヨウナタグイノ何カガ実在トシテ存在シテイルカドウカを問う問いは、『モノロギオン』において歩まれた道の上では答えられないことを強調している」――すなわち、「黙想」や生来的な自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使した「神ニ達スル道の上では答えられないことを強調している」。「神の知解の可能性」は、アンセルムスによれば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>にある。

 

 そのような訳で、「スベテノモノヨリ偉大ナ何カが、証明する力を持つようになるために」、「最高のものの決定的な概念」は、<第二に>、「まさにソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノという概念である」。すなわち、「スベテノモノヨリ偉大ナモノが、ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノと同一であると考えられることによって、それが表示しているものの存在と完全さが証明され得るのであって、それ以外の仕方で、証明されるのではない」。「このところからしても、ガウニロの島のたとえが無用な思いつきでしかないことが証明される」。ガウニロは、アンセルムスを誤解し誤謬したまま、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノを神の本質の定義とみなし、アンセルムスの証明を、……神の本質から存在を推論することだとみなしたのである」。しかし、区別を包括した単一性において先ず以て「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求するイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、アンセルムスの神の本質の証明は神の存在の証明と同様ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノから続いてくる、「しかもそれは神の存在の証明が神の本質の証明に先行するような仕方においてである」。「ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイモノハ、ソレノミガスベテヨリ偉大デアルモノトシテシカ全ク理解サレ得ナイカラデアル。ソコデ、ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノガ理解サレ、理解ノウチニアリ、ソレ故ソレガ、実在トシテ存在スルコトガ主張サレルヨウニ、スベテヨリ偉大デアルト言ワレルモノガ理解サレ、マタ理解ノウチニアリ、ソレ故実在トシテ必然的ニ存在スルコトガ結論ヅケラレル。コウシテ失ワレタ島ノ記述ガ理解サレタトイウ唯一の理解カラ、ソレガ存在スルト主張シヨウトシタアノ愚鈍ナ者ニ、貴君ガ私ヲ較ベタコトガドンナニ正当ナコトダッタカガ分カルダロウ」。「その中で、それがその対象に相応するであろう自足性」は、「スベテノモノヨリ偉大ナモノにとって、……固有ではない」、換言すれば「『プロスロギオンにおいて発見された神の名〔「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ」、「ドイツ語では……それより偉大なものが考えられ得ない何か』」〕にとって固有である」このソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノとして神を言い表す表示の仕方、「いかなるものの存在と本質をも神ご自身の存在と本質をも考えられたものあるいは考えられ得るものとしてさえ前提していない」。「この表示の仕方、「神は考えられるべきであり考えられることができるとしたら>、……ほかのいかなるものも神より偉大なものとして考えられることはゆるされないであろうということを語っている」。この神の表示の仕方の前提のもとでなされるべき証明、その「神の名が何よりも先に自分自身を証明している〔先行して自己証明している〕ということから分析的な命題ではなく総合的な命題である〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っている〕」。このことからしてこの神の表示の仕方はその対象に対応している、「また〔その啓示に固有な自己〕証明する力を持ち得るのである」。言い換えれば、その前提された神の名が神証明においてなすべきであるところのことをなすことができるのである」。「神の名」、「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノでもって、敵(否定あるいは疑い)は、そのもの自身の本営において探し出され」、「そこから存在的な神概念の前提のもとで、神の知解が、繰り返し問いに付されなければならない考えること<そのもの>が、神の名のしるしのもとにおかれ、それと共に、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた〕神の必然的な知解へと呼び出される」。「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノ」は、「まさに神の非存在あるいは完全性のすべての存在的な神概念の背後にひそんでいる〔主観的な〕<考えられ得ること>を排除するのに……適している」、「創造者から被造物に対して発せられる、アナタガタハ神ノヨウデアッテハ<ナラナイ>という禁止命令が含みをもっている徹底さと重みをもって排除するのに適している」。そして、それは、「まさにそのようにしてこそ神の存在と完全性の知解あるいは証明を基礎づけるのに適している」。

 

 このような訳で、アンセルムスが「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノ」――「<この>神の名を選ぶに当たって熟考した動機を、ガウニロは完全に誤解したのである」。何故ならば、「そうでなければ、〔ガウニロは、「無思慮に曲解しつつ」定式化した〕スベテノモノヨリ偉大ナモノを筆にとって書くことはなかったであろう」からである。「アンセルムスが欲したことの理解は人が……ガウニロ的な混同の過ちを犯さないということによってもってかかっている」。しかし、「Fr・オーフェルベックのようなあれほど賢明で自主独立的な歴史家、われわれの証明の根本概念についての、世間で行われている普通の間違った説明の水準を、少しも超え出る術を知らなかった……」。

 

 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「二 神の存在を問う問い」(その1

 アンセルムスのモノロギオンからプロスロギオンへの探究の前進性」は、区別を包括した単一性において、「神の存在を問う問い」、すなわち「神の存在>(Existenzの問題quia esアナタガ存在スルコト)」、「今や特別な問題として、〔「神の本質を問う問い」、すなわち〕神の本質の問題quia hoc esアナタガコノ……通リノカタデアルコト)と区別され際立って出てくるという点にある。何故ならば、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのため神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)してまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」――このイエスキリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以ては、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方において、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその神の内在的本質の認識(啓示認識、すなわち啓示信仰)を要求するからである。アンセルムスは、「existereあるいはsubsistere〔いずれも存在スルの意〕という意味でのesse〔存在、存在スルコト〕という概念を、既に『モノロギオン』で知っている、ちょうど彼がまた神の存在を既に『モノロギオン』のところで信仰の問題として主張していたように」。アンセルムスにとっては、「『プロスロギオンにおいてはじめて神の存在の問題は信仰ノ知解すなわち証明の対象に……なったのである」。アンセルムスは、「神の存在を問う問い〔「神の存在の問題」〕、その書物の先端のところにある神の本質を問う問い〔「神の本質の問題」〕前に発言させるという際立った仕方で取り組むのである」、「神の存在の証明を神の本質の証明に先行させるという仕方で取り組むのである」。

 

 「『モノロギオン』において、『存在』(Existenz)の意味が、一つには、……essentia〔存在、本質〕、esse〔存在、存在スルコト〕、existens sive subsistens〔存在、存在シテイル〕という三つの単語が互いに比較され」、「それらは、ちょうどlux〔光〕、lucere〔光ルコト〕、lucens〔光ヲ放ッテイル〕が互いに関係しているように互いに関係していると語られることによって明らかにされている」、ちょうど「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方が(換言すれば、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>が)、「啓示者〔・言葉の語り手・創造者〕、啓示〔・語り手の言葉・和解者〕、啓示されてあること〔・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者〕」、「神の聖〔『神の隠蔽』〕、あわれみ〔『神の顕現』〕、愛〔神的愛に基づく父と子の交わりとしての『聖霊の中で、父は子の父、言葉の語り手であり、子は父の子、語り手の言葉である』〕」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造者なる神、和解者なる神、救済者なる神」に対応しているように。何故ならば、「essentia〔存在、本質〕は、対象の存在の力アルコト(Mächtigkeit)を、esse〔存在、存在スルコト〕は、対象の存在の実在性を言い表している〔換言すれば、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」の実在性を言い表している〕と解釈することがゆるされるであろう」からである。「しかし、対象は、それが<そこに存在するda isut)>限り、すなわち……ただ単に人間の考えにとって対象であるというだけで<ない>限り、existens sive subsistens〔存在、存在シテイル〕と言われる〔換言すれば、その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」を包括した客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教が現存していることからして、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としてあるところの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)が客観的に存在していると言われる〕」。「essentia本質とesse存在スルコト」は、「その対象が考えられる限り、その対象は存在していると考えられるのだから」、「それのそこ存在Da-Sein確かに人間的な思惟の行為においては前提されている」。しかし、その人間的な「思惟行為(Denkakt)はその前提に関して、単なる仮設、創作、虚偽、誤謬の性格を持っていはしないであろうかについては決定されていない対象も持つ」。そこにおいては、「該当する対象は、<ただその〔人間的な〕思惟行為の前提としてそこに存在するだけであり」、それ故にそれは、<いかなるそこ存在Da-Sein)<も持っていないということ>、換言すればおそらくその存在の力と実在性Wirklichkeitについてはそれ自身、〔人間の自由な自己意識・思惟・理性の類的機能の中では〕首尾一貫した意味深い発言がなされ得るかもしれないが、現実には存在しないということを意味するであろう」。それに対して、「existensあるいはsubsistens〔存在、存在シテイル〕」、「一つの対象を考えられていることの内的領域から(その対象は、そもそもそれについて語られる限り、<また>そこに身をおいているのであるが、その内的領域から)<『外に出ている』>としてすなわちその存在の力あることMächtigkeit)、その存在の実在性そのそこ存在>(Da-Seinについてのすべての思惟に相対して、<『対自的に存在している』>として独立的に(もっともあの思惟することに対して閉ざされていないのであるが)存在するとして特徴づける」、ちょうど三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としてあるところの「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」を包括した客観的な存在的なラチオ性>」)の関係と構造秩序性、その存在の力あること(Mächtigkeit)、その存在の実在性<と>その<そこ存在>(Da-Seinについての主観的なすべての思惟に相対して客観的に存在しているようにしたがって、「その対象はそこ存在Da-Seinを持っているのでありその存在の力あることMächtigkeitと実在性Wirklichkeitについてはおそらくほとんど、あるいは全く何も語られることができないとしてもそれは、<現実存在しているexistiert)>のである」、ちょうどそれは、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教が現存しているように、現実存在している。

 

 さて、「『プロスロギオンにおいてアンセルムス、「一方ハ、モノガ理解(知解)ノニウチニ存在スルのであり、他方ハ、モノガ存在スルコトヲ理解(知解)スルのである。第一のesse〔存在、存在スルコト〕は、考えられていることの外でモノ(res)が存在していないというその<非存在(Nicht-Dasein)>と結びつけられ得るのである」、「第二のesse〔存在、存在スルコト〕は、第一のesseに<つけ加わってくるべき考えられていることの外部での事物の存在のことである>という第一の区別をしている。すなわち、esse〔存在、存在スルコト〕は、理解ノウチニ持チマタ……存在スルコトモ理解シテイル〔ちょうど「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、区別を包括した単一性において、客観的な「存在的な<必然性>」(イエス・キリストにおける「啓示の出来事」は、同時にその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」(「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括しているように〕、と述べている。さらに「もっと鋭い響きを立てているアンセルムスの第二の区別」は、「対象は、タダ理解(知解)ノウチ<ダケ>ノ存在か、あるいは理解ノウチト実在トシテノ存在を持っているか」という点にある。「一方において、事情によっては、ただ考えられただけの対象の規定としての存在の力あることと存在の実在性は、他方においては、現実の存在(Dasein)は、アンセルムスによれば、明らかに事実、内的な円が外的な円に関係するように関係している」、ちょうど客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」は、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての「認識的な<必然性>」を前提条件とするように。「存在が、存在の力を持っており、また存在の実在を持つとして<考えられる>ところ、そこでは、その対象は、たとえただ単に仮説的、創作的、虚偽的な仕方においてであれ、また存在するとして<考えられる」。「しかし、その対象が、ただ単に存在するとして<考えられるだけではないということ>、それ故に「その対象の存在は、仮説でも、創作でも、虚偽でも、誤謬でもないということ、そのことは、その対象の存在の力あることと存在の実在性のことを考えるということでもって、一緒に考えられていることではなくて」、そのことは、「<特別に>考えられなければならず、またいやしくも理解され証明させられる時には特別に理解され証明されなければならない」この特別な考えと証明を問う問い、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」ではなく、まさに「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の存在を問う問いExistenzfrage)>〔「神の存在の問題」〕である

 

 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「二 神の存在を問う問い」(その2

 アンセルムスは、「<特別な考えと証明を問う問いにおいて、「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)ではなくて先ず以て神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)に向かうこの神の存在を問う問い、「すべての理解を問う問いの中で、それがただ単に<考えること>の対象であるだけでなく、まさに考えることの対象である限り」、知解・「理解の対象そのものを問う問いとして際立たせられている」。この神の存在を問う問い、その「考えることの対象が、<考えること>の対象であることは確かであるが、その考えることに対して、同時に単に考えられたものへと解消させられないで相対して立っているどの程度まで相対して立っているかを問う。また、考えることの対象が、考えられたものの〔主観的な〕内的な円に属しつつ、その考えることに対して、同時にただ単に考えられただけではないものの〔客観的な〕外的な円へと『現われ出』、独立的に存在するものであるかどうか、どの程度までそのようなものであるのかを問う」。言い換えれば、「神の存在を問う問い」は、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」の関係と構造(秩序性)を問う。

 

 そのような訳で、「アンセルムスにとっては……まさに対象がまことに存在することWahrsein対象が常に、〔類的機能を持つわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟の〕「〔外ニ出テ存在スルコトex-sistere……よってもってかかっている」。アンセルムスにとっては、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の「<真理にあっての存在、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」として、「第三の最も外側の円……である」、「(もしも……考えられた対象がまことであるべきであるなら)存在(das Dasein)が、そして存在内部で考えられた存在(das Gedachtsein)が、包まれていなければならない第三の最も外側の円である」。すなわち、「対象は、先ず第一に、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の〕<真理の中にある>。それからまたそれだからその対象は〔そこ存在として〕そこにありそれから再びそれだからその対象は考えられることができる」(われわれ人間の思惟の対象となることができる)。ここでは、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」のことが語られている。このような訳で、「存在という中間段階なしに、考えれたものは、まことであることはできないであろう」。したがって、「実際に<タダ>〔主観的な知解・〕理解ノウチデ<ノミ>……あるところのもの」、それ故に「実在トシテ存在スルコトを排除しつつあるところのもの」――「それは、イツワリであるであろう」。それに対して、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて「理解知解ノウチニモマタ実在トシテモ存在するものはまことなるものと同一である」。何故ならば、「それは、もしもそれがそれより前に、真理のうちに存在しなかったならば、実在トシテ存在することはできないであろうからである」。したがって、「言明の真理はその言明が存在しているものを存在するとして表示するということによってもってかかっている」。

 

 そのような訳で、「対象の理解〔知解〕を問う問い」は、「それが存在する力があることとまたそれの実在性の理解のうちで休止してしまうことはできず、その問いがまことの理解、真理の知解であるためには、それを超えて、そのようにその存在のうちで理解されたものの存在にまで、その対立性の理解にまで、突き進まなければならない」。「対象の理解を問う問い、「あの第二の外側の円にまで広げられる時に初めて」――すなわち、「その問いが対象の現実存在をただ単に考えられただけでない存在を問う時に初めて」、換言すれば客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」について認識し自覚する時に初めて、「その問いは全く真剣なものとなる」。「それと共に初めてその対象の理解(知解)を問う問いは真理の第三の包括的な領域にまで突き進むのである」。すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」における「真理の第三の包括的な領域にまで突き進むのである」。したがって、その「存在を問う問いは、存在する力があること<と>存在の実在性を、対象の潜在可能性<と>現実性を、essentia〔本質〕<と>esse〔存在スルコト〕を問う問いと混同されてはならない」。イエス・キリストにおける神の自己啓示が要求することからして、区別を包括した単一性において、「存在を問う問いが本質を問う問いを包含する問いとして本質を問う問いに相対してそれ独自の新しい問いであることが明らかでなければならない」。その時、「言うまでもなく、<どのようなものの>存在がそこで問われているか確立されていなければならいのであるが、本質を問う問いが答えられたとして前提されていることは、それ自体一つの問題である」。何故ならば、その「存在は、その存在に関して問題となっている対象の本質から導き出されてはならない」からである。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)において、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその内在的本質の認識(啓示認識、すなわち啓示信仰)を要求するからである。このような訳で、「存在を問う問いは本質を問う問いが答えられることによっては決して一緒に答えられてはいないという前提のもとで立てられなければならない」。「明らかに、この後者の意味の熟慮の中で、アンセルムスは、『プロスロギオンにおいて、〔区別を包括した単一性における〕神の存在を問う問いをただ単に本質を問う問いから分けただけでなく本質を問う問い前に〔神の<本質>を問う問いに先行させて〕、第一の問いとして探究したのである」。

 

 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「二 神の存在を問う問い」(その3

 アンセルムスにおいて「神の<本質>を問う問い〔「神の本質の問題」〕」の前に先行させるべき信仰ノ知解すなわち証明の対象に……なった神の<存在>を問う問い〔「神の存在の問題」〕が、換言すれば『モノロギオン』におけるexistereあるいはsubsistere〔いずれも存在スルの意〕という意味でのesse存在スルコトという概念、「『プロスロギオンにおいて初めて自覚的に取り上げられることになった」。「essentia本質〕は、対象の存在の力アルコトMächtigkeit)を、esse存在スルコト〕は、対象の存在の実在性を言い表していると解釈することがゆるされるが〔換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を言い表していると解釈することがゆるされるが〕、対象は、それが〔客観的に〕<そこに存在するda isut)>限り、すなわち……ただ単に〔主観的に〕人間の考えにとって対象であるというだけで<ない>限り、existens sive subsistens〔存在、存在シテイル〕と言われる〔換言すれば、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的な>信仰告白および教義としてのCredo<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾整理と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性を持っていると言われる〕」、ちょうど例えば「対象の存在の力アルコト>」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)における「啓示と和解が、キリストの神性の根拠ではなくて」、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父が子として自分を自分から区別した」子としての「キリストの神性が、啓示と和解を生じさせる」ことを意味しているように、それ故に「赦す神」は、たとえその人が「まことの人間」であっても、人間に内在することは決してないということを意味しているように。「existensあるいはsubsistens〔存在、存在シテイル〕という概念は、一つの対象を、考えられていることの内的領域から(その対象は、そもそもそれについて語られる限り、<また>そこに身をおいているのであるが、その内的領域から)<strong>外に出ているとして、すなわちその存在の力あること(Mächtigkeit)、その存在の実在性<と>そのそこ存在(Da-Seinについてのすべての思惟に相対して、『対自的に存在しているとして独立的に(もっともあの思惟することに対して閉ざされていないのであるが)存在するとして特徴づけることができるから、「その対象はそこ存在Da-Seinを持っているのでありその存在の力あることMächtigkeit)<と>実在性Wirklichkeitについては、おそらくほとんど、あるいは全く何も語られることができないとしても、それは現実存在しているexistiert)」。

 

 「『モノロギオン』と『プロスロギオン』五-二六章において論じられている神の本質についての教え、「神のessentia本質<と>esse存在スルコトと取り組んでおりその核心ニオイテそれら二つのものは神においては……二つのものではなく、〔「単一性と区別」において、換言すれば区別を包括した単一性において一つのものであるということを語っている」、ちょうど「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)、詳しく言えば起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において現実存在しているように、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)のその連続性において現実存在しているように(Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)。「神は、その自足性のゆえに、すなわちその創造主としての栄光のゆえに、神は現にあるすべてのものである」。「神ご自身は、常にあるところのものであり給い、神が常にあるところのものそのものであり給う」、ここに「神のすべての力強さがある」。「区別と単一性」(区別を包括した単一性)において、この「神の力強さと神の実在性は同一である」――「アナタハイツ、アルイハドノヨウナ形デ、ドノヨウナモノデアルニシロ、全体トシテマタ常ニソノモノデスカラ、アナタハアナタデアルトコロノモノデス」、「最高真理ハ何モノニ対シテモ全ク負債ハナイ。マタ、ソレガ最高真理デアルノハ、ソレガソレデアルトイウ以外ノドノヨウナ理由ニヨルノデモナイ」、「善ト全能、ソレカラマタ同様ニ、アナタニツイテ語ラレ、信ジラレテイルアレラスベテノコト以外ノ本質ガアナタニ属スルコトハアリマセン」。われわれは、この神の「力強い実在性」、「あるいはまた実在の力の証明」は、「モノロギオンにおいては、神概念として、アラユルモノヨリ大キイモノの前提のもとで、……神の存在を問う問いを未解決のまま残しつつなされた、「プロスロギオンにおいては」、「どのように……あの神概念をソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノを通して置き換えそれ故に神の本質を別な仕方で証明する〔換言すれば、イエス・キリストにおける神の自己啓示が要求することからして、先ず以て、「第一の問題」である「神の存在を問う問い」を「第二の問題」である「神の本質を問う問い」に先行させるという仕方で証明する〕に至ったということを見た」。われわれは、「明らかに同時に、それとの関連性の中で、……アンセルムスにとって……、あの未解決のまま残された問い」――すなわち、「神の存在に関する真理問題」については、その「問い」のベクトルが、「対象を考えること>の『内的な』円を超えて対象そのものを考えることの『外的な』円へと突き進み、それと共に、真理そのものに向かって突き進むような仕方で、真剣に受け取られるべきである」というように変容させられているのを見た。言い換えれば、われわれは、「神の存在に関する真理問題」について、その問いのベクトルが、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて、具体的には客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における「先ず第一義的に優位に立つ原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕としてのイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕である」第二の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書、それからその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)に依拠して、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(すなわち、一般的な倫理学の問題ではなくて、区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、詳しく言えば全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、「真理そのものに向かって突き進むような仕方で、真剣に受け取られるべきである」というように変容させられているのを見た、これが、「『プロスロギオン二章の表題神ガマコトニ存在スルコトの最初の可能な解釈である。「信仰が神の存在を肯定する際の<確信>に、……神が存在しないことを考えることができないという不可能性を見てとる<洞察>は対応しない」。したがって、「信仰の要求された知解においては神として表示された対象は、ただ考えの中でだけ存在するとして考えられることができないということが示されなければならない」。アンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」――このことを、「人は合理主義だと批判した」が、「アンセルムスは、教義学的な合理主義を明確に否定している」。すなわち、アンセルムスは、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての「神学を一般的真理としてではなく、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別〕啓示から得られた認識として」、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」から「啓示認識の可能性について考えたのである」。「このことを示すことが、『プロスロギオン四章でなされている神の存在の証明の意図であるここに、神の存在証明がアンセルムスに対して要求されている際の、特有な特徴的な切迫性があるのであるがそのことはこれまで語られたことをもってしては、まだ明らかにされていない」。

 

 「神の存在を問う問いは、ある対象の存在を問う一般的な問いの特別な事例として理解され、それに対応しつつ答えられなければならないかのように受け取る誤解をした父は、ガウニロである」。すなわち、ガウニロは、「『自然』神学」の段階における思惟と語りにおいて、「神概念を、〔一般的な〕<何かある一つの>概念とみなしたように、また神の存在を〔一般的な〕<何かある一つの>存在とみなしたのである」。ガウニロは、「そのことでもって、ちょうどアンセルムスの第一の歩みを誤認したと同様に、第二の歩みをも誤認したのである」。したがって、「一般的な存在の問題であるあの島の証明<と>特別な問いとしての神の存在の証明均等化したガウニロにとって神の存在を問う問いは、……はるかに僅かな切迫感しかなかったのである」。ガウニロは、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して<観念の遊び>をしただけであった。すなわち、「アンセルムスが神の存在を信じており>、神の存在について考えなければならないが故に神の存在を知解しようと欲する際のアンセルムスの情熱はガウニロには全く縁遠いものであった」。その事柄における先行する神の用意という観点と客観的側面の観点を持たないガウニロの「好奇心的な情熱」は、「神をただ〔主観的な〕思惟の中でだけ存在するとして考えることが全く可能であるという主張に向けられていた」。ただそういう仕方でだけ、「ガウニロは、熱心に、鋭く、誠実に思惟する」、アンセルムスを誤解し誤謬しつつ恣意的独断的に思惟し自己主張する。したがってガウニロは、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の存在について考え<なければならない>ことはないのである」、また「神の存在を証明しようと欲し<なければならない>ことはないのである」、すなわち「<なければならない>という二重の強制から自己解放して思惟し」自己主張しているのである。しかし、このガウニロは、「『自然』神学」の段階で思惟し語る「最初の<そのような>神学者ではないし、また最後の<そのような>神学者でもないのである」。何故ならば、例えば「われわれは、〔近代以降における〕シュライエルマッハー以外の他の人々〔ハルナック、パネンベルク、ブルンナー、ニーバー、ティリッヒ、ボンヘッファー、ブルトマン、モルトマン、ユンゲル、クラッパート、ボーレン、マクグラス、滝沢克己、八木誠一、北森嘉蔵、その最初から世俗的牧師を名乗る牧師等々〕の所でも、……〔「『自然』神学」の段階における最高峰である、人間中心主義において「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)を完全に止揚(揚棄)して、人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見した、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」を惹き起こす〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」からである(『ヘーゲル』)。

 

 アンセルムスは、「モシ、実在トシテニシロ、思考ノウチダケニシロ、存在シテイルモノデ、私ノ論証ガ適用サレ得ルモノヲ、『ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイモノ』以外ニ誰カガ見ツケテクレタナラ」、ガウニロの「島の存在も断固として証明することができると宣言する」。しかし、そのことは、アンセルムスにとっては、「<ただ>そのものの存在<だけ>が証明されることができるものの存在の証明をなすことを意味している」、ちょうど第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて、具体的には客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的なしるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「啓示との間接的同一性〔啓示との区別を包括した同一性〕」において存在している最初の直接的な第一の啓示のしるし>)である聖書――すなわち、イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉(「啓示のしるし>」しるし>)である教会の宣教に基づいて現実存在していると言うことができるように、それ故に「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」(『教会教義学 神の言葉』)と言うことができるように。イエス・キリストにおける神の自己啓示が要求することからして、アンセルムスにとっては、「それと共に与えられた切迫性をもって、神の存在証明は……要求なのである」――「存在シナイト理解サレ得ナイコトハ、神ニ固有ノコトデアル」。「なぜなら、『確カニ、始メアルイハ終リガアリ、アルイハ、部分カラ構成サレテイルモノ、マタ……ドコカアルイハイツカ全体トシテ存在シテイナイモノハ、スベテソシテソレラダケ存在シナイト考エラレ得ル』、『シカシ、始メナク、終リナク、部分カラ構成サレズ、マタドノヨウナ思考ニヨッテモ、常ニマタドコデモ全体トシテシカ見イダサレナイモノダケハ、存在シナイコトガ考エラレ得ナイ』からである」。「ガウニロに反対する四章において、アンセルムスにとっては神の存在が問題なのではなく神の存在は……アンセルムスによって意図された厳格な仕方でだけ証明されることができるということの証明が問題であるわき役的な証明でありそれは、神の<本質>からしてなされるとしたボナヴェントゥラの考えは、アンセルムスの意図から外れた考えであり、それ故に神の<存在>の証明として役立つことはできない」のである。イエス・キリストにおける神の自己啓示が要求することからしてそうである。

 

 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「二 神の存在を問う問い」(その4

 われわれは、イエス・キリストにおける神の自己啓示が要求することからして、「〔先ず以て「第一の問題」である〕神が存在するということ〔「第二の問題」である〕神の本質から開示されることはできないということ……を見た」。神の本質を問う問い、「神は<何で>あり給うかという問いに対するすべての答えに相対して、神は存在し給うかという問いは、特別な(信仰の確信にとっては解決されたとはいえ)未解決な問いである」。したがって、アンセルムスは、イエス・キリストにおける神の自己啓示が要求することからして、「特別な考えと証明を問う問いにおいて、〔「第二の問題」である〕神の<本質>を問う問いではなく、先ず以て「〔「第一の問題」である〕神の存在を問う問い(神の<存在>の問題、神の<存在>の証明の問題)に向かったのであるしたがって、「神の存在証明に際して前提された神概念〔「ソレヨリモ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」、「ドイツ語では、……『それより偉大なものが考えられ得ない何か』」〕神の本質についての偽装された教えであると言うことはできない」。ここで、「神に帰せられた存在ということでもって、……何が言おうとされなければならないかが探究されなければならない」。「存在Existenzということは、一般的に、対象の……それが存在するとして考えられるということを度外視しての存在(Daseinということを意味している」。「存在Existenzということ、「対象の……それが考えられていることの真理が、その対象が現実存在しているということを条件づけている」。「まさに、<真理>が、その対象の存在<と>その対象の存在がまことに考えられているということを条件づけている」。「対象が、先ず第一に真理の中にあるが故に、真理の中にある限り、それはそこにあり、また存在するとしてまことに考えられる」。言い換えれば、「対象」が、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、詳しく言えば起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――すなわち「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリストにおける神の特別啓示の真理が、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」という啓示の真理に固有な自己証明能力の<総体的構造>を持って、「それはそこにあり、また存在するとしてまことに考えられる」。したがって、「対象そのものの中でまたそれそのものを通してではなく」、「あの第三の包括的な円の中で〔すなわち、われわれ人間に、信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を贈り与える神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」という啓示の真理に固有な自己証明能力の<総体的構造>の中で〕、真理そのものの中で〔すなわち、一般的真理ではなく、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の真理の中で〕、真理そのものを通して対象の存在についてその対象の存在が考えられていることの真理について決断が下される〔すなわち、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、終末論的限界の下で、信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を贈り与える神のその都度の自由な恵みの神的決断が下される〕」。「この決断する〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理が神である」。「そして、<その神の存在について語られるべきである」。「確かに、またここでも、まことに神の<存在>が、神が考えられているということを度外視して神の存在Dasein)>が問題である」、「われわれのための神としてのその外に向かっての外在的な失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の存在Dasein)>が問題である。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は〔一般的な真理ではなく、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理であり給うが故に明らかに傑出した意味での存在Existenzが問題でありあの第二の中間的な円〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的なラチオ性」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的なラチオ性」という第二の中間的な円〕の中での対象の真理を通して条件づけられた存在スルコト(existere)が問題ではなくすべてのそのほかの存在スルコトexistereを条件づけ基礎づけるいや造り出す〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理そのものの存在スルコトexistereすべての相対して立つ対象性のすべてのまことのにあることとまさにそれと共にすべてのまことのにあることの徹底的な起源が問題である」。

 

 第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は存在する時には本来的に先ず第一に、<ただそのものだけが存在する者としての神にふさわしい独一無比な仕方で存在し給う〔すなわち、その「自足性」において、「自己自身である神」としての「三位一体の神」として、自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な仕方で存在し給う」〕」――「コノ霊ハアル驚嘆スベキ独特ナ仕方、マタソレ独自ナ驚嘆スベキ仕方デ存在イシテオリ、アル意味デハソレノミガ存在シテオリ、他ノモノハイカニモ存在シテイルカノヨウニ思エテモ、ソレト比較スル時、ソレラハ存在シテイナイ」、「ソコデ、アナタノミガスベテノモノノウチデ最モ真実ニ、ソレ故スベテノモノノウチデ最大ニ存在ヲ持ッテオラレマス。ケダシ、ホカノモノハ何デモソノヨウニマコトニ存在セズ、ソレ故ヨリ少ナク存在ヲ持ツカラデス」、「アナタハスベテノモノノウチデ至高デ、タダヒトリ己レヲ通シテ存在スル……方ノホカノ何デショウカ」、「ソレ故ニ、タダソノモノダケガ真実ニ存在スルトイウホドニ卓越シ、独自デ、ソノモノト比ベテハ、スベテノ存在ガ無デアルヨウナ、アノ方……」、「アナタハマコトニ真実ニ存在シテオラレマス。ソシテ、アナタナシデハ、他ノ何カガ存在スルトイウコトハアリマセン」。このような訳で、「神の外にあるものそれはその存在を神の恵みを通して持っており、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における起源的な第一の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストの父なる〕神を通して無から造り出されたのでありまたその創造のにおいてもただ神の同じ恵み深い創造的な行為を通してだけ〔換言すれば、その神の第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、父の子としての「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を通してだけ〕無の中への堕落から守られている」――「ソモソモ、全被造物ハ無償デ創ラレタカラ、恩寵ニヨッテ存在シテイル」、「アノ最高ノ本質ガ自分ダケデ、コレホド……諸物ノ全体ヲ自己自体ヲ通シテ無カラ創ッタ」、「神ガ創造シナケレバ、ドノヨウナ本質モ存在シナイノミデナク、神ガ保持シナケレバ、創造サレタモノハ少シデモ存続デキナイノデアル」、「何モノモ創造的現存的本質ヲ通シテノミ創ラレ、同ジクコノ本質ノ保存的現存ヲ通シテシカ何モノモ存続シナイコトハ必然的ナコトデアル」、「ホカノモノハスベテ最高ノ本質の現存ニヨッテ、無ニ陥ラナイヨウニ支エラレテイル」。『教会教義学 神の言葉』では、次のように言われている――「創造された世界における神の愛とわれわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛との間には差異がある」、「後者の神の愛は、まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛である」、それ故に「和解ないし啓示は創造の継続や創造の完成ではない」、すなわち「和解ないし啓示は、神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける新しい神の業である。それは、神的な愛の力、和解の力である」、第二の存在の仕方である「イエス・キリストは、和解主として、〔神の起源的な第一の存在の仕方である〕創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において第二の神的行為を遂行したのである」、「この神の存在の仕方の差異性における創造と和解のこの順序に、キリスト論的に、父と子の順序、父〔「啓示者」・言葉の語り手・創造者〕<と>子〔「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者〕の順序が対応しており、和解主としてのイエス・キリストは、創造主としての父に先行することはできないのである」、しかし「父と子」は、「自己自身である神」としての「三位一体の神」として、「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質としているから、その「従属的な関係は、その「存在の仕方における差異性を意味している」。

 

 そのような訳で、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の意志と行為を度外視しては神でないすべてのものは存在しないであろう」。「神の意志と行為によるそれらすべてのものの存在」は、「神的な思惟の意図の中に閉じ込められてしまっているであろう」――「神でないそれらすべてのものの存在は、……〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における起源的な第一の存在の仕方である〕創ッタ者ノ理性トノ関係ニオイテハ、ソレヲ通シ、ソレニ従ッテ創ラレタノダカラ、(スナワチ、創造以前ニモ無デハナカッタ」。「神でないそれらすべてのものの存在」――「それらすべて」、「それ自身においては自分自身からしては存在の可能性すら持っていない」。すなわち、「それらすべてはその存在の可能性を神からしてただ神からしてだけ持つ」。「ダカラ、存在スル前ハ(スナワチ、世界ハ)全ク何モ出来ナカッタ。……一方、世界ヲ創ル力ヲ持ッテイタ神ニトッテハ可能デアッタ。コウシテ、世界ガ出来ル前ニ」、「神ガ〔その起源的な第一の存在の仕方において〕世界ヲ創ルコトガ出来タカラ世界ハ存在スルノデ」、「世界自身ガソレ以前ニ存在シ得タカラデハナイ」。「またそれらすべては存在を、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の〕神の言葉を通して持つ」。「最高ノ実体ハ、マズ自分ノウチデ全被造物ヲイワバ言イ表ワシ、ソノ上デ前述ノ内的表現ニ従イマタソレヲ通シテ創造スルコトハ確実デアル」。「それらすべてはただ神の言葉の中でだけ存在を持つのであってそれ以外の仕方では存在を持っていない>」。「それらすべてはそれが……神の言葉の中で神の言葉を通して存在することによって存在するのでありあのところであるところのものである」。「言葉ノウチニ、存在ノ真実ガ認メラレル」、「最高ノ霊ソノモノガ自己自体ヲ表現スル時、創ラレタモノスベテヲ、ソレハ表現シテイル。何故ナラ、ソレラガ、創ラレル前モ、スデニ創ラレテシマッテイル時モ、マタ破毀サレアルイハ何ラカノ形デ変形シタ時モ、常ニソレラハ、最高ノ霊ノウチニ存在シテイル。タダシ、ソレラ自身トシテデハナク、最高ノ霊自体デアルトコロノモノトシテデアアル。ソモソモ、ソレラ自体トシテハ、不変ノ理性ニ従ッテ創ラレタ可変的本質デアルガ、最高の霊ノウチニオイテハ、本質(das Wesen)ソノモノデ、マタ第一ノ存在ノ真理デアル」。「君ハイツカ、アルイハドコカニ、最高真理ノウチニ存在シナイモノ、マタ存在スルカギリソノ存在ヲ最高真理カラ受ケテイナイヨウナモノ、アルイハ最高真理ノウチニオケルソレトハ違ウモノデアルコトガ可能デアルヨウナモノガ存在スルト考エルカネ。……存在スルモノハスベテ、ソレガ最高真理ノウチニオイテ存ルトコロノモノト変ワラナイカラ、真ニ存在スルト絶対的ニ結論スルコトガ出来マス」。「まさにそれだからこそ、それらすべては、結局世間で行われる普通の道を通って存在するとして知られることができるのであるが、しかし、存在するとして<証明>されることはでき<ない>」。「事実、何カガ存在スルコトヲ知ッテイナガラ、存在シナイト考エルコトハ出来ル」。アンセルムスは、「そのような仕方で……語っており」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としてのCredoに依拠した「アンセルムスが証明しようとしている神の存在、「すべてのほかの存在と区別される」、換言すればイエス・キリストにおける神の自己啓示が先ず以て「第一の問題」として要求する「神の存在を問う問い」における「神の存在」は、「自己自身である神」としての「父なる神の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、詳しく言えば起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――すなわち「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における神の存在として、「すべてのほかの存在と区別される」。「『モノロギオンただこの脈絡の中でだけ理解し得る言葉〔「ソレユエ、コノ霊ハ真ニ神デアルダケデナク、表現ヲ超エテ三位デ一ツデアル唯一ノ神デアル」〕でもって終わっていた」――「この独一無比なるものの独一無比なる存在、また独一無比な仕方で証明し得る存在を証明することがアンセルムスの関心事切迫性である」。したがって、「神の真理を認識するためには、神は、すべてのそのほかの事物が存在するような仕方で存在し給うという認識が欠くことができないものであるという理由で、<この>存在の証明が要求されているのではない」。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「もちろん、神は、<また>この仕方で<も>存在し給うが、しかし、神は、<ただ単に>、そして<主なこととして>、この仕方で存在されるのではない」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示とは神が、〔「われわれのための神」として」〕<われわれに出会い給うということである」。すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様」な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動・活動、外在的本質)、詳しく言えば起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において、「神が、〔「われわれのための神」として〕<われわれに出会い>給うということである」。その神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>――すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」を持っている。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が現にあるところのものであるために、ご自身の存在を『必要とされ』ないということ」は、その神は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」という「そのような存在であり給うが故に」、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における「行為〔・業・働き〕における神の存在あるいは神の存在という行為は〔換言すれば、神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事は〕、〔「自己自身である神」としての「三位一体の」〕神が〔「われわれのための神」として〕存在し給う自由である」。

 

 そのような訳で、「神の存在はただ単に独一無比な存在であるだけでなく本来的に第一に唯一のすべてのそのほかの存在を徹頭徹尾基礎づけている存在でありまさにそれだからこそまたただそれだけが厳密な意味で証明し得る存在である〔ただそれだけが、厳密な意味で自己証明し得る存在である〕」。神は、「また、すべてのそのほかの事物が存在するような仕方で存在するとしても、同時に神は先ず第一に、本来的に、ただ<神に>のみ固有な仕方で存在し給う」、ちょうど「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方において、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であり、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリスト、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)において自己啓示されたように、またその神は、その三つの存在の仕方において父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において「神は現にあるところのものである」ように、またその神は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉に実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書の中において、またその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教の中において現存しているように。「神の存在が思惟することに対して神への信仰を通して課題として課せられているということを前提するならば神の存在はどうしても認識され証明されなければならない>〔すなわち、神の存在は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて認識され証明され<なければならない>〕」。「それは、〔イエス・キリストにおける神の自己啓示が要求することからして、〕すべてのそのほかの存在の認識が、<この>存在の認識と共に立ちもすれば倒れもするという理由からだけでなく、ただそこでだけ……存在そのものの問いが立てられているという理由からしてである」。「<この>存在を問う問い」(「神の存在の問題」)、「真理問題が立てられなければならないことが確かである限り……立てられなければならない>」。「したがって、『プロスロギオン二章の表題神ガマコトニ存在スルコトの第二の可能な意味、「それ自身がすべての存在することの根拠である限り、〔類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」ではなくて、〕独一無比な真理の中で存在するところの存在者が問われなければならないということである」。まさに「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われに差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそ、「まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は〔すなわち、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する「三位一体の神」は〕、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、<間接的に>である」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界(Ⅰコリント138以下)の下で与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、<しるし>の中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である神性が肉となったのではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における「<言葉が肉となった>」――「これがすべてのしるしの最初の起源的な支配的なしるし〔最初の起源的な支配的な「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」〕である、換言すれば<それ>は、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、先行する「神の用意」――すなわち、「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉としての<「存在者」>〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」である。このような訳で、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身――すなわち、この「<最初の起源的な支配的なしるし>に基づいて」、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)――すなわち、その「最初の直接的な第一の啓示のしるし>」が存在する、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるし〔すなわち、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である「啓示のしるし>」しるし>〕が存在する」。包括的に言えば、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、客観的な「存在的な<ラチオ性>」)の関係と構造(秩序性)が存在する(Ⅰコリント310-11)。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」――この「イエス・キリストと地上における可視的なみ国が客観的に存在している」――「これこそ神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について〔思惟し〕語ることができる偉大な可能性である」。

 

 

バルトは、「Ⅱ 神の存在の証明」「B 証明の遂行(『プロスロギオン四章注釈)」、さらに「一 神の一般的な存在(『プロスロギオン』二章)」と「二 神の特別な存在『プロスロギオン』三章)」、「三 神の存在の否定の可能性(『プロスロギオン』四章)」についても論じている。興味のある方は読まれたし。しかし、これまでの論稿におけるバルトの思惟と語りを、詳しく言えば『教会教義学 神の言葉』におけるバルトのイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼する」という思惟と語りを、および三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としてある「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)という思惟と語りを、ならびに第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的作業」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学は、第二の形態の神の言葉である「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づく聖書に対する他律的服自由とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋な>教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、それは『福音と律法』によれば、<純粋な>教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が、<純粋な>教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)の連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするまさに第三の形態の神の言葉であるイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性目指して行くという思惟と語りを念頭に置いて読むという仕方で読むことをすれば、それから『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』における客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」という四つの概念(イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>)を念頭に置いて読むという仕方で読むことをすれば、1931年に完成した『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』は、バルトの著作活動において1932年に出版されたドイツ語原典『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1 』(邦訳「神の言葉」Ⅰ/1、Ⅰ/2Ⅱ/1、Ⅱ/2、Ⅱ/3、Ⅱ/4、)と重なりを持っていることからして(バルトは、1931年にドイツ語原典『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1』の内容を講義している)、またその内容に関しても根本的包括的に原理的に相関関係を持っていることからして、その著作を正しくよく理解することができると考える)。

 

知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明についてのバルトの総括

バルトが知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明の最後の三段落邦訳224-225、「アンセルムスがなそうと欲ししなければならなかった証明は遂行されたと書いたバルトのアンセルムス研究の総括からして、バルトがアンセルムス研究から得られた成果を、「Ⅱ 神の存在の証明」「A 証明の前提までの論稿だけで十分に正しくよく理解することができる。このような訳で、『教会教義学 神の言葉』との関連でバルトのアンセルムス研究の成果から引き寄せられなければならない事柄は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求するところの、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力を持っている(『教会教義学 神の言葉』)ということ、その自己証明能力は次のような総体的構造を持っている(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)ということである。それは客観的な存在的な必然性>」>その中での主観的側面としての主観的な認識的な必然性>」――すなわち、神の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの啓示の出来事>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事を前提条件とするところの、客観的な存在的なラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする神の言葉の三形態(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)>その中での主観的側面としての主観的な認識的なラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性を持っているということ、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉自身がその言葉に固有な出来事の自己運動を持っているということである。バルトはアンセルムス研究の総括としてのその邦訳224-225頁で、「アンセルムスが証明ということで理解していることについて次のように述べている

 

アンセルムスにとっては、第三の形態の神の言葉である「教会の信仰から自分を切り離し……それ自身からではなく、それと別のところから基礎づける学問が問題ではなかった」、すなわち「あくまで〔第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての〕<神学が問題であった」、換言すればアンセルムスにとっては、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書に、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義としてのCredo)に基礎づける学問が問題であった、すなわち教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学が問題であった(Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、第二の形態の神の言葉である「聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストの出来事〔その「生涯および死と復活の出来事」における「啓示ないし和解の出来事」〕の宣べ伝えを目指すことのない〔人間学的領域に属する「『自然』神学」としての学業的なただ「単なる知識」に過ぎない〕形而上学的な教義学は、それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても、その教義学は教義学〔神学〕としては<学問的〔換言すれば、「人間学の後追い知識」としての神学、人間学的領域における人間学的神学〕である」、と述べている。したがって、「既に前もってまた証明なしにも、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断によるところの、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕それ自身の中で確立している信仰〔換言すれば、<主観的なワレ信ズ(<主観的なcredo)としての信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の〕、<信仰を通しての証明が問題であった」、「そして、両方のもの、証明された信仰証明する信仰、アンセルムスは、……人間によって遂行され得る前提としてではなく、神によって遂行された前提として前者を神的な与エルコトとして〔換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件として〕、後者を神的な照ラスコトとして〔換言すれば、「存在的な<必然性>」<と>主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」として〕、理解している」、それ故に「彼は教会の〔客観的な〕Credoと彼の〔主観的な〕credereをも想定しないむしろ彼は祈ったそして、〔その時〕教会のCredoと彼自身のcredereが想定されていた>、神はご自身を、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕彼に理解するように与え給うた>。そして、〔その時、〕彼は神を理解することができた」――「この基礎に基づいて〔換言すれば、「<いかなる>哲学的な前提とも比較することができ<ず>、また神学的・体系的にも把握され得<ない>基礎」に基づいて〕、彼は神の存在を理解し証明した」、「まさにそれだからこそ彼の最後の言葉はただ感謝を語ることができるだけである」。第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈り」の態度〕に対し神が応じて下さる〔「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立している」(『教会教義学 神の言葉』)。「もしも人が愚か者でないとしたら」、換言すればもしも人が信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された恵みの出来事を贈り与えられたとしたら、「それは恵み」であるから、すなわち神のその都度の自由な恵みの神的決断によるものであるから、最後的な言葉はただ感謝>……だけである

 

 第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神はご自身をアンセルムスの理解に対して対象として与え給うた>。また神は彼を神が彼にとって対象として理解し得るようになるために、<照らし出し給うた>。この出来事なしには神の存在のすなわち神の対象性のいかなる証明もない」。言い換えれば、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>――すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいた「出来事なしには神の存在のすなわち神の対象性のいかなる証明もない」。「この出来事の力によって感謝に値する証明がなされた。〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理が語ったのである」。したがって、「信じたいと欲する人間が語ったのではない。〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間はただ信じたいと欲することさえできないであろう。また、〔その〕人間は常に愚か者であることができるだけである」。このような訳でわれわれは、「……もしも愚か者でないとしたらそれは〔徹頭徹尾神の〕恵みであるということを聞いた」のである、「また、……愚か者であるとしてもタトエ私ガアナタノ存在スルコトヲ信ジルコトヲ望マナクトモ、〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているが故に、起源的な第一の形態の神の言葉自身がその言葉に固有な出来事の自己運動を持っているが故に、〕真理は語っ>」ということを聞いたのである。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の「真理が、聞き逃すことのできない仕方で、反駁することができない仕方で、忘れることができない仕方でそれであるから真理を理解しないことが人間に対して禁じられておりその限り不可能である仕方で語ったのである」。「まさに〔神のその都度の自由な恵みの神的決断によるところの、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた〕信仰の信仰を通しての、〔第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての学問としての神学は〔換言すれば、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、第二の形態の神の言葉である「聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指す学問としての神学は〕、……〔第三の形態の神の言葉である教会に属する全く人間的な〕神学者の信仰の光ではないを持っている」、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)に連帯し連続するという徹頭徹尾神の側の真実としてのみある神の恵みの光を持っている(Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)。

 

 そのような訳で、「アンセルムスの神の存在の証明、「人が、繰り返し『存在論的な』神証明と呼ぶ」こと、また「アンセルムスの神証明は、デカルトとライプニッツの……教えとは別の書物に書かれていることを見てとろうとしなかった」こと、またまさに人間学的領域において「『自然』神学」の段階で「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」(『カント』)とした「カントがそれらの教えに対して提示したことを通して、……論難されていると考える」こと――「それらのことは一語も……価値のない無思慮さであった」。

 

 

 最後に、ここまで論じてきて、われわれは、アンセルムスやバルトの思惟と語りが、人間学的領域における「『自然』神学」の最高峰のヘーゲルの思惟と語りだけでなく、そうしたキリスト教を客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判しているフォイエルバッハのキリスト教批判をも包括し止揚していることを知ることができるのである。また、バルトの真の処女作『ローマ書』「第二版序言」以降の神学の<全体性>における思惟と語りに対しては、次のような批判は全く通用しないことは明らかである――すなわち、例えば、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)、あるいは「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、あるいは「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、あるいは「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、あるいは類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」「存在者レベルでの神」、「(中略)〔存在者レベルでの〕神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、〔類的機能を持つ自由な〕人間的理性や〔際限なき〕人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)のような批判は全く通用しないことは明らかである、また例えば、ハイデッガーの、「『今日まさにこのマールブルク〔ブルトマン、ブルトマン学派〕では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる〔類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、〕存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか〔結局のところキリストにあっての神としての神を見失うことになる〕』」(木田元『ハイデッガーの思想』)という批判は全く通用しないことは明らかである。

 

それだけでなく、バルトの神学の真の処女作『ローマ書』「第二版序言」以降の<全体性>における思惟と語りに対しては、次のような客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的になされたマルクスの「『自然』神学」の段階における<共同宗教>としてのキリスト教批判に対しても、全く通用しないことは明らかである――「『自然神学段階における共同宗教としてのキリスト教の最後的形態は、観念の共同性を本質とするところの、<共同宗教>としてのキリスト教とユダヤ教の<宗教的対立の問題>(天上の問題・宗教の問題)と<法的政治的対立の問題>(信教の自由の保障という国法・憲法の問題)を包括し止揚した国法・憲法において信教の自由を保障した政教分離の<擬制>民主主義としての議会制民主主義に基づく政治的近代国家自由主義国家近代主義国家である。したがって、この国家の段階において国家の問題は社会的なすなわち現実的な<現世的>問題換言すれば観念の共同性を本質とする政治的近代国家自由主義国家近代主義国家に対する批判の問題となるこの反宗教的批判の基礎、「人間が宗教をつくるのであり〔すなわち、フォイエルバッハがキリスト教の本質を批判したように、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟が対象化し客体化した人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」における宗教が人間を造るのであり〕、宗教が人間を造るのではない、ということである」。「しかも宗教は、……人間の自己意識であり自己感情なのである」。しかし、マルクスは、さらにこのフォイエルバッハの思惟と語りを否定的に媒介することによって、「人間というものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない」、類的機能を持つ自由な自己意識・理性・思惟だけで生きている存在ではない、「人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である」。「この〔観念の共同性を本質とする、「共同の観念的形態」、「観念の共同的形態」としての〕国家は、この社会的結合が倒錯した世界であるゆえに、倒錯した世界認識である宗教〔すなわち、「『自然』神学」の段階における<共同宗教>としての宗教〕を生み出すのである」、「キリスト教ではなく、キリスト教の人間的基礎、〔観念の共同性を本質とする〕民主的国家の基礎である。ここでも宗教は、その国家の成員たちの観念的な非現世的な意識〔すなわち、「天国」・天上の意識〕として存続する。というのは、〔<共同宗教>としての〕宗教は、その国家において実現される人間的発展段階の観念的な形態〔「共同的な観念的形態」、「観念的な共同的形態」〕だからである」。「政治的国家の成員が宗教的であるのは、<個人的生活と<類的生活とが」、換言すれば「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争い、利害共同性との対立・争いのある<現実的な>「市民社会の生活〔すなわち、<現実的な>市民社会の中で、ある資質、職業、生活、感情、思想、信条、意志、構想をもって生きる<具体的な>私人として生活〕」(現世的生活)<>あたかもそうした対立・争いのない観念の共同性を本質とする法的政治的に統一された「公的共同性の一員としての生活〔すなわち、法的な政治的な<観念的な>「公民としての生活」(天国天上の生活)〕とが」、「二元的であるため」であり、すなわち人間が社会的な<現実的>生活と法的政治的な<観念的>生活との二重の生活を強いられるからであり、しかもその場合、観念の共同性を本質とする法的政治的な国家に第一義性・価値が移行し、天国、天上、「宗教が市民社会の精神となり」、「宗教は人間〔すなわち、具体的に私人として生きる市民社会の中での<現実的>生活における人間〕と人間〔すなわち、法的政治的な天国、天上の中での<観念的>生活における人間〕との分離の表現である」からであり、それ故に観念の共同性を本質とする公民としての生活が自分の真の生活であるかのように」、第一義化・価値化され強いられるからである。<共同宗教>を起源とする国法を媒介とする国家の問題、すなわち宗教国家の問題、換言すれば先ず以てプロイセン国家における国家の問題は、キリスト教とユダヤ教の宗教対立が問題(「天国」・天上の問題、宗教の問題)である。ここで、人間にとって部分的な観念的法的政治的な解放の問題は、「天国の批判」の問題、「神学の批判」の問題、「『自然』神学」の<段階>で停滞と循環を繰り返す<共同宗教>としてのキリスト教の僧・神学者の批判が問題である。何故ならば、ユダヤ人は、キリスト教を宗教とする国家に対して、宗教的対立の中にあり、そこではユダヤ人問題としてあるからである。したがって、この国家の段階において国家の問題は、<宗教的対立の問題>として、政治的近代国家、自由主義国家、近代主義国家の問題とはなってはいない。それに対して、フランス立憲国家は、政治的近代国家、自由主義国家、近代主義国家への途上にあるキリスト教国家である。この段階における国家の問題は、<天上の問題、宗教の問題>と<信教の自由の保障という憲法、国法の問題>として、観念の共同性を本質とする<宗教的対立の問題>と<法的政治的対立の問題>が併存している。また、それに対して、北アメリカ国家は、観念の共同性を本質とする国法において信教の自由が保証され政教分離が実現された政治的近代国家、自由主義国家、近代主義国家である(ここでの革命の問題は、観念の共同性を本質とする法的政治的な人間の部分的解放の問題、すなわち相対的部分的緊急的な「革命の過渡的問題」としてあった、人間の観念的政治的な<部分的解放>の問題としてあった)。さらに、この国家の段階において国家の問題は、現実的な<現世的>問題、換言すれば観念の共同性を本質とする政治的近代国家、自由主義国家、近代主義国家に対する<批判>の問題となる。ここにおいては、「宗教への批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する」、<共同宗教>としてのキリスト教の僧・神学者の批判は、国家の僧・神学者である制度としての官僚(すなわち、現実的な市民社会な生活、個別的私的具体的な生活における官僚ではなく、法の支配の下での法による行政に基づく政治的近代国家の職能団体における制度としての官僚)への批判に変化する。何故ならば、人間は社会的に、すなわち現実的に自由でなくても、解放されていなくても、観念の共同性を本質とする国家は、法的に信教の自由を保障する政教分離の自由主義国家、政治的近代国家、近代主義国家であり得るし、その時には、第一義性・価値性は向こう側、すなわち観念の共同性(「共同的な観念的形態」、「観念的な共同的形態」、「共同の幻想」)を本質とする国家の側に移行しており、それを疎外し外化したところのこちら側の主体、すなわち第一義性・価値性としての具体的な個体的自己としての全人間は<ただ恣意的にだけ>自由であり得るに過ぎないからである、その時には人間は、現実的な社会において経済的社会的な不平等や格差の中で現存していても、観念の共同性を本質とする国家においてはただ法的にだけ平等であり得るに過ぎないからである。このように、完成された政治的近代国家、自由主義国家、近代主義国家の中では、人間の思惟や現実的生活において、<天上の観念的な非日常的生活、政治的共同性における観念的生活>と<地上の現実的な日常的生活、市民社会的生活、個別的私的具体的生活>との二重の生活が強いられる。「『自然』神学」の段階における<共同宗教>としてのキリスト教は、政治的共同体がまだ整備されていない段階では、自己を至上のもの、第一義性、価値性と考える人間の自由な自己意識の表象であるが、政治的共同体が整備された政治的近代国家、自由主義国家、近代主義国家の段階においては宗教は、観念の共同性を本質とする国家の<法>を至上物と考える人間の自己意識の表象となって現われる。この完成された政治的近代国家、自由主義国家、近代主義国家における国家の問題は、観念の共同性を本質とする法的政治的国家と個別的私的具体的な生活の場である現実的な市民社会との対立の問題として現われるから、そこでは、観念の共同性を本質とする国家の問題は、そのような国家の無化を伴う、社会的な、すなわち現実的な人間の全体的解放の問題として現われる。このことは、観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う、現実的な社会の中でそれぞれが具体的に生き生活する個体的自己としての全人間の究極的総体的永続的な解放の問題、「革命の究極的問題」としてある、人間の現実的社会的な<全体的解放>の問題としてある(マルクス『ユダヤ人問題によせて』・『ヘーゲル法哲学批判序説』、吉本隆明『カール・マルクス』)。

 

現存する「『自然』神学」の最たる場所と従事者は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」「すべての大学社会の神学」、すべての大学社会の神学者たち(『カール・バルト著作集8』「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ」井上良雄訳)である。もしもそうであるならば、同じ大学神学者であったカール・バルトは、彼らとどこが違うのか? その決定的な差異性はカール・バルトは、彼らとは違って、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の」「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼し」(『教会教義学 神の言葉』)、それ故にその<総体的構造>に信頼し(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)、キリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、啓示神学、「『<非>自然』な神学」に立脚するという「自分の立場」において、一般的啓示、一般的真理、「存在の類比」、また古代ギリシャの哲学者やヘーゲルやハイデッガー等の哲学者の哲学原理を原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「人間学の後追い知識」としての「<混合>神学」・「<人間学的>神学」・「<哲学的>神学」に立脚するさまざまな「『自然』神学」を根本的に原理的に包括し止揚して、換言すればさまざまな「『自然』神学」の「問題を明確に提起する」ことを通して「『自然』神学」から対象的になって距離を取り得ていたという点にある。したがって、カール・バルトは、自然科学系と人文科学系の自由な学問と研究の場所である大学社会においても、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」ということを、それ故に神学も人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使しての知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトの対話』)ということを認識し自覚しつつ、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的奉仕」(「教会的な補助的奉仕」)としての<教会>教義学を、換言すれば<福音主義的な>教義学を構成でき得たのである。言い換えれば、バルトは、一方において大学神学者ではあったけれども、それと同時に、他方においてただ単なる大学神学者であっただけでなく神学における<思想家>でもあったのである。吉本隆明も、『どこに思想の根拠をおくか』(「思想の基準をめぐって」)で、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している中で、自らの立場において両者を包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である」と述べている。また、マルクスも、『ユダヤ問題によせて』で、「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」と述べている。このような訳で、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下からして、あの時代、あの世紀、あの時代と現実に強いられたところで、起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で思惟し語ったバルトは、すなわち「『<非>自然』な神学」の段階で思惟し語ったバルトは、神学領域における<思想家>であり、<最後の宗教改革者>であり、現在から未来に生きる言葉を述べようとした神学者なのである。このことが、それがバルト主義者であれ、中立バルト主義者であれ、反バルト主義者であれ、無関心バルト主義者であれ、自然科学系と人文科学系の自由な学問と研究の場の中にどっぷり浸かり切った「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」「すべての大学社会の神学」者たちには全く理解できないのである。

 

バルトは、真の処女作『ローマ書』「第二版序言」以降の神学の<全体性>における思惟と語りにおいて、次のように注意喚起を行っている――「『自然』神学」の段階において、「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、〔第二の形態の神言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神とは何の関りもない」(『教義学要綱』)、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な倫理的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」、「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における「福音が純粋ニ教エラレ聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ことはすべきではない、「正しい注釈を最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ことはすべきではない、「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合おうとする」ことはすべきではない(『教会教義学 神の言葉』)、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている。国家は支配であり、文化は支配である。したがって、〔それが西側のそれであれ、東側のそれであれ、どのようなそれであれ、〕どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、〔どのような文明的傾向にも、〕無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)、というように。したがって、革命の過渡的問題と革命の究極的問題とを明確に提起することもしないで、西側勢力は善であり東側勢力は悪であるという図式において事実政治に興味関心を持ち自ら進んで政治に関わろうとする政治好きなキリスト教的政治屋>ラインホルド・ニーバー(『共産主義世界における福音の宣教ハーメルとバルト』)とは全く違って、あくまでもただ不可避的にだけ政治に関わるバルトは、「平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、〔現存する世界が、経済の世界性<と>それが西側のそれであれ東側のそれであれどこのそれであれ自国の利害を第一義的に最優先し守り、勢力範囲の維持と拡大を目指すところの、一部国家支配上層の意思によって巨大で強力な国軍の軍事力を発動できる戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いている限り、戦争の可能性はあるのであるから〕戦争の可能性はあけておかなければならない」(『バルトとの対話』)と述べている。このような訳で、バルトは、「抽象的ニ」ではなく、あくまでもあの時代状況に不可避的に強いられたところで、その<相対的>評価において、自由および直接民主制と武装永世中立の緩衝国「スイスをナチズムからまもるために〔換言すれば、先ず以て国家(具体的には、現政府・現政権)を守るためではなく、先ず以て自国の自分の家族や親族や友人や、大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民を守るために、また国富を守るために〕、私は軍隊に参加し両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛するために、もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」と述べている。このような訳で、バルトの次のような発言には、客観的な正当性と妥当性があるのである――「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた。現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては、私の頭に存在したものではなくて、〔私を誤解し誤謬し曲解して、その「誤謬に普遍性と組織性の後光をかぶせて語ろうとする」(吉本隆明『カール・マルクス』)〕私の本を読んだ多くの人々の頭のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした人々の頭のなかにのみ存在していた」(『バルト自伝』)。

 

 自国の利害を第一義的に最優先し守ることをする戦争の元凶である民族国家自体は、一方で戦争回避の政治的駆け引きをするとしても、他方では軍事に関する科学や技術を進歩させ発達させ続けるし、少しでも勢力範囲の拡大を目指すから、不可避的、必然的には、全面的に戦争を廃棄し平和を実現することはできない。民族国家を単位とするNATO諸国家もロシア国家も中国国家等々も、自国の利害を第一義的に最優先して守るために、軍事力の拡大と高度化および勢力範囲の維持と拡大を目指すから、西側および西側勢力ならびに<賛>西側は善で正義であり東側および東側勢力ならびに<反>西側は悪で非正義であるという固定された図式で民族国家を単位とする西側勢力のNATOが自分たちこそが善で正義だとして東方拡大に向かうことに対して、その動きを阻止したいロシア民族国家はウクライナ民族国家を自国の脅威とならない緩衝国としようとすることは、民族国家にとって自然的な必然的な行動である。しかし、戦争によって犠牲になるのは、いつもそのような民族国家(具体的には、現政府、現政権)によって戦争へと駆り立てられ自分の家族や親族や友人やを死に追いやられて行く大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民であることからして、また戦争は国富を破壊することからして、どのような戦争であっても戦争は悪であり起こさない方がよいのである、例えば第二次世界大戦の状況下におけるバルトのように、「革命の究極的問題」からして国家は最後的には無化されるべきであるから、あくまでも<相対的に>国家の是非を判断することによって、先ず以て国家(具体的には、現政府・現政権)を守るためではなく、先ず以て自国の自分の家族や親族や友人や、大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民を守るために、また国富を守るために、ドイツ・ナチス国家のような敵国が攻めてきた時には、<不可避的に>その敵国と戦わなければならない時があるとしても。いずれにしても戦場で戦うそれぞれの民族国家の<一般>兵士たちは、先ず以ては現実的な社会の中でそれぞれが具体的に生き生活している大多数の被支配としての自分の家族や親族や友人やを守るために、また一般大衆、一般市民、一般国民を守るために戦うとしても、<戦争は民族国家間の争い>でしかないから、自分はその民族国家(具体的には、現政府、現政権)を評価し指示していないとしても、強制的にその民族国家(具体的には、現政府、現政権)を守らされているということになってしまう。

 さて、ロシアのインフラ攻撃による電力不足でウクライナの大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民は冬の酷寒に苦しんでいる状況下において、ゼレンスキー大統領が大統領府でTシャツ1枚でローアングルから自撮りしているニュース映像が流されていたのを観ていて、日本を含めて特に欧米メディアはこの一般民衆と支配上層との落差についての批判的な報道はしないが、私にはゼレンスキー大統領のそのデリカシーのなさを感じると共に、「もっと軍事支援を」と呼びかけているゼレンスキー政権(政府)の政治姿勢に疑問を感じた、例えば一国の貧困問題は、権力と金だけにしがみつく政府支配上層の政策の失敗の問題であるが、今回のウクライナ侵攻とそれに伴うウクライナ戦争勃発の原因は、民族国家を単位とする欧米の政策(NATO東方拡大政策)とそれに加担したウクライナ民族国家に対して、それを阻止しようとしたロシア民族国家の対抗措置にあるが、しかし、その戦争のために、現実的な社会の中でそれぞれが具体的に生き生活しているウクライナや世界中の大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民が食糧不足や食料費および燃料費の高騰等で苦しんでいるにも拘らず、「もっと軍事支援を」とだけ呼びかけて戦争を今後も継続しようとしているゼレンスキー政権(政府)のその政治姿勢に疑問を感じた。フランスのミシェル・フーコーと日本の吉本隆明が述べていたように、人類史において世界普遍性を獲得した「西欧」は現在「危機」の真只中にあり、その中でソ連は崩壊したが中国が台頭して来て、さらにその中国が今や経済的政治的軍事的分野においてだけでなく、宇宙開発分野においてもアメリカを抜く勢いで台頭して来ており、それ故にアメリカを中心とした欧米諸国は、現存する世界における宇宙開発を含めて経済的政治的軍事的な主導権を維持するために、先ず以ては「『お互いに敵とみなさない』との東西和解の合意にもかかわらず」、アメリカの「クリントン政権」が「NATO東方<拡大>に舵を切り」、まさに現在では先ず以てはロシアを弱体化させるために、経済制裁や反ロシアのメディア情報も利用しつつウクライナに軍事支援を継続していることからして、民族国家を単位とする欧米諸国は、欧米の政策(NATO東方拡大政策)のために、ただウクライナ民族国家を利用しているだけのようにも思えて来る。この時、犠牲となるのは、ウクライナ国家(具体的には、ゼレンスキー政府・政権)では全くなくて、ウクライナの現実的な社会の中でそれぞれが具体的に生き生活している大多数の一般大衆、一般市民、一般国民の生と生活である。この観点は重要である。欧米の中心的な主導国家のアメリカは、第二次世界大戦下では日本の広島と長崎の被支配としての一般民衆の生活圏に原爆を投下したし、ベトナム戦争では被支配としてのベトナムの一般民衆に対して枯葉剤を使用したし、イラク戦争では被支配としてのイラクの一般民衆の生活圏に劣化ウラン弾を撃ち込んだのである。これらアメリカの蛮行は、世界において主導権のあるアメリカがやったことであるから許されるということは全くあり得ないことである。欧米がやることは何でも善で正義だということは全くないし、欧米は何をやっても許されるということ全くないのであるから、ロシア民族国家(具体的には、プーチン政府、プーチン政権)が、ウクライナに<侵攻する前に>、ウクライナ戦争を回避するための<警告として>、欧米の政策(NATO東方拡大政策)とそれに加担するウクライナ民族国家に対して、ウクライナ民族国家が永久にNATOに加盟をしないことやスイスのような<緩衝国>化を要求したことは、自国の利害を第一義的に最優先し守ることをする戦争の元凶である民族国家の領域の問題からして無茶苦茶な要求ではないし、至極当然な要求であったということができる(ロシアによるクリミア併合は、NATO東方拡大政策に対するロシアの対抗措置だったと言えるが、その前例があるにも拘らず、欧米がウクライナ国家も巻き込んでNATO東方拡大政策を推進しようとしたことで、すなわち欧米とウクライナ国家がロシアの要求を呑まなかったことで、今回、ロシアのウクライナ侵攻とウクライナ戦争という事態が起きた)。したがって、民族国家を単位とする欧米の政策(NATO東方拡大政策)とそれに加担したウクライナ国家は善で正義であるということはできないのであって、ウクライナ戦争に関わった・関わっている民族国家は、すべて善でも正義でもないし悪しき国家なのである。もしもそうだとすれば、欧米の政策(NATOの東方拡大政策)に乗せられたウクライナ国家(具体的には、ゼレンスキー政府、ゼレンスキー政権)は、民族国家を単位とする欧米の政策(NATOの東方拡大政策)に加担するために、自国の現実的な社会の中でそれぞれが具体的に生き生活している大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民を犠牲にしたし犠牲にしている政府(政権)であるということになる。ウクライナ戦争の契機をつくった主要な欧米民族諸国家(具体的には、その現政府・政権)も、ウクライナ民族国家(具体的には、現政府、現政権)も、ロシア民族国家(具体的には、現政府、現政権)も善でも正義でもない悪しき国家である。このような訳であるから、現実的な社会の中でそれぞれが具体的に生き生活しているウクライナの大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民の生と生活を守るために、またウクライナの国富を守るために、ウクライナ国家(具体的には、現政府、現政権)が戦争を早期に終結させたいと真剣に考え、戦争の早期終結を真剣に目指すならば、一方では、ウクライナ国家(具体的には、現政府、現政権)が、東方拡大を目指すNATO加盟を永久に断念し、自由および直接民主制と武装永世中立の主権国家としてのスイスのような<緩衝国>の宣言をするところにしかないし、他方においては、その宣言に対してロシア国家(具体的には、現政府、現政権)が占領したウクライナの領土を返還すると共に、二度とウクライナに侵攻しないということを宣言するところにしかないことは明らかである。この時、後者の問題について言えば、現在のウクライナ戦争の勃発の契機は、ロシア国家(具体的には、現政府、現政権)が、欧米(NATO)の東方拡大政策の阻止とウクライナ国家(具体的には、現政府、現政権)のNATO加盟を阻止するところにあったにも拘らず、ウクライナ国家が自己決定権を持つ主権国家ということを盾にロシア国家のその要求を拒否したところにあったのであるから、ウクライナ国家自らが、欧米の政策(NATOの東方拡大政策)から手を引いて、ロシア国家(具体的には、現政府、現政権)の要求を受け入れれば解決する問題である。したがって、ウクライナ戦争の終結の難しさは、ウクライナ国家(具体的には、現政府、現政権)が、軍事支援等を続ける欧米の政策(NATOの東方拡大政策)に踊らされて、ウクライナ国家は自己決定権を持っている主権国家だということで、民族国家を単位とする欧米の政策(NATOの東方拡大政策)に加担することもウクライナ民族国家の自由だということで、戦争を継続することを宣言し、ロシアの要求を拒否し続けているというところにある。このことを考えると、やはり最後的には、ウクライナ国家(具体的には、現政府、現政権)が、自国の現実的な社会の中でそれぞれが具体的に生き生活している大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民の生と生活を守るために、ウクライナの国富を守るために、また同じように現実的な社会の中でそれぞれが具体的に生き生活している世界中の大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民の生と生活を守るために、火急的速やかに戦争終結を実現するために、民族国家を単位とする欧米の東方拡大を目指すNATO加盟を永久に断念し、自由および直接民主制と武装永世中立の主権国家としてのスイスのような<緩衝国>の宣言をするところにしかないと考える。

(文責:豊田忠義)